17歳の少女が、両腕を斬られ殺されかけたのに、なぜ恨まずに生きてこれたのでしょうか? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

17歳の少女が、両腕を斬られ殺されかけたのに、なぜ恨まずに生きてこれたのでしょうか?

 

 

 

17歳の少女が、義理の父に両腕を斬られ殺されかけました。しかし彼女は、その義父を許しました。

 

なぜ、少女は、自分を殺そうとした義父を、恨まずに生きてこれたのでしょうか?

 

明治36年、大阪で開かれた博覧会で、わずか16歳のよねが、妻吉という芸名で日本舞踊を踊りました。

 

天才芸人としてもてはやされていたよねをみて、大阪の堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」(やまうめろう)の主人、中川萬次郎が惚れこみました。

 

そして、よねは中川萬次郎の養女となりました。

 

明治38年(1905年)6月22日(よね17歳)、中川萬次郎が、妻の駆け落ちが原因で、酒に溺れて錯乱状態になり、同居していた家族5人を殺害。そして、よねの両腕を切断。(堀江六人斬り)

 

この時、よねは、両腕だけでなく口もとも斬られていましたので、叫びたくても叫ぶことができませんでした。

 

もし、この時、「助けて!」とか「キャッ」などと叫んでいたら、とどめを刺されていたことでしょう。

 

輸血技術のない時代、病院に運び込まれてきた、よねの状況をみて、医師たちは諦めました。

 

しかし、数日後、よねは意識を回復。驚異的な生命力でした。

 

しばらくして、警察がよねの病室に事情聴取にきました。その時、よねは起訴しないと伝えました。

 

それを聞いた警察官は驚きました。なぜなら、両腕を切断されて殺されかけ他のですから。

 

よねは、次のようなことを言いました。

 

「たとえ数ヶ月という短い期間であっても、私を実の娘として育ててくれた養父に対して、何もご恩返しができていません。

 

そんな義父を訴えるなど、私にはできません。義父の罪が軽くなるにはどうしたら良いですか?」と。

 

怪我が回復して退院した後、生活のために地方へ巡業に出かけました。

 

両腕を切断されてしまったので、踊り手としては満足な踊りはできませんでしたが、両腕のない見世物芸人ということで、舞台に上がりました。

 

仙台に巡業に行っていた時、鳥かごの中のカナリアの親子をみて、よねはハットしました。

 

そのカナリアの親は、口ばしに餌をくわえて、ひなに餌を与えていました。

 

何気ない光景ですが、両腕を失って意気消沈していたよねにとっては、この光景は衝撃でした。

 

そうだ、私には”口”がある、と。

 

それから、口に筆をくわえて、絵を描いたり、文字を描いたりする練習が始まりました。

 

明治41年、旅芸人から引退。そして大阪の道頓堀で両親と共に小料理屋「松川家」を開業。

 

当初は順調に行っていましたが、次第に経営は傾き多くの借金が残ってしまいました。

 

持明院の住職である藤村叡雲に、今後の人生相談にいきました。

 

尼になりたいとよねが打ち明けると、藤村叡雲は答えました。

 

「行き詰まったから尼さんにとは、とんだ心得違い。まず人の妻、人の母となれ。

 

今、頭を丸めても形だけのこと。他人の幸せを見れば煩悩の炎が燃える。心の障害がつきまとう。逃れてはならない。」と。

 

そう住職から言われても、よねは、この体で結婚できるとは想像できませんでした。

 

ところが、売れない画家でバツイチの山口草平氏から求婚されて、明治45年(1912年)結婚。

 

結婚してから数年の間に二人の子供が生まれました。大正2年(1913年)(よね25歳)、夫の山口草平氏の作品が、文展(文部省後援の芸術展)に入選して、生活も楽になっていきました。

 

何もかも順風に思えた幸せな生活でしたが、やがて夫が不倫をして、愛人を家に入れるようになりました。

 

よねは、当時の日記に次のように書きました。

「やはり私も女でした。人並みより深く妬みを持っていました。自分を斬った人でさえ憎まないようにしてきた私が、なぜ彼女が憎いのでしょうか?」と。

 

ある日、夫が、腸捻転のために生死の間でもがき苦しみました。その時、若い愛人は彼を献身的にサポートしましたが、よねは、何もしてあげることができませんでした。

 

両腕を持たない自分は、なんて無力なんだろう。

 

そんなこともあり、昭和2年(1927年)(よね39歳)、離婚。二人の子供をつれて家を出ました。

 

しばらくすると、激しい痙攣が襲いましたので、医師に診断してもらうと、職業病と診断されました。

 

よねの日記には次のように書かれています。

「自分は今まで無理に耐えて、平静を装ってきたのにすぎない。泣きたい、言いたい、怒りたい自分を抑えていた偽りの忍耐だったのだ」と。

 

しかし、この先二人の子供を養っていかなくてはなりません。両腕のない自分が、どうやって生活していけば良いのか途方にくれました。

 

順教は、どんな逆境にも耐えて、忍耐強く生き抜きました。

 

しかし、時々自殺を考えることもありました。もし、彼女が自殺をしていたら、他の多くの障害を持った人たちも同じように自殺をしていたかもしれません。

 

彼女は、43歳の時に、堀江事件の犠牲者の魂を鎮めるためにも、尼になろうと思いました。

 

昭和8年(1931年)10月、法名を「順教」とし、高野山金剛峯寺にて得度式を行いました。そして、大阪府高安村山畑(今の八尾市)にあった「無心庵」を見つけました。

 

全国各地から多くの障害を持った女性が、彼女の庵に連絡してきて、一緒に共同生活するようになりました。

 

そして、障害を持った人たちが、自分で独立して生活できるようにしていきました。

 

45歳の時に、彼女は、藤村叡雲導師の葬儀のために、般若心経と観音経のお経を口に筆を持って書きました。そして、その口筆を高野山に奉納しました。

 

46歳の時、彼女は陸軍省からの依頼により、戦地に慰問にいきました。

 

そこでは、彼女が訪れる場所はどこでも、彼女の口を使って絵を描くデモンストレーションを見て、負傷した兵士たちと病人たちに、独立の精神と将来への希望を与えました。

 

1936年(順教尼48歳)、京都山科の観修寺の境内に、収容された女性や子供達のために、福祉カウンセリング事務所「自在会実況園」を開設しました。

 

そして特に終戦後、戦争で破壊された家屋と人々の心を癒したいという彼女の強い願望から、地方巡業を精力的に行いました。

 

59歳の時(1947年)に、彼女は、京都市などの障害者組合の副会長として、障害者福祉協議会の京都府の重要な会議を継続的に開催しました。そして社会福祉にも大きな貢献をしました。

 

それに加えて、彼女は真言宗の京都山科会派の役員職を務め、同時に「自在会実況園」を前向きに解散し、仏教色と芸術性を強化するために「佛光院」を開設しました。

 

1950年(順教尼62歳)、厚生省の要請で、彼女は講師として派遣された 福祉法の施行を記念して、大会議が開催されました。そこで、参加者に対して大きな印象を与えました。

 

1953年(順教尼65歳)、彼女は、「腕塚」を作り、彼女自身の切り裂かれた両腕を安置しました。

 

その「腕塚」は、徳富蘇峰による大胆な筆跡が刻まれた自然石で作られています。

 

昭和30年(1955年)6月(順教尼67歳)、彼女は、「堀江事件」の犠牲者の50周年記念となる葬儀を、大阪の四天王寺にて開催しました。

 

罪を憎んで人を憎まずとことわざにはあります。養父である萬次郎から殺されかけたにも関わらず彼を許した、よね。

 

彼女の偉大な寛容さが、人々の心を打ちました。

 

同じ年の10月、彼女が口に筆を加えて描いた般若心経の作品が、日展の書道部門で入選されました。

 

昭和37年(1962年)(順教尼74歳)、彼女は世界身体障害者芸術家協会の会員に、日本人として初めてなりました。この協会は、両手を無くして、口や足を使って芸術を創作する、世界的な芸術家グループとして知られています。

 

1966年(78歳)、世界身体障害者芸術家協会の要請を受けて、西ドイツで個展を開きました。その展示物は、墨絵のような日本の純粋な形の絵画や、仏教画なお40点が展示されました。

 

これらの展示会は、大きなセンセーションを巻き起こし、西ドイツのテレビは全国ネットの番組で、この展覧会の模様を紹介しました。

 

順教尼78歳の時、最後の弟子として入門した南さん。

 

彼は、9歳の時に両腕を無くして、両親をはじめ周りの人を恨んでばかりいました。

 

そんな彼に順教尼は、次のように繰り返し言ってさとしました。

 

「ただでさえ体に障害を持っているのに、心まで障害を持ってしまってはいけない。そんなことでは、人は誰も相手にしてくれないよ。

 

体に持ってしまった障害は仕方がないけど、心の障害者となってはいけないよ」と。

 

順教尼は、自分は幸せな人生を生きたと思いました。なぜなら、3つの宝物を得たのだから。

 

3つの宝物とは、無手、無学、無財。

 

普通、否定的、悲観的に受け取れる要素ですが、彼女はそれを幸せの要素として受け止めたのでした。

 

彼女の言葉は、とても啓蒙的で深いです。

 

彼女は、いつも専用の「千手観音」をお守りとしても持っていました。そして、佛光院の境内に、慈悲の女神の助けを求めて困っている人たちを助けるために、「慈手観世音菩薩」の実寸大の像を作りました。

 

昭和43年(1968年)4月21日、観音像の祭祀の1週間後、彼女は亡くなりました。(享年80歳)

 

彼女の遺体は、生前の希望通り、京都大学に献体され、医学会に貢献しました。

 

葬儀の時に、大石順教尼が生前に録音したテープが流れました。

 

「ついに、行くところに行くことになりました。

 

皆様の暖かいご同情に、生かせていただきましたことを、永遠に忘れることではございません。

 

私は、自分が地獄に行こうと極楽にやっていただこうと、そんなことはちっとも考えてないけれども、ただ心にかかりますと申しますのは、決して少なくならないのは、体の障害の人たちのことでございます。

 

障害の人たちに、そうぞ、明るく、楽しく、強く、そして自分に与えられた職業だけを全うして行って欲しいと思います。

 

私は、両方の手を無くなったことが非常な幸せになりました。

 

この幸せは、やはり皆様のお力によって、できるだけのことを私もしてみたいと思って、ただ、なげかず、悔やまず、生きてきただけのことでございます。

 

皆様も、いつかはこちらの方にお出かけになると思いますが、そのご旅行は、ゆっくりと落ち着いてお越しくださればと思っております。

 

ではさようなら。」と。

 

大石順教尼の遺骨は、腕塚と慈手観世音菩薩とともに、高野山の奥の院で静かに眠っています。

 

参考図書

「大石順教尼」大石順教尼遺徳顕彰会