広島原爆資料館を作り守った男 長岡省吾
広島に原爆が投下された後、黙々と石を拾い集めていた一人の男がいました。
彼の名前は、長岡省吾。
長岡さんは、広島文理科大(現・広島大)の地質学者で、理学部地質学教室の嘱託を務めていました。
原爆投下翌日に出張先から広島入り。
一面は焼け野原で、まさに地獄絵。
長岡さんは、護国神社の入り口の灯篭に腰を下ろしました。この時、手のひらが鋭利なもので刺された痛みを感じました。
よく見てみると、それは灯篭に使われていた花崗岩が溶けたものでした。花崗岩は600度以上にならないと溶けない岩石。
長岡さんは石の専門家なので、そのことがすぐわかりました。
これが溶けたとなると、特殊な爆弾が炸裂したに違いない。
痩せこけた長岡さんは、焼け野原を歩き回っていました。彼が黙々と拾っていたのは1円にもならない石ばかり。
当時、拾い物をする人はいましたが、彼らが拾うものは金目になる金属のみ。
しかし、長岡さんは、石のみ拾いました。そして、拾ってきた石を自宅に集めていきました。
ある日、長岡さんは奥さんから言われました。
「ピカドン(原爆)の放射能の影響で、病気になる人が出ていると聞きました。こんなものを家に集めるのはやめてほしい。よそに捨ててください。家族と石ころとどちらが大事なのですか?」と。
当時の浜井信三広島市長は、原爆資料館を作りたいと考えていました。長岡省吾さんが集めた石や瓦などの貴重な資料をみて、これをメインの展示にしたいと考えました。
昭和29年(1954年)3月1日、米国によるビキニ環礁での水爆実験で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の船員が被曝。
これをきっかけに日本で反核運動が起きました。
日本の反核運動に対して米国が過敏に反応。
米国は、正力松太郎を使って、原子力平和利用キャンペーンを、日本全国に大々的に展開していきました。
なぜ、これほどまでに米国は、過剰に反応したのでしょうか?
米国から2発の原爆を投下された被曝国日本で、反核運動が起きて、それがいずれ反米運動となることを米国は恐れていました。
なので、原子力平和利用の運動を大々的に展開して、日本での反核運動を押さえ込もうとしたのです。
そんな中、昭和30年(1955年)、広島原爆資料館(広島平和記念資料館)が開設。
翌年の昭和31年(1956年)5月から6月にかけて、広島原爆資料館が、原子力平和利用博覧会の会場に使われました。
21日間で11万人の来場者がくる大盛況でした。
この博覧会の期間中、原爆資料館の展示物は近くの公民館に移されました。
この原子力平和博覧会は全国的に開催され、原子力の平和利用の世論が一気に開花していきました。
原子力平和博覧会が終わった後も、広島原爆資料館にそのまま原子力の平和利用の展示を続けていこうという話が持ち上がりました。
そして、長岡さんは、渡辺忠雄広島市長から次のように要請されました。
「現在の原爆資料を他に移してほしい」と。
この要請に対して、長岡さんは一人立ち向かいました。
「一体どういうことですか?
原子力の平和利用の展示を続けるということは、国の命令ですか? それとも米国からの横やりですか?
原爆が頭上で爆発して、まだ10年しか経ってないのですよ。
あの時死んでいった14万の人々のことを忘れて、未だに原爆症で苦しんでいる人たちに向かって、原子力で豊かな生活をしましょうとは。
あなたは本当に言えるんですか?
私がここの館長をしているうちは、そんなことはさせません。
ここの展示は原爆の恐ろしさを伝えるための、亡くなった人たちの魂の叫びを伝えるためのものですから。」と。
長岡さんは、生き残った者としての責任を強く感じていました。
長岡さんの孤軍奮闘のおかげで、広島原爆資料館での、原爆の恐ろしさを伝える展示は残りました。
昭和35年、当時の皇太子殿下も広島原爆資料館を訪問。
昭和42年(1967年)まで、原子力平和利用の展示が、原爆資料館の一部で続けられましたが、同年5月に完全に撤去。
昭和20年8月6日の翌日から、長岡さんは、広島で黙々と石や瓦など拾い集めました。
このような地獄絵の悲惨さを後世の人たちに残したい。それがこの地獄絵の中、生き残った者の使命である。
その長岡さんの思いが、広島原爆資料館に受け継がれています。
参考動画
「ヒロシマを遺した男 〜原爆資料館誕生物語〜」TSSチャンネル