大地震が起きることを予測して、大儲けをした矢先に大借金をしてしまった男、高島嘉兵衛
幕末の江戸、大地震が起きることを予測して、大儲けをした矢先大借金をしてしまった男がいます。
彼の名は、高島嘉兵衛。
高島嘉兵衛は、千両の融通を鍋島藩に頼み込みにいきました。
なぜ、材木が儲けになるかというと、急に材木相場が暴騰するという読みがあったからです。
その読みは、巨大地震による家屋の倒壊。
高島嘉兵衛は、融資を受けた千両で、材木を買いあさりました。当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。
また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡しされることになっていました。
この慣習を破った者は、信用をなくして商売ができなくなる為、この約束は確実に守られました。
木材の現品の引き取りは5日以内。5日以内に地震が起きないと、大量に買い付けた木材を処分せきずに、高島嘉兵衛は破産となってします。
高島嘉兵衛、一世一代の大博打でした。
翌日の1855年11月11日(安政2年10月2日)、江戸の町に大地震発生。(安政の大地震)
当時の大学者、藤田東湖も、この時、水戸藩江戸屋敷で読書中、病床にあった母を救い出そうとして、梁の下敷きになり圧死。
高島嘉兵衛は、鍋島藩邸を尋ねて、倒壊した藩邸の建築工事を請け負い、前金を受け取りました。
次に、商談のまとまっていた材木問屋を順番に回って、残金を支払い、材木引取りの手筈を済ませていきました。
地震があってからわずか3日間で、材木の価格は4倍にも高騰していましたが、当初の契約通り、取引価格にて行われました。
さすが、信用第一の江戸商人。
高島嘉兵衛は、次に南部藩江戸屋敷を訪ねて、家老の楢山佐渡に会いました。
東北盛岡の南部藩は、鍋島藩から窮状を助けられたという経緯がありました。
高島嘉兵衛「白金の瑞祥寺、芝の金地院の墓石七十余基のほとんどが転倒しています。
このままにしていたら、南部様の御家名にもかかわりましょう。
地震発生からまだ40日も経っていません。この費用の全ては、手前がお引き受けいたします」と。
高島嘉兵衛は、南部藩家老の楢山佐渡から、南部家の暮石の修理と江戸屋敷の工事を請け負いました。
ただし、木材は南部領内で切り出したものを使い、そのぶんは工事費から差し引くという、南部藩にとってはお得な条件でした。
高島嘉兵衛は、わずか5日間で、全ての墓石をきちんと据え直して、欠けた部分はきれいに継ぎなし、苔を落として磨きをかけ、新品同様に完全に墓石を修復しました。
他の墓石はまだ倒れたままの状態だったのに、南部藩の墓石だけが真っ先に修復を済ませました。
まだ、屋敷の修復は手付かずだったのに、それよりも先に墓石の修復を行ったのです。
高島嘉兵衛のご先祖さまを敬う姿勢が、他の人の心を打ちました。
翌年の春から、盛岡で伐採された木材は、筏を組んで北上川を下り、石巻港から船積みされて、江戸の深川木場に運ばれていきました。
8月15日、強い台風が江戸の町を直撃。
この台風の影響で、深川木場の材木のほとんどすべてが海へ流れ出してしまい回収不能。
当時、建築工事の請負人は、天災などの不慮の事態が起きても、工事を完成しないと信用をなくしてしまい、二度と仕事は来ないという掟がありました。
この台風の影響で、江戸の木材相場と職人の手間賃は暴騰。高島嘉兵衛は、借金を重ねて、なんとか工事を完成することができました。
しかし、残った負債は2万両。
先見の明で、大地震が発生する前に大量に木材を購入して、大儲けをしたと思った矢先に、莫大な借金を背負うことに。