ウズベキスタンで真面目に働いた捕虜日本兵
ウズベキスタン人は、なぜ、親日なのでしょうか?
ソ連軍は、武装解除した日本軍兵士を捕虜としてシベリアなどに強制連行していきました。
(シベリア抑留)
1945年10月ごろから、ソ連軍は、捕虜として抑留した日本兵を貨車に乗せて、ウズベキスタンに強制連行していきました。
その数は、抑留した日本兵捕虜60万人のうち、約2万3千人余り。
戦争が終わって日本で帰れると思った矢先、奉天から列車で40日かけて強制連行されてしまったのです。
そのうち日本兵457名が、オペラハウスのアリシェル・ナヴォイ劇場などの建設に携わりました。
このアリシェル・ナヴォイ劇場とは、どのような建物なのでしょうか?
ソ連は、ソ連建国のきっかけとなった10月革命(1917年10月25日、グレゴリオ歴11月7日)から30周年にあたる1947年11月までに、アリシェル・ナヴォイ劇場を完成させる計画をしていました。
しかし、戦争が激化したために作業は中断していました。
ソ連は、そのオペラハウスを、捕虜日本兵を使って完成させようとしたのです。
永田行夫航空技術大尉は、アリシェル・ナヴォイ劇場の建設に割り当てられた数百人の日本兵の隊長として、任命されました。
当時の永田隊長は24歳、他の隊員もほとんど20代でした。
永田隊長は、過酷な労働条件の中、隊員たちをどのように鼓舞していったのでしょうか?
「再び日本に帰ってみんなで桜を見よう」と語っていきました。
生きる希望もなく、ただひたすら作業を繰り返す日々。そんな中、唯一の生きる希望は、いつか必ず日本に帰ることができる、家族と再開することができる、ということだったのです。
また、作業の合間に余興も行いました。
麻雀パイや囲碁、将棋、バイオリン、シンバル、マンドリン、太鼓、カツラなど小道具も自分たちで作って、演劇をしたりして楽しんでいました。
食事については、ノルマの達成度に応じて食事の量を加減するようにソ連兵から言われていましたが、永田隊長は、皆平等になるように交渉して認めてもらいました。
技術的な労働者は、ノルマの達成度が100%から300%程度になりますが、単純労働者ではどんなに頑張っても60%程度しかならず、職種によって割りが合わなくなるためでした。
いつ死ぬかわからない環境の中、一体自分たちはなんのために生きているのだろうかと、自問自答する日々もありました。
永田隊長は、全員が無事に日本に帰ることができるにはどうしたら良いかということを、隊長の使命として考えていたのです。
作業時間は、朝8時から夜5時まででお昼に1時間の休憩があり、週6日労働。
ウジとシラミと南京虫が、布団や衣服にたくさんいる中での生活で、シャワー(バーニヤ)に入ることができたのは、月1、2回ほどでした。
シャワー(バーニヤ)と言っても、小さな桶に入ったお湯と石鹸が配給されるだけ。
着ていた衣類を、50人単位でリングでつないで熱風炉の中に入れて、衣類に付着していたウジとシラミを退治することが、主な目的でした。
朝6時に起床して、夜9時に消灯という生活の繰り返し。
建設作業は、日本兵だけではなくウズベキスタン人と一緒にしてました。
地元のウズベキスタン人は、日本兵に対して差別や偏見の目で見ていました。しかし、次第に日本兵に対して尊敬の目で見るようになりました。
なぜなら、日本人は手先が器用であり、真面目で時間に正確であったためです。
当時、ウズベキスタンには日本以外の国の捕虜もいましたが、自動小銃を手にしたソ連の監視兵がいなくなると、彼らは皆サボっていました。
しかし、日本兵だけは、ソ連の監視兵がいなくても、サボることをせずに黙々と作業をしていたので、地元のウズベキスタン人から尊敬の目で見られるようになったのです。
その他の強制抑留の人たちはどのような作業をさせられたのでしょうか?
森林伐採、鉄道修理、炭鉱作業、農場作業などでした。
冬場の最低気温は零下50度にもなりましたが、十分な防寒着もなく、食料も十分ではなく、飢えと寒さとウジ、シラミ、ナンキン虫に耐える日々でした。
食事は全てノルマによってその量が加減されていましたので、飢えで栄養失調の人は働きが悪くなり、ノルマ達成率も悪くなるので、食事の量もまた減らされてしまうという悪循環でした。
春先になると、たんぽぽの芽が出てきますが、その芽と根っこを食べて飢えをしのいだりしました。
そんな飢餓の中、多くの日本兵が亡くなっていきました。
永田隊長は、日本にいる家族に連絡をしなくてはならないと思い、隊員の名前と住所を全て暗記していました。
作業中2人が亡くなってしまいましたが、残りの455人は日本に無事帰ることができました。
抑留生活を約3年過ごした昭和23年(1948年)5月、日本兵に日本への帰国が許されました。
作業を積極的に行なったもの、進歩的な思想(共産主義)の持ち主が、優先的に帰国を許されていきました。
ナホトカまで貨車で運ばれ、日本の輸送船にのり舞鶴港へ。ナホトカでは、反動分子の扱いを受けないために、赤旗インターナショナルの歌を覚えさせられ、ソ連礼讃のアジ演説を聴きながらの帰国でした。
ウズベキスタンには日本人墓地があります。
日ソ共同宣言が行われた1956年までに、ウズベキスタンでは884名の日本兵士が亡くなりましたが、このうちの一部の方たちが、日本人墓地に埋葬されています。
1958年、ソ連は国内各地にあった日本人墓地を閉鎖するように命令しました。ウズベキスタンには15箇所の日本人墓地がありましたが、2箇所を除き他の日本人墓地を更地にせよとの命令だったのです。
しかし、地元のウズベキスタン人はソ連政府からの命令を無視して、日本人墓地を更地にすることなく守り続けてきました。
なぜ、ウズベキスタン人たちは、ソ連政府の命令を無視してまでして、遠い遠い外国からきた日本人の墓地を守ろうとしたのでしょうか?
日本兵士たちは、ウズベキスタン人からとても愛されていたのです。
アリシェル・ナヴォイ劇場を建築作業中のある日、ウズベキスタン人で現場監督をしていたアミノフさんが、薬品を全身に浴びてしまい、命に関わる大怪我をしてしまいました。
日本兵の中で医療経験のある臼田さんが、献身的に看護をしたおかげで、奇跡的にアミノフさんは助かりました。
アミノフさんは亡くなる前に、孫娘のノディラさんに次の遺言を残しました。
「大きくなったら日本に行って、自分の命を救ってくれたが日本に帰ることもできずに、今もタシュケントのお墓で眠っている、臼田さんの家族を見つけてお礼を言ってほしい。
そして、日本とウズベキスタンの架け橋になってくれ」と。
1966年4月26日、ウズベキスタンの首都タシュケント市内に大きな地震が襲いました。
この地震で、タシュケント市内の建物がほとんど倒壊したにも関わらず、アリシェル・ナヴォイ劇場は、ビクともせずに残りました。
そして、このアリシェル・ナヴォイ劇場は、避難所として活躍しました。
シベリアで抑留され、ウズベキスタンに強制連行された日本兵たち。
彼らは、ソ連の監視兵のいない時でもサボったり腐ることなく、献身的に建物の建設などに従事していきました。
いつ日本に帰れるかわからないような、全く希望の持てないような環境でも、飢餓と極寒とウジ、シラミ、ナンキン虫に耐えながら生きた、日本兵士たちには頭が下がります。