朝鮮の女子教育の発展に貢献した日本女性、淵沢能恵 | 誇りが育つ日本の歴史

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朝鮮の女子教育の発展に貢献した日本女性、淵沢能恵

日本統治時代、朝鮮の女子教育の発展のために、人生を捧げた日本女性がいます。

 

彼女の名は、淵沢能恵(ふちざわのえ)氏。

 

なぜ、彼女は朝鮮の女子教育のために、人生を捧げようとしたのでしょうか?

 

たまたま,釜石製鉄所にきていたアメリカ人の鉄道技師ジ ー ・バ ーゼ ルー家 が 、米国に帰国する際にメイドを探してい ることを知りました。

 

淵沢は、米国で医学を勉学することを志していたので、このメイドの仕事に応募して、明治12年(1879年)渡米。この時,淵沢能恵29歳。

 

しかし,ロサンゼルスのバーゼル家で、 1年3か月ほど住み込みで働きましたが、勉強する時間がなかなか取れないばかりか、日本人に対する差別がひどく悩んでいました。

 

そんな時に、サンフランシスコ領事の柳谷謙太郎から、ミス ・プリンスを紹介されて、移り住むことになりました。

 

しかし、養母からの再三に渡って日本への帰国を催促されたので、明治15年(1882年)に日本に帰国。

 

日本では同志社女学校で学び、東洋英和女学校や下関洗心

女学校などにて教員として勤務。

 

明治37年(1904)養母のカルが病死。この時、淵沢能恵54歳。

 

養母の死からなかなか立ち直れずにいた淵沢能恵ですが、1905年の春 ,友人から誘われたのをきっかけに、朝鮮に渡りました。淵沢能恵56歳。

 

朝鮮に渡ってすぐ赤痢にかかってしまい、しばらく病気療養することとなりました。

 

その病気療養中に、朝鮮の女子の実情を見聞きすることとなりました。

 

朝鮮では儒教の教えが強く、女性は男性に盲目的に従うものとされていました。

 

そして、朝鮮の女は日常生活をはじめ、自分の意思で決めることも行動することも許されていませんでした。

 

「自立」という言葉さえ、朝鮮の女性は知らないということでした。

 

「保養の間に朝鮮婦人の生活を見まして、彼等が毎日室内に ばかり閉じ籠もっているのを気の毒に思い、このままでは 朝鮮の婦人は滅びてしまおう、

 

何とかしてこの気の毒な人達 を救ってやらねばならないと存じまして ,先ずそ れ には 教育しなければならない、と思って始めたのが … 最初の動機であります」と。

(淵沢能恵 『婦女新聞』、昭和3年7月1日号)

 

そこで、淵沢能恵は日本に帰国せずに朝鮮に残り、朝鮮人の女子ために女学校を設立することを決意。

まず 、その準備作業として明治39年(1906年)1月、「日韓婦人会」を創設。

 

日韓婦人会の総裁は、高宗皇帝の側室である厳妃、 会長 に 李貞淑、副会長に李玉郷、総務に淵沢能恵がなりました。

 

しかし、この婦人会を事実上取り仕切っていたのは 、淵沢能恵と副会長の李玉郷でした。

 

明治39年(1906年)5月、「皇城新聞 」と「大韓毎日 申報」に,3 回にわたって生徒募 集の広告を掲載 。

 

応募条件は、年齢は11歳から25 歳までで未婚既婚を問 わ ず「士族女子 」という条件でした。

 

当時の入学審査はどのようなものだったのでしょうか?

 

「その頃の入学手続きのやかましかったこと, 先ず父の経歴 ,祖 父の経歴 ,曾祖父の経歴を調べ ,母方も同じように三 代に亘って調べて正しいと見たものでなければ入れな かったものです」。

 

明治39年(1906年)5月22日、「明新女学校」 (生徒募集時は「普信女学館」)を創立。

 

校長に李王朝の李貞淑を迎え、淵沢能恵は学監となりました。

 

創設当初は、5人の生徒からのスタートでした。皆、貴族の娘たちでした。

 

その時代 、貴族の娘は一人で外に出て歩くという習慣がない ため、,5人の生徒は毎朝毎夕、駕籠(かご)を使って登下校しました 。

 

当時は車もバイクもありませんので、歩くか駕籠(かご)を使って移動してました。

 

つまり、駕籠をかつぐ人が二人、代わりの駕籠担ぎ一人の合わせて三人もの男を伴って、娘一人が通学していたことになります。

 

そのため ,一 日の駕籠代が40銭にもなり、学校にはやれないという貴族が出てきたため 、 生徒たちを淵沢能恵の家に宿泊させるようになりました。

 

その後、間もなくして寄宿舎制度をとるようになりました。

 

しかし,「宿舎に入れてまで娘を教育する必要はない」と反対が起こってしまい,なかなか生徒を獲得することは難しい時代でした。

 

明治40年(1907年)、制服が制定されて、徒歩通学が奨励されました。しかし、当時の朝鮮で貴族女子が、徒歩で通学するということはありえないことでした。

 

「生徒が、 同じ洋服を着て , 同じ帽子をかぶっていれば , どこの誰かが分からず, 一人で徒歩通学することができるから」という理由もあり制服が制定されました。

 

明治44年(1911年)11月、学校名を「淑明女子高等普通学校」に改称。

 

この頃から、募集条件を貴族や両班に限定せずに、能力ある女子に教育の機会を均等に与えるために、幅広く門戸を解放しました。

 

李貞淑校長は、細かいことには口を出さず、教務、行政など一切を淵沢能恵学監に任せていました。

 

厳妃理事長も李貞淑校長も,学校経営には携わったことがないため、10余年の教員経験 を有 す る 淵沢能恵が、事実上、学校運営の全てを取り仕切っていました。

 

日韓併合時代の朝鮮の高等女学校は、 朝鮮人向け公立高女 , 日本人向け公立高女、朝鮮人向け私立高女、日本人向け私

立高女、内鮮一体型高女に分類されますが、淑明高女は、朝鮮人向け私立高女に分類されます。

 

当時、朝鮮人向け私立高女のほんどがキリスト教系の学校であり、日本人と朝鮮人の協力で作られた学校は、淑明高等女学校以外にありませんでした。

 

教員採用にも苦労がありました。

「男女室を異にするの風は極端に応用せられまして 、厳呼動 かす事はできません。

 

従 っ て 男子の教員は絶対に採用できませず 、 さりとて女 子に適材の無い当時でしたか ら、困難を感ぜしこといっそう多大でありました」

(淵沢能恵「婦 女新聞」明治48年 11月18日号)

 

教員も次第に増えて、1910年には、日本人女教師5名、朝鮮人教師5名になりました。

 

淵沢能恵は、当時の教育の状況を次のようにいいました。

「私は、朝鮮語も知らず に学校を始めて 、通訳に朝鮮 人で 日本の家庭にいたことがある女を頼みました。

 

日本語が解るといっても,茶碗箸などの固有名詞が解るだけ で 、 教えることも随分難 しいものでした。

 

そ の上に困ったことは朝鮮の女には全の数の観念がありません。

 

一二 三 四五 六七八九十と数えて ,一と一 を加 える と二 ということを教えようとしても,どうしても二になること、 合点がゆかないのです。

 

それ で も二 年ぐらい経って日本語 も解るようになり,生 徒 の 内 か ら通訳 す るものもで きま した。 数の観念のことですが 、自分の家計のことなどを婦人に聞いても一人も知っているものはありませ ん 。

 

経済のことは全く男子に任せて気にもかけないのでした。」と。

(淵沢能恵 「思い出すことども一朝鮮の女子教育を開拓してー 」、『婦人之友』1928年8月号)

 

また、当時の朝鮮人の女子は、男子の前に顔を出すという習慣がありませんでした。

 

淵沢能恵は、このような習慣を変えていかなければ、朝鮮人の女子に未来はないと考えていたので、あえて次のようなことをしました。

 

「(開校 2 〜 3 年後)校長 李貞淑 の 息子 が学校 を見学 したいとのことで ,私はどうしようかと思いました 。

 

朝鮮では貴女は他 人の男に顔を見せてはならないのです。けれども私はどうしても彼女 たちの知識のためにもこの習慣 は破 っ た方 が よい と,前々から思っていたので ,生徒に向かって申しました。

 

校長の李貞淑の息子なら決して私たちにとって他人ではありません。ですから学校の授業を見せて挙げてよいでしょう。

 

やっとの事で承知させました 。いよいよ漢文の時間その人が 教室の中に入って来られました 。

 

それを一目見た生徒達は今まで読んでいた本を捨て ,下を向いて机にしがみついています。 がたがたふるえて ,私が指名 しても本も読まなければ返事もしないのです。

 

けれどもこれ 以来,喜んで他からのお客様に顔を合わせるようになりま した。 」(淵沢 能恵 「思い出すことども一 朝鮮の女子教育を 開拓してー (『婦人之友』 1928年8月号 )

 

開校当初は、自立も反論もできないような朝鮮人女子でしたが、次第に抗日感情を行動に出すようになっていきました。

 

明治44年(1911年)11月3日、明治天皇の誕生日である「天長節」を朝鮮人学生にも祝うように強制しました。

 

この式典に、3年生16人はあえて学校を休んで参加を拒否しました。

 

李氏朝鮮国王であり、大韓帝国初代皇帝となり、併合後は日帝の王族として徳寿宮李太王となった高宗が、大正8年(1919年)1月21日、死去。

 

淑明の生徒たちは、教師の目を盗んで、学年単位で学校から抜け出 して、葬儀の列に参加しました。

 

大正8年(1919年)2月8日、在日留学生たちが 、東京で朝鮮の独 立宣言文を発 表。(2・8宣言)

 

大正8年(1919年)3月1日、京城市内のパゴタ公園で、朝鮮独立指導者33名が、独立宣言文を読み上げたのをきっかけに、朝鮮の独立を訴えるデモ行進が発生。(3・1独立運動)(万歳(マンセー)運動)

 

やがて朝鮮全土に拡がったデモ行進は、数ヶ月間続きました。

 

3月5日、淑明高校の女学生たちもこのデモに参加しました。生徒全員が太極旗を持ってソウル駅に向かう途中、日本警官から妨害を受けてバラバラになりました。

 

7名が逮捕されましたが、淵沢 能恵が「この子は私の生徒です。自分が全貴任を負います。」などと主張して身柄を引き取りました。

 

大正14年(1925年)、京城教育会長表彰を受賞。

 

大正15年(1926年)4月26日、高宗の息子である純宗が 死去しました。

 

40日後の6月10 日 、国葬が行われましたが、 その行列が通り過ぎて行く時,朝鮮の学生たちが、万歳(マンセー)を叫びながら一般群衆に檄文を撒いたため 、 警察に逮捕されました。(6・10万歳運動)

 

昭和2年(1927年)5月25日、淑明の学生全員400余人は、学校側に内地人(日本人)教師の排斥 ,朝鮮人教員の増加などを要求して、26日から一斉に同盟休校に入りました 。

(淑明同盟休校事件 )

 

生徒父母が中心となって学校側と交渉して、生徒の要求を一部受け入れる形で事態が収束し、再び学校が再開しました。

 

「一番悲しいことは何か起こりました時 、今まで自分が永年苦労したことは、この人たちのどこにも残っていないだろうかと思う時でありましたが 、教育事 業というものはやっぱりこんなものかとあきらめつつ導いて参りました。

 

決してあなたも生徒も悪いのではない。共産主義やその他いろいろな悪思想が入ってきたためです。

 

あなたは決して挫折してはいけませ ん 。それからまた ,一働きして参りましたような わけであります。」

(『婦女新聞』,昭和3年7月1日号 )

 

昭和4年(1929年)10 月30日、汽車で通学途中の朝鮮人学生と日本人学生の間で激しい口論となり、光州駅に降 りた時、殴り合いの喧嘩となりました 。

 

日本の警察が、日本人学生の肩を持ってかばおうとしたので、朝鮮人学生と日本人学生との間の感情的対立が大 き くな っていきました。

 

11月3日(明治節)、光州市内の全ての朝鮮人学生が団結して日本人学生との抗争を繰り広げて、独立万歳(マンセー)を叫びました。 (光州学生運動)

 

12月、この光州市内での日韓抗争は、他の都市に広がっていき ,各学校で一斉に独立万歳(マンセー)を叫んで 、光 州の学生の釈放を求めながら檄文を撒いて歩きました 。

 

淑 明か ら は 全校生 406 名が 参加。

以下は、「朝鮮総督府警務局極秘文書」から引用です。

 

「1929年12月10日,朝会後3年生の一生徒 昂奮の状にて 過激なる宣伝をなしたる者あり。校内に於いて動揺 し,教 室 に入 りたるものも真面目に授業を受けず、殆ど怠業状態にありたり。

 

同年12月11日,学校は本日より当分休校する旨発表し夫々 生 徒父 兄 に 通告 せ り。1930年1月15日、生 徒十名は白紙答案を提出す。

 

同 年1月16日,午前 9 時 40 分 ,3年生の動揺と共に他 の生徒之に雷同,二回に亘り喧噪したるが(生徒300名),警戒員 ,教師の制止により沈静せり。主謀者4名を検束す。

 

同年2月25日 ,槿友会本部常務執行委員朴次貞は、同志許 貞子等と生徒の不穏計画を煽動し,其方法等を支持したる者 なるが、

 

病気の為起訴中止中,慶南東莱に帰省 ,・・取り調べの上 ,一応身柄を釈放し去20日 , 起訴意見を附し事件を送致す (25日,京畿報)」

(朝鮮総督府警務局極秘文書『光州抗日学生事件資料』風媒社,1979年)

 

この事件をきっかけにして、淑 明高女では、教育の三育(知 育 ・徳育 ・体育)の中で、徳育に注目した修養徳目を定 め て いきました。

 

それは、「誠 実 ,敬 虔 ,貞淑 ,健康,協 同 ,実質,勤勉 , 自律 ,報恩 ,奉 仕」の10項目です。

 

その実践項目を31個作って、1日から31日までの日めくりで「日ごとの糧」というのを作りました。

 

この「日ごとの糧」は ,毎朝の朝礼の時に 、その日一日の実践項目を生徒全員で読み上げて、その項目を実践するように心がけさせていきました。

 

昭和2年(1927年)ソウル(当時は京城)に本社のある東亜日報社から教育功労賞を受賞。

 

淵沢能恵が、朝鮮での女子教育に力を注いでいた当時、朝鮮の女子の就学率はどのような状況だったのでしょうか?

 

昭和5年(1930年)時点の朝鮮人女性の識字率は、8.0% ,普通学校 へ の女子就学率は5.7%、という状況でした。

 

また、朝鮮の民間の教育機関である「書堂」への女子就学者は、1920年代はわずか5000人前 後で したが,その後増え続けて,1933 年 に 1万 人、1938年に3万401人、昭和17年(1942年)に4万7751人、 と急増していきました。

 

 

昭和10年(1935年)5月、朝鮮総督府施政25周年功労賞を受賞。

 

同年5月4日、李貞淑校長が76歳で病死。学校創設以来、以心伝心で苦楽を共にしてきたので、淵沢能恵はとても落胆しました。

 

次の校長に淵沢能恵が推薦されましたが、高齢を理由に固辞。

 

代わりに、ソウルの京城大学にて教授をしていた小田省吾を推薦しました。

 

「朝鮮の子女の将来は教育にこそある」という強い信念の元に、朝鮮での教育事業に身を捧げてきました。

 

淵沢能恵はなぜここまでして、朝鮮の女子教育に身を捧げて行ったのでしょうか?

 

 

また、「内鮮親善の心を以て 」という言葉もしばしば使っていました。

 

内鮮親善とは、朝鮮人を差別せずに、日本人と朝鮮人がもっと仲良くなりましょうという意味です。

 

昭和10年(1935年)年、地元新聞の「京城日報」では、淵沢能恵さんのことを次のように紹介しました。

 

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わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治38年に朝鮮へ渡って以来、雨の日も風の日も熱心に教育事業に携わり、今や86歳の高齢に達して病床に横たわる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、女子の教育に投じた人と言える。

 

そして前年、病に倒れた時、勲六等を授かった。しかし、そこまで漕ぎつけるには血涙を絞るような苦境に立った事も度々有ったようだ。

 

決して愚痴を言わない淵沢さんは、自分から、あれこれと言わないが、第一に朝鮮へ来た早々頭を悩ませた。

 

 女子の教育の必要は言うまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった。

 

自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に話をもちかけて見ると、趣旨には賛成するが、それだけの話で一向に動いてはくれなかった。

 

そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田畑を下賜されたので、学校の経営は始めて本格的になり、現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った。

 

卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが、その数20数名にのぼっている。

 

これらの教え子は、今いずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている。

 

『私は女性から政治家が出てもいい思っています。しかしそれは100人に1人とか1000人に1人で、政治家 となるべき特質をもったものに限られるべきで、例外の部類です。

 

一般の女性は、家庭にあって夫を助け、妻として又母として自然性に、そむかぬ本分を磨き、 且つその範囲の生活を完全に生活してゆくべきだと思います。

 

女子は家庭という範疇の中で縁の下の力もちとなることを喜び、信仰の生活を忘れてはいけないと 思います』

 

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(昭和10年(1935年)年9月4日〜21日、「京城日報」)

 

昭和11年(1936年)2月8日,肺 炎 の た め 86 歳 で 亡 くな りました 。

 

淵沢は生前、淑明女学校の運営について次のように語っていました。

 

「私は、校長になるような学も徳もありません。それに学監でありながら、実際は、校長の仕事を委されているのですから、心配でなりません」

(『婦女新聞』,昭和11年2月16日号)

 

50歳を過ぎてから見知らぬ土地、朝鮮に渡り、そこで一念発起して、女子教育のために残りの人生を捧げた淵沢能恵。

 

死ぬ間際まで、自分が産み育ててきた淑明女学校のことが心配で仕方がなかったのでしょう。

 

でも、その学校は終戦後も残り、多くの朝鮮人女子の卒業生を育ててきました。

 

(ちなみに終戦後の韓国では、淵沢能恵のことを、淑明女学校の設立の時に参加した日本人教師のうちの一人、ということになっています。

 

そして、学校設立は高宗王室 厳妃が行ったものであるとなっています。)

 

参考図書

「植民地下朝鮮における淑明高等女学校」太田孝子著

「朝鮮人を愛し、朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

『淵澤能恵の生涯 -海を越えた明治の女性-』村上淑子著,