目賀田種太郎が韓国に渡り行った金融改革 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

目賀田種太郎が韓国に渡り行った金融改革

 

明治28年(1895年)、日清戦争で日本の勝利ののち、清と調印された下関条約に基づき、明治30年(1897年)、正式に清の冊封体制から独立することができた朝鮮(大韓帝国)。

しかし、独立したとはいえ、経済は麻痺して、独立国家としての国家運営は、とてもできていませんでした。

そのような状況にも関わらず、朝鮮に渡り、金融改革を断行していった日本人たちがいます。

朝鮮に渡った日本人たちは、目賀田(めがた)種太郎など当時の日本帝国の超エリートたちでした。

彼らはどのようにして、朝鮮を真の独立国家として礎を築いていったのでしょうか?

まず、目賀田(めがた)種太郎の略歴を簡単の述べます。

明治3年(1870年)、米国ハーバード法律学校(現在のハーバード大学)に留学。目賀田(めがた)種太郎17歳。

明治12年、日本に帰国。

明治13年、専修学校(現在の専修大学)を創設し、また、東京代言人組合(現在の東京弁護士会)の会長に就任。

明治16年、大蔵省書記官、大蔵省主税局、横浜税関長を兼任。

明治37年8月、日本と韓国の間で協約が結ばれました。「第一次日韓協約」

その協約の中で、「韓国政府は、日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問として韓国政府に傭兵し、財務に関する事項は全てその意見をとい施行すべし」と取り決められました。

この協約に基づき、明治37年10月、目賀田(めがた)種太郎が財務顧問として朝鮮に赴任。

当時の朝鮮での貨幣経済はどのようなものだったのでしょう
か?

山のような貨幣を詰めた袋を馬の背中にくくりつけて旅をしました。この貨幣は「葉銭」といい、穴が空いています。当時、50円の買い物をしようと思うと、この「葉銭」が30貫(約100キロ)必要でした。

これは現実的ではありませんでした。
(『朝鮮紀行』イザベラ・バード著)

また、「於音(おいん)」という約束手形も流通してました。これは償還義務がない不完全な手形でした。

農村では、土地は少数の両班が所有しており、農民の7割が土地を持たない小作農でした。

農民は、お金が必要となると、地主や商人から借りていましたが、その金利が驚くほどの高金利でした。

商人が貸し付けるもので、月利は、最高8分、最低5分2厘、普通6分6厘(年利では8割)。(この高利貸しのことを、「市邉(しへん)」と呼んでいました)

また、食料として農作物を現物で貸し借りが行われており、5割前後の利子をつけて、収穫期に現物で返済するというものもありました。(「長利(ちょうり)」)
(「朝鮮における金融組合の発達」静田均著)

農作物を現物で返済したあと、次の収穫期までに食料が不足すると、また地主からお金を借りなければなりません。(「春窮(しゅんきゅう)」)

この堂々巡りで、いつまでたっても農民が自立できる状況ではありませんでした。

田賀田種太郎は、このような貧しい農村で、なんとかして自立できる小作農を育てたいと思い、さまざまな改革を断行していきました。

明治40年5月30日、地方金融組合を設立。その最初の理事になった30名全員が、東洋協会専門学校(台湾協会学校)の卒業生でした。

明治42年5月に赴任した金融組合の理事の一人、小林省三は次のように当時を振り返りました。

「わずか三里に過ぎないが、当時この地方のみならず全朝鮮に暴徒が蜂起し、霊光地方は金海南の一派が跋扈跳梁しているので、

内地人(日本人)の往来は危険であると警告を受けたから、早速憲兵派遣所にて護衛を願い出たところ、同値まで完全に保護してくれたことは、今もって感謝している。

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加えて流言蜚語が盛んに行われ、日本政府がかかる機関(金融組合)を設けて土地家屋を担保として、朝鮮全土を挙げて日本の属領と化すのであると宣言したものだから、

無知の農民の大部分はこれが先入観に支配せられ、組合への加入などは思いもよらぬところであった。

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当時の米作は毛祖と称し、品質劣化なる毛もみ出会って収穫量も少ないから、これを内地の改良米種「早神力」と交換すべく各所に交換会を催し、

また短冊苗代、正条植、浮塵子の駆除などの奨励により、収穫期には稗抜より乾燥調整に到るまで、改良進歩に尽くして、朝鮮米が今日あるの礎を作り、

また綿花の栽培については、木浦(もっぽ)勧業模範場より「ミッドリング」の配布を受け、これを組合員に無料配布して普及発達を計るなど、

また全南栄山浦付近に縄叺(かます)副業の奨励を行い、今日同地方の特産物としての先駆けをなしたるが如き、あるいは、試作田、模範田を作り、刷新に尽くしたるなど、

これらの事例は一々枚挙するにいとまあらずであると共に、その功績は実に顕著なるものがある。

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金融組合は納税上の便宜と貨幣整理を助成する任務がある。当時、納税については金庫事務を取り扱う郵便局は葉銭(ようせん)の受け入れを拒否するので、

葉銭(ようせん)は一応組合に搬入して新貨と交換して後納入する順序となっていた。

当時政府は大体納税を十二月末日限り完納せしむる方針であったから、切羽詰まった大晦日には4、5里を隔つる四方八方より、

2、3十円位チゲ(背負子)につけて、組合目掛けて殺到するのであるが、

わずか2千円を新貨と交換せば、百万枚の葉銭(ようせん)を数えねばならぬから、もちろん執務時間中に終了せぬ。

夜間寒天に庭先で徹宵これを数え通して元旦の暁を告ぐる鶏の鳴き声を聴くというような情緒もあった。

こうして、この葉銭(ようせん)を引き上げ整理してこれが代金として新貨一銭銅貨10銭、20銭、50銭などの銀貨の散布普及を計らざるべからざるを、

何分、経済思想の幼稚なる時代であるから、この日本貨を歓迎してくれぬ。

貸付に銀貨を渡すと怪訝な顔つきで葉銭(ようせん)をくれという。

紙幣のごとき紙切れは一顧の価だにせぬ状態であったから、この葉銭(ようせん)の整理を行い、新貨の普及をはかりたることは、実に並々ならぬ幾多の苦心が存した訳で、真に想像以上だったのである。」と。
(「金融組合」昭和10年10月号)

葉銭(ようせん)を新貨幣と交換していた時代、相当な苦労があったのでしょう。

地元の朝鮮人たちにとってみれば、今まで使い慣れていた葉銭(ようせん)を新しい貨幣と交換されても、果たして本当にお金として使えるのかどうか、不信感があったと思います。

物々交換に毛の生えたような経済の時代、改革を推進してきた日本人の覚悟が伺えます。

しかし、日本内地から朝鮮に赴任してきた若い日本人が、朝鮮の現実を目の当たりにし、また、その改革の重責のため、自殺してしまうという事件も起きました。

創設当初の理事たちの苦労により、地方の金融組合は朝鮮全土に増えていき、大正2年には209箇所になりました。

模範的な朝鮮人の組合員の話が、金融組合の機関紙に次のように紹介されています。

「私が組合に加入したのは明治42年組合創設当時であります。その時代の経済状態は実に悲惨なものでありました。牛が買えなくて農耕に困難をしても、広い土地があっても開墾すべき荒地があっても、自分の手元にお金がないからいくら思っても空想で一つの夢をみるに過ぎない有様でした。

万一借り得たとしても金利が高くて月に5分、期限は3ヶ月か4ヶ月しかできないので、到底企業することは不可能でした。

ちょうどこの時農民にして資本がなく、仕事ができない者は皆ここに来いという金融組合が設立されたのです。

それで、私は諸手を挙げて賛成してすぐに加入しました。その当時は借入限度は50円でしたから50円を借りて牛を5頭買い求め、これを2年の期限つきで、2年後には元金5円を差し引き、その売値を半分にする約束の下に、その飼養方を人に託しました。

ところが、2年後には売却したら平均40円になりましたので、約束の通り履行したら私の取り前は110円になりました。

それで、借りた元金利息貯金とも70円を差引き、私は40円を儲けました。

以前は、組合に加入せよと勧誘されても、組合に入ると資産全部を奪い取られるような顔つきをして皆が逃げたものですが、昨今は頭を下げて加入を願うものが多いのを見ましても、私の米子時が一般に幾分かの手本を示したものでないかと思います。」(李柏英・伊川金融組合員)

「私の家は代々農家でありまして昔からこの土地に住んでおります。以前は相当の財産もあったそうですが、父の代になってから種々不幸が続いて先祖伝来の土地も失ってしまい、あまつさえ父は、私が11歳の時に、母と妹を残して黄泉(あの世)の客となりました。

到底一家を養うことができないのを祖父が同情して、私たちを引き取り養育してくれました。

そうして私が19歳の時、祖父の世話で妻を嫁取り、一軒の家を祖父より買ってもらい、別居しました。そうして、私は他の家の小作農となり、母は近所の仕事をしてわずかの賃金をもらってかろうじて生計を立てておりました。

ところが、今から14年前、私が41歳の時、鉄原村に金融組合ができたと聞きました。

知人から、君は貧乏しているが正直でよく働く、感心な男であるによって私が金融組合に紹介してあげるから、組合に加入して相当のお金を借り受け、その金で耕牛を買えと言われました。

私は喜んで早速紹介を頼み、明治42年六月に加入し、友人の保証で組合から50円を借り受け、牛を買い求めそれを飼育、翌年には高価で売り払い、相当の利益を得て、組合に返済しました。

こうして5、6年後には、組合のおかげで相当の蓄財もできましたので、大正2年、畑と水田を買い求め、所有地の収穫で十分一家の生活ができるようになりました。」(千聖弼・鉄原金融組合員)
(「金融と経済」朝鮮経済協会 大正12年(1923年)一月号)

このような模範的な朝鮮人の組合員の姿が、他の朝鮮人たちに影響を与えていきました。

それまでは、高利貸しの返済に苦しみ、土地もなく小作農での生活しかできず、先の希望が持てないような貧困生活をしていた、多くの朝鮮の農民たち。

そのような農民たちの生活を改善したい、という思いで、金融組合を作って農村の改革を断行していった、目賀田種太郎はじめ三十人の理事たち。

金融組合の創設時期である明治40年から42年ごろは、抗日闘争が激し時期であり、金融組合は日帝の植民地支配の尖兵とみなされて、攻撃の対象となりました。

この時期の組合関係の日本人は、護衛のためにピストルや日本刀を携帯しており、殉職した人も中にはいました。

まさに命がけで仕事をしていたのです。

命をかけてでも、朝鮮のために改革を断行する。そういった使命感を持った日本人たちが、たくさん朝鮮に渡っていったのです。

参考図書
「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」田中秀雄著