日航機123便墜落事故は、誰かに撃墜されたの? | 誇りが育つ日本の歴史

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日航機123便墜落事故は、誰かに撃墜されたの?

昭和60年8月12日、日本航空のジャンボ機が、群馬県の高天原山の尾根(御巣鷹)に墜落し、520名が死亡しました。(日本航空123便墜落事故)

 

昭和62年6月に公表された事故調査委員会(事故調)の報告では、ボーイング社の修理ミスにより、機体の後部にある圧力隔壁が破壊したため、垂直尾翼が破損して操縦不能に陥り、山に墜落したとされています。

 

本当でしょうか?

 

この事故調の報告書にはいくつかの矛盾点があるため、これまで様々な陰謀説も広まっています。

 

矛盾点その1

 

離陸から12分後、衝撃音と共に垂直尾翼の上半分が破損したとあります。この時のジャンボ機は、高度約24000フィート(7314メートル)を航行中。

 

もし、この高度で航行中に圧力隔壁と尾翼が破損して機体の一部に穴が開くと、機内の気圧が急激に減圧して酸素濃度も半分以下に落ちてしまいます。

 

緊急時には酸素マスクを使用するように案内がされますので、乗客乗員は皆、酸素マスクを使っているはずですが、ボイスレコーダーに記録された機長や副操縦司の音声は、マスクを着用しながらの会話ではありませんでした。

 

日航機123便は、17分間もの間、高度20000フィート(6000メートル)以上の高度で航行していました。

 

その後、機体を安定させるために高度を6000フィートまで下げていきます。

 

17分間もの間、高度20000フィートで急減圧した機内で、酸素マスクもつけずに正常な意識を維持できるのでしょうか?

 

米国ノースダコタ大学航空学部での実験では、24000フィートの高度での急減圧の後、酸素マスクを使わないと約6分で意識がもうろうとしました。

 

矛盾点2

 

ボイスレコーダーに記録されている『オレンジエア』という言葉。

 

この言葉は、事故調の報告書では『オールエンジン』と記されており解読不確実とコメントされています。

 

この言葉は、カナダにある音声解読を専門に行うセレリス社(Celeris Aerospace Canada Inc.)が解読したところ、「オールエンジン」という言葉ではなく、「プルインギア」または「ボディギア」ではないか、と推定。

 

「ボディギア」とは、機体に格納される車輪のことでこの車輪の格納する角度により、機体の気圧を調整することができます。

 

「プルインギア」という言葉は、日航パイロットは使わない。ボイスレコーダーの会話の流れでは、「ボディギア」ならつじつまが合います。(事故調で音声分析を担当した宇津木成介 神戸大学教授)(元日航パイロット藤田氏)

 

しかし、素人ながらボイスレコーダーを何回も聞き直しても、「ボディギア」とも「オールエンジン」とも聞き取ることができません。

 

やはり「オレンジ エア」としか聞き取れません。

 

では、もし「オレンジ エア」だったら、それはどのような意味になるのでしょうか?

 

『エアー』を英語表記すると"Air"または"AR"。"AR"だとすると"Aircraft Rocket"の略語となり、これは実際に使用される言葉です。

 

"Aircraft Rocket"の意味は、なんと対空ミサイル。

 

「オレンジ エア」とは、オレンジ色の対空ミサイルということになります。

 

ボイスレコーダーでは、機長が「ギア(車輪)をみて」と問いかけ他のに対して、副操縦士か機関士が、スコーク77 (7700)(緊急救難信号)を発信して、「オレンジ エア」と答えています。

 

また、海上自衛隊の隠語で誘導ミサイルや無人標的機のことを「オレンジ エア」と言います。日航機123便の高濱機長は、海上自衛隊出身でした。

 

矛盾3

墜落後救出まで14時間もかかったのはなぜ?

 

当時、横田基地で航空士をしていた、元米空軍のマイケル アントヌーチ氏(「インサイド カリフォルニア」誌編集長)は次のように語りました。(サクラメント ビー紙 1995年8月20日付)

 

午後6時25分、日航機123便が東京管制塔に緊急信号「スコーク7700」を発信。

 

この通信を傍受した米軍輸送機C130の乗組員は、一大事であると判断。

 

午後6時56分、日航機123便がレーダーから消失。

 

午後7時、横田基地の司令部は、現場付近を航行中の米軍輸送機C130に、日航機123便の捜索を指示。

 

午後7時15分、米軍輸送機C130は、日航機の墜落現場を発見し、位置情報(横田TACAN 方位(305度)、距離(34マイル))を、航空自衛隊中央救難調整所に連絡。

 

輸送機C130は、墜落現場上空を1時間ほど旋回してましたが、午後8時すぎにキャンプ座間から米陸軍のUH-1ヘリが到着。(米空軍ジョン グリフィン大尉の証言)

 

現場に到着したUH-1ヘリは、上空をホバリングしながら兵隊が地上に降下する準備をし、横田基地に救出の許可をとりました。

 

しかし、横田基地の司令部は「直ちに基地に帰還せよ」と指示。

 

航空士のマイケル アントヌーチ氏は答えました。

「なんですって。もう一度言ってください。兵士を地上に降ろす準備はできています。準備は万端なのです。」と。

 

横田基地の司令部は言いました。

「日本側が来るから、直ちに退去せよ」と。

 

横田基地に戻ったマイケル アントヌーチ氏は、今回のことはマスコミには一切喋るな、と上官から口止めされました。

 

事故の生存者である、落合由美さんの証言です。

「(墜落した後)やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。

 

ずっと手を振っていたんですけど、気がついてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。」と。(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社)

 

航空自衛隊はどのような行動をしていたのでしょうか?

 

19時21分、航空自衛隊の百里基地をF-4戦闘機の2機が緊急出動。墜落現場の火災を発見して、横田TACAN 方位(300度)・距離(32マイル)を通報。

 

「横田TACAN」とは、設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から、現場を測定する方式。GPSが採用される前までは、もっとも精度の高い測定方法でした。

 

19時54分、KV-107ヘリコプターが、救難・救助のため百里基地から見切り発進。

 

20時33分、救難調整本部(東京空港事務所長)は、航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)。

 

20時42分、KV-107ヘリコプターが、墜落現場に到着。

 

しかし、到着したKV-107ヘリは、救難用サーチライトを装備していましたが、夜間の森林へ降下することで二次災害が起きることを考慮して、救助活動は行わずに帰還しました。

 

陸上からの救援活動は、現場の位置情報が2転3転してなかなか特定できずにいました。墜落現場付近に在住の第一通報者からの情報は、正確だったのですが、その情報は生かされることはありませんでした。

 

翌朝の8月13日午前4時30分、航空自衛隊救難隊が、墜落機体を発見。

5時10分、陸上自衛隊ヘリが機体確認。

5時37分、長野県警ヘリが墜落現場を確認。

 

午前8時49分、救出開始。この時すでに墜落から14時間が経過していました。

 

防衛庁(当時)は、米軍へりが墜落直後に現場に飛来していた事実を否定。

 

このような矛盾点により、様々な陰謀説が広まっています。

 

陰謀説1

 

パソコンのOSとして日本が開発中だった、トロンの開発技術者17名を抹殺するために、米軍が日航機を撃墜した。

 

陰謀説2

 

事故の1ヶ月後の9月に、米国の対日貿易赤字を解消するために、円高ドル安への為替操作をすることに合意(プラザ合意)させるために、日本を脅かす目的で、米軍が日航機を撃墜した。

 

陰謀説3

 

米軍のミサイル誤射により、民間航空機が犠牲になった。

 

いずれの陰謀説も米軍により撃墜された、となっています。

 

そして、この米軍による民間航空機撃墜の事実を隠すために、現場の位置特定に時間がかかったのである、という理論です。

 

また、墜落した当初は、生き残っていた人がたくさんいたという証言があります。(生存者である落合由美さん、川上恵子さん)

 

これらの生き残りの人たちは、証拠隠しのために殺害されたのではないか、という説もあります。

 

いずれの陰謀説も嘘か本当かわかりませんが、いくつかの矛盾点を考えると、事故調査委員会の報告が事実とも思えません。

 

ミサイル誤射なのか、プラザ合意のためなのかわかりませんが、米軍に撃墜されたために墜落したということでしょう。

 

なぜなら、「事故原因をギリギリまで究明しようとすると戦争になる」、と当時の前橋地検の山口悠介検事正が、遺族の方を集めた説明会にて、表明していたからです。