なぜ、シベリアの尼港で、日本人が大虐殺されなければならなかったのでしょうか? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

尼港事件とは?

 

樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する小さな町、尼港(ニコライエフスク)。

 

尼港(ニコライエフスク)で、日本人を含む民間人の大虐殺事件が起きました。

 

一体なぜ、民間人が大虐殺されなければならなかったのでしょうか?

 

大正6年(1917年)10月25日(11月7日)、社会主義左派のボリシェヴィキにより、ロシアにクーデターが起きました。(ロシア革命)

 

大正7年(1918年)5月、シベリアにいたチェコ軍が、ボリシェヴィキ政権に対して蜂起。

 

白軍(反革命軍)側についたチェコ軍は、約4000人が犠牲となり、チェコ軍を救援するために、日本、英国、フランス、米国、イタリアの連合国が、 シベリアに派兵。

(シベリア出兵)

 

11月、英国の支援の元、クーデターを起こして、ボリシェヴィキ(過激派な共産主義)政権を倒して、コルチャーク政権(反共産主義)が樹立。

 

ボリシェヴィキ(過激な共産主義者)が組織したパルチザン(赤軍)が各地で、連合軍との小競り合いを起こしていました。

 

ウラジオストクにいた李東輝は、レーニンから資金援助を受け、抗日独立を目標にして活動していました。

 

シベリアの抗日朝鮮人たちは、のちにパルチザン(赤軍)に合流して、尼港(ニコライエフスク)事件を起こしました。

 

大正8年(1919年)2月8日、在日東京朝鮮YMCA(現在の在日韓国YMCA)の講堂で、「朝鮮留学生学友会総会」が開催され、李光洙など独立団代表11名の署名入り独立宣言文が採択。(2・8独立宣言)

 

この独立宣言文は、日本の貴族院、衆議院の議員たち、政府要人、各国駐日大使、内外言論機関宛に送られました。

 

大正8年(1919年)3月1日、朝鮮半島で独立運動が起きました。在日の留学生たちの多くが朝鮮に戻り、独立運動に参加。(3・1独立運動)

 

在日東京朝鮮YMCA(現在の在日韓国YMCA)は、朝鮮独立運動家たちの策源地でした。

 

朝鮮独立運動家たちの多くは逮捕されましたが、彼らの支援活動をした日本人弁護士もいました。

 

この朝鮮人の独立運動家の中に、日本陸軍の中尉であり、陸軍士官学校出身のエリート、金擎天がいました。

 

金擎天は、表で日本陸軍の士官でありながら、地下では、朝鮮人の独立運動家として活動をしていました。

 

金擎天は、ウラジオストクに入り、抗日朝鮮人のパルチザン部隊(赤軍)を率いて、白軍との戦いで活躍していきました。

 

金擎天が指揮したパルチザン部隊は、際だって規律が高く、赤軍の指導者からも賞賛されました。

 

金擎天は、白馬にまたがった金将軍として、1920年代、朝鮮半島の新聞紙上でもっとも多く報じられた、独立運動家でした。

 

のちの金日成将軍伝説のモデルとなった人ですが、北朝鮮の初代国家主席の金日成とは別人であります。

 

シベリアには高麗人が多く住み、朝鮮の独立を目指した抗日朝鮮人のゲリラ部隊が活動してました。そのリーダー的存在が、李東輝でした。

 

李東輝は、大正8年(1919年)4月上海にて独立宣言をした、大韓民国臨時政府の国務総理に就きました。

 

この臨時政府の初代大統領は、のちの韓国初代大統領である李承晩です。

 

大韓民国臨時政府は、当時の中国国民党を始め米国、ソ連など世界中のどの国からも独立国家として承認されませんでした。

 

しかし、現在の韓国の憲法の前文には、次のように書かれています。

 

「我々、大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し」と。

 

韓国の建国は、対外向けには1948年8月15日となっていますが、国内向けには、1919年4月であり来年の2019年4月が建国100周年である、と韓国内の学校では教えられています。

 

朴イリアが率いるサハリン部隊も、尼港で起きた日本人虐殺事件に加わりました。

 

大正8年(1919年)11月、コルチャーク政権(反共産主義)が崩壊。

 

チェコ軍は戦闘を停止し、白軍(反革命軍)は劣勢となったので、大正9年(1920年)以降、連合国は相次いで撤兵していきましたが、日本軍だけがそのまま駐留しました。

 

連合国軍が相次いで撤退したのち、尼港(ニコラエフスク)

をパルチザン(赤軍)が包囲しました。

 

パルチザン(赤軍)4,300人のうち、中国人の過激派(パルチザン)は300人、朝鮮人の過激派(パルチザン)は1000名。

 

大正9年(1920年)2月4日、白水淡中将は、尼港(ニコラエフスク)守備隊へ次のように打電しました。

 

「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」と。

 

この指令に従い日本守備隊は、パルチザン(赤軍)に尼港の町を一望できるチヌイラフ要塞を明け渡しました。

 

チヌイラフ要塞を占領したパルチザン(赤軍)は、海軍無線電信所を砲撃して電信室を破壊。

 

これにより、日本守備隊は外部との通信ができなくなってしまいました。

 

日本陸軍は、直ちに増援しようとしたのですが、砕氷船を持たない日本軍が、堅氷に閉ざされた尼港(ニコラエフスク)に船舶を近接させて上陸することは不可能だったため、増援は延期されてしまいました。

 

2月21日、ウラジオストクのトリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍に、次のように打電しました。

 

「尼港(ニコラエフスク)の日本軍は、通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、戦闘を停止するよう指示してもらいたい」と。

 

これに対し日本陸軍は、次のように回答。

 

「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。

 

パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」と。

 

2月23日、白水師団長は、守備隊長の石川少佐宛に次のように指令。

 

「パルチザン部隊(赤軍)が、日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」と。

 

この指令に基づき、日本軍は、パルチザン(赤軍)との間に協定を結び、白軍を虐殺しないことで合意。

 

2月28日、パルチザン(赤軍)が、ニコラエフスクに入城。

 

すべての職場で労働組合を組織することが命令され、拒否した場合、殺害されました。また、すべての新聞の発行が禁止隣、資産家の財産が没収されました。

 

また、パルチザン部隊(赤軍)は、日本軍と結んだ尼港(ニコラエフスク)城の開城合意条項を全く無視して、白軍兵士だけでなく、教養のある層の一般市民を中心に、多くの人々を虐殺していきました。

 

またパルチザン部隊(赤軍)は、尼港(ニコラエフスク)市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、ロシア革命記念日に日本軍を抹殺する計画を立てていました。

 

ロシア人は日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちが殺されるのではないかと、不安な日々を送っていました。

 

日本軍は、略奪、殺人、強姦(レイプ)をやめるように、毎日パルチザン部隊(赤軍)本部に訴えて抗議したのですが、全く無視されました。

 

そこで、『日本軍とパルチザン部隊(赤軍)との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配りましたが、パルチザン部隊(赤軍)によって破棄されてしまいました。

 

3月10日、日本守備隊長の石川少佐と石田虎松領事は、パルチザン部隊(赤軍)のトリャピーツィンに、暴虐行為をやめるように勧告。

 

3月11日、日本の勧告に対してトリャピーツィンは次のように回答。

 

『内政問題なのであなた方には関係がない』と。

 

さらに、日本軍に武装解除と武器弾薬の全ての貸与を要求。

 

トリャピーツィンにとって、日本軍は邪魔な存在でしたので、日本軍を挑発して抹殺してしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけたのでした。

 

このパルチザン部隊(赤軍)の最後通牒の期限は、翌日の3月12日正午となっていました。

 

日本側はこのような最後通牒を受けて、どう対応したのでしょうか?

 

日本守備隊長の石川少佐は、「武装解除をするとなると軍事会議を開かなければならない」、と回答。

 

しかし、3月11日の夜、赤軍の参謀長ナウモフは、石川少佐を赤軍本部に呼んで、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と鋭い語気で伝えました。

 

3月12日の午前2時、日本軍は、パルチザン部隊(赤軍)を攻撃。

 

この日本軍決起により、日本人居留民は全員虐殺されてしまいました。

 

ソ連側の文献は、「日本人居留民が殺された責任は、すべて日本軍が武装解除しなかったことにあるのであり、パルチザン(赤軍)には全く責任はない」と。

 

ソ連の歴史では、「尼港(ニコラエフスク)の占領は、英雄パルチザン部隊による誉れ高い偉業」と教えられています。

 

3月14日早朝、パルチザン部隊(赤軍)は、中国軍から貸与された艦載砲とガトリング砲で、日本領事館を火の海にして包囲。

 

石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得しましたが、パルチザン部隊(赤軍)は、問答無用と一斉射撃。

 

石田領事とその家族、石川少佐をはじめとする海軍電信隊、領事館に避難していた居留民たちが虐殺されました。

 

後藤大尉が率いる隊は、領事館から逃れた残りの日本人居留民たちを、近くのアムール河に停泊していた中国軍艦に助けてもらおうとしたのですが、

 

陳世栄艦長率いる中国艦隊は、逃げ延びた日本人居留民を保護するのではなく、艦砲射撃をしてきました。

 

この中国軍からの艦砲射撃により、日本人居留民は全員虐殺されてしまいました。

 

日本軍は、無用な血を流すことを避けていました。日本軍が行ったのは、ただ単にパルチザンの武装解除だけでした。

 

事実、日本軍が追い詰めたパルチザン部隊(赤軍)の兵士達は、ほとんど殺害されておらず、傷も負っていませんでした。

 

ただ、「武器を持っているか」と日本兵が尋ねて、「持っていない」とパルチザン(赤軍)兵士が答えると、日本兵は、そのまま立ち去っていきました。

(『ニコラエフスクの破壊』グートマン著)

 

中国砲艦からの艦砲射撃により、日本軍の本部兵舎は壊滅してしまいましたが、中隊兵営に約100名の兵士や民間人が河本中尉の指揮の元、立てこもっていました。

 

3月17日、パルチザン側からハバロフスクにいる山田旅団長あてに、戦闘中止の提案の打電を受け、3月18日、河本中尉は次のように言って武器を置いて投降。

 

「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。

 

しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と。

 

投降した日本人約140名は皆、監獄に収容され、衣服も奪われて、過酷な労役を課された末に、全員死亡しました。

 

日本人犠牲者は、陸軍と海軍関係者が380名、外務省関係者4名、判明している民間人347名の計731名。

 

民間人犠牲者は、領事館が消滅してしまって確認が取れないので、実際はもっと多いと思われます。

 

1922年の10月、ウラジオストクが陥落し、日本は北サハリンをのぞいたシベリア全域から撤退しました。

 

なぜ、尼港を守備していた日本軍や一般市民が、大虐殺されなければならなかったのでしょうか?

 

専守防衛に徹するように指令が出されていたので、現場の守備隊は、凶悪なパルチザンに対して積極的に攻撃することができずにいました。

 

そのために、守備隊は殲滅されてしまいました。また、兵舎に立てこもっていた民間人を含む約140名の部隊が、武装解除して凶悪なパルチザン(赤軍)に投降。

 

その後、強制労働と暴行を受けて皆殺しされてしまいました。

 

連合国軍も撤兵し、日本軍守備隊も殲滅してしまった後、無法地帯と化した尼港は、凶悪なパルチザン(赤軍)によって虐殺、強姦(レイプ)、略奪などやりたい放題となってしまい、多くの犠牲者が出てしまったのです。

 

昭和20年8月15日以降、満州や南樺太、北朝鮮などにおいて、日本軍が武装解除した後に起きた数々の悲劇を、連想してしまいます。

 

米軍が撤退した後の専守防衛と武装解除。

 

そのあとに何が起きるのか、歴史が教えてくれます。

 

画像

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書

「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」