日本軍が武装解除したあとに起きた通化大虐殺とは | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

日本軍が武装解除したあとに起きた通化大虐殺とは

 

 

昭和20年8月15日、終戦。日本軍が、無条件降伏して武装解除したので、アジア諸国では平和が実現したと教えられています。

 

しかし、実際は、この終戦記念日以降もアジア各地で日本人が大虐殺されていきました。

 

昭和20年8月20日、北朝鮮の国境近くの満州の通化という町にある、通化高等女学校にソ連兵が乱入。女子生徒を連行しようとしたので、女性教師が身代わりとなって連行されていきました。

 

翌日、その女性教師は戻されましたが、複数のソ連兵に強姦(レイプ)され輪姦されてしまったので、辱めを受けた精神的苦痛のために自殺してしまいました。

 

8月24日、ソ連将校20名と兵隊200名が通化市に進駐。

中国共産党軍(八路軍)も同市に駐留するようになりました。

 

ソ連兵と中共軍兵士のほとんどは、武装解除した関東軍(日本陸軍)の銃や軍靴を身につけており、武器弾薬なども大量に関東軍から接収していました。

 

通化市はソ連軍と、中国共産党軍(八路軍)の管理下に置かれました。

 

ある日、真昼間からソ連兵が日本人女性を強姦(レイプ)していました。しかも人通りのある路上でです。

 

通報を受けた原准尉は、慌てて現場に駆けつけて、ソ連兵にやめるように注意したのですが、ソ連兵はその忠告を無視して強姦を続けていました。

 

原准尉は、止むを得ず手に持っていた日本刀で、ソ連兵を殺害。その後、駆けつけてきたソ連兵によって原准尉は射殺されてしまいました。

 

当初、ソ連軍は、日本兵が所有していた日本刀を、飾り程度にしか思っていなかったのですが、この事件以降、殺傷能力のある武器として認識したので、全ての日本刀を没収していきました。

 

すでに、日本軍は武装解除を行なっていたので、武器弾薬を所持していなかったのですが、日本刀まで没収されてしまったので、日本兵は丸裸となってしまいました。

 

ソ連兵は、日本女性に対する強姦(レイプ)を、昼夜問わず人目を気にせず、頻繁に行っていました。

 

そのため、日本女性は、頭を丸坊主にしたりして女性と気づかれないように身を守り、外出は避けていました。

 

ソ連兵は、日本人居留民に対し、若い素人女性を提供するように要求してきました。

 

ソ連軍の要求を断ると他の日本人が殺されてしまうため、従うしかありません。

 

居留民会で話し合い、仕方なく料亭で働いている女性を差し出すことにしました。

 

生贄とされてしまったのですが、ソ連軍に逆らうこともできず、まさに苦渋の選択でした。

 

昭和20年10月23日、ソ連軍が通化市から撤収した後、入れ替わりに中共軍が通化市に進駐してきました。

 

当時、満州国をソ連軍が侵略した後、中共軍にその主権を明け渡すという密約が、スターリンと毛沢東の間であったため、満州国の各都市でこのような軍隊の入れ替えが行われていきました。

 

そして、劉西元(りゅう せいげん)(劉東元)も着任。

 

中共軍は、日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行しました。

 

中共軍は、遼東日本人民解放連盟の通化支部(日解連)を設立して、共産党への思想教育を実地していきました。

 

その時に使われた教材は、共産党員の野坂参三が書いた本でした。

 

17、000名いた通化市内の日本人居留民たちは、全ての財産を没収されてしまい、さらに、中国共産党へ忠誠を誓うことを誓約させられました。

 

昭和20年11月17日、中共軍は、元満鉄総裁という理由で大村卓一を逮捕。

 

昭和20年12月23日、日本人民解放連盟(日解連)主催の日本人居留民大会が開催されました。

 

その大会では、藤田実彦大佐を含む日本居留民3000人が参加。

 

「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」を目標に掲げました。

 

日解連の通化支部の幹部たちは、日本がこれまで大陸で行なってきたことを謝罪して、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」と発言。

 

完全に洗脳(マインドコントロール)されてしまいました。

 

これは「思想改造」と言われる洗脳(マインドコントロール)を受けたためです。

 

「思想改造」とはどのようなものでしょうか?

 

昭和15年(1940年)、日本兵士反戦同盟(のちの日本人民解放連盟)が延安に設置されました。

 

延安は、毛沢東率いる中共が滞在していた拠点でした。

 

「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において野坂参三が校長を務めました。

 

日本労農学校では、集団でお互いに相手の自己批判を徹底的に繰り返させ、それまで積み上げてきた自尊心や価値観などを、木っ端微塵に打ち砕くことにしました。

 

この方法は、それまで深く染み付いた古い思考を破壊し、新しい生活様式を受け入れるのに役立つと考えられました。

 

疲労と自己批判で意識がモウロウとしてきたところに、何度も何度も自分自身の言葉で、政治的教義(マルクス・レーニン主義)を反復させるという思想改造をしていきました。

 

捕虜となった日本兵たちにとって、共産主義者になることだけが、過去を絶ち切って、罪深い過去の記憶から自らを解脱させる唯一つの方法だったのです。

 

解脱とは、しがらみから解放するということです。人間誰でも色々なしがらみを持っていきています。そのしがらみから解放することができれば、幸せで生き生きと生きることができると、仏教では説明します。

 

そこでは、みんなで共産主義者になって、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、自分自身を肯定する居場所をつくりました。

 

日本労農学校での日本兵捕虜の思想改造は、見事に成功していきました。

 

捕虜の中で次のように話す人が出てきました。

「周恩来総理は、私の人生になくてはならない指導者である」とか、

 

「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」

と。

 

このような「覚醒した」日本兵たちは、新たな日本兵を捕虜とすることに利用されていきました。

 

昭和19年(1944年)3月4日、日向勝・砲兵中尉をはじめとする48人が八路軍の捕虜になりました。そのうち30人が日本人民解放連盟(日解連)に参加しました。

 

日向勝は、砲兵教官として新四軍(八路軍)に止まり、砲兵部隊を育成し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任。

 

中国の国共内戦で、淮海戦役、渡江戦役などの国民党軍との戦いに参加して、大活躍して連戦連勝。中共軍の勝利に大きく貢献しました。

 

昭和20年12月23日、通化市で行われた日本人居留民大会に話を戻します。

 

日本人居留民たちは、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」と訴え、山口嘉一郎老人は、日本共産党の野坂参三が行なった天皇批判を、万死に値すると激しく非難しました。

 

山口嘉一郎老人は、「宮城(皇居)に遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると、会場から大きな拍手が沸き起こり、全員起立して宮城(皇居)に向かって遙拝と、天皇陛下万歳三唱が行われました。

 

そして山口嘉一郎老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」と述べました。

 

翌日、中共軍は、山口嘉一郎老人や大会で発言した者を連行し処刑しました。

 

昭和21年1月10日、中共軍の工作員である内海薫を殺害した容疑で、中共軍は、日解連の幹部や旧満洲国の高級官吏・日本人居留民会の指導者ら140名を強制連行。

(1月10日事件)

 

菅原達郎通化省次長、河内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長の4名は、中共軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑されてしまいました。

 

処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されて、ハチの巣にされてしまいました。

 

昭和21年2月3日、このような中共軍による蛮行に耐えられなくなった在留日本人たちは、ついに決起。

 

重慶を拠点とする中華民国軍(蒋介石軍)と、林航空隊と戦車隊の支援を期待して、元日本軍(関東軍)将校などの指揮下で蜂起しました。総勢1000名でした。

 

しかし、日本人が手にした武器は、こん棒やスコップなどしかありませんでした。

 

それまで、シナ兵やソ連兵に、全ての財産を没収されていたので、武器と呼べるものをほとんど持っていなかったのです。

 

頼みの蒋介石軍の援軍もなく、また、この情報を事前に入手していたシナ兵により、林航空隊は拘束されてしまい、わずか数時間で制圧されてしまいました。

 

嵯峨家(華族)の長女であり、満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)に嫁いだ嵯峨浩(さが ひろ)と、次女の嫮生(こしょう)、溥儀(ふぎ)の皇后である婉容(えんよう)は、通化市内の八路軍の公安局に拘束されていました。

 

2月3日の夜、日本兵が八路軍の公安局にやってきて「今夜憲兵が救出に参るはずです。皇后様(婉容)とご一緒にお待ちください」と嵯峨浩(さが ひろ)に言いました。

 

そして、八路軍(中共軍)と銃撃戦を始めたのですが、計画を事前に察知していた八路軍は、日本兵を一旦公安局の中に入れて外から包囲する作戦でした。

 

溥傑(ふけつ)の妻、嵯峨浩(さが ひろ)と溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)を救出に行ったはずの日本兵でしたが、中共軍の餌食となってしまいました。

 

嵯峨浩(さが ひろ)たちはじっとして身を伏せていましたが、老乳母の王焦に砲弾の破片が命中し、右の手首が吹き飛ばされました。

 

老乳母の王焦は「痛い痛い」と泣きながら血だらけの手で顔を触り、顔が血だらけになりました。

 

この老乳母の王焦の吹き飛ばされた手首は、嵯峨浩(さが ひろ)の次女の嫮生(こしょう)のところに飛んできていました。

 

嫮生(こしょう)は、「忘れようとしても、血まみれの手首だけは記憶に残っています」とのちに回想しています。

 

事件後、嵯峨浩(さが ひろ)たちは、長春(新京)、吉林、延吉、佳木斯、北京、上海と次々に身柄を移され、昭和22年(1947年)1月に日本に帰国しました。(「流転の王妃」)

 

「日本人の男は全員外に出ろ!」。

 

16歳以上60歳までの日本人男性は、事件との関係を問わず全員、中共軍(八路軍)の兵舎の前に集合せよ、と命令が出されました。

 

そして、中共軍(八路軍)の将校が絶叫するように叫びました。

 

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」と。

 

次の瞬間、兵舎の窓越しに待機していた機関銃を持った兵士たちから機銃掃射を受けて、集められた日本人全員が虐殺されてしまいました。

 

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれました。

 

虐殺された遺体は、待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれました。

 

昭和21年2月3日の朝、設楽三郎さんは、土足で踏み込んできた中共軍の兵隊に強制連行されました。

 

抵抗する様子を見せた日本人はその場で銃殺されていきました。

(日本経済新聞2016年2月3日)

 

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び連行されました。事件に関与したとみなされた女性も連行されました。

 

中共軍の八路軍と、金雄を隊長とする朝鮮義勇軍(中共軍の朝鮮人部隊)の第一支隊は、連行する際、日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行しました。

 

寝間着、素足に下駄履の者や病人までもが、マイナス20度になる外を数珠繋ぎで行進させられました。

 

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして、建物の各部屋に押し込まれました。

 

8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められ、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされました。

 

抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓の外から朝鮮義勇軍の兵士たちにより銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

 

設楽三郎さんは、当時を次のように振り返ります。

 

長屋の10畳程度の部屋に、100人以上が押し込まれた。「外は酷寒なのに、中はサウナのように蒸し暑くて不快だった」と。(日本経済新聞2016年2月3日)

 

夜、殺気だった室内で小さな言い争いが起きると、見張りの兵が窓から発砲した。

 

静まりかえった室内に撃たれた男性のうめき声が響き、「生きた心地がしなかった」。(日本経済新聞2016年2月3日)

 

殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされました。足元が血の海になったが死体を外に出すこともできませんでした。

 

拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮義勇軍の兵士たちから、(日韓併合から)36年の恨みと言って棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺されました。

 

撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどし、八路軍と朝鮮義勇軍の兵士による拷問と尋問が行われました。

 

そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

 

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

 

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。

 

外は酷寒の2月。放り出された人は、たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまいました。そして、まるで材木のようにトラックに積みこまれて、谷間に投げ捨てられていきました。

 

すると、どこからか貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆきました。

 

全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ捨てられていきました。これが毎日のように行われました。

 

生き残った者は、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の川岸に一人ずつ並べられ、次々に銃殺されていきました。

 

約3000人に上る日本人たちが、八路軍と朝鮮義勇軍によって残酷なやり方で虐殺されていったのです。

 

昭和21年3月10日、通化市内の百貨店で、2・3事件の展示会が行われました。

 

その展示会では、日本人からの戦利品と共に、孫耕暁(通化国民党部書記長)と藤田実彦大佐が、見せしめとして3日間立ったままの状態でさらし者にされました。

 

孫耕暁(そん・こうぎょう)は、中華民国政府(蒋介石)の通化市での指導者だったので、中共軍からさらし者にされ他のちに銃殺。

 

また、藤田実彦(ふじたさねひこ)大佐は、この事件の首謀者とされたため、さらし者にされました。

 

藤田実彦大佐は、痩せてやつれた体に中国服をまとい、始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けました。

 

昭和21年3月15日、藤田少佐が死亡(享年45歳)すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

 

この2・3事件は、日本が武装解除した後に起きた中共軍による大虐殺であります。

 

通化大虐殺の総指揮をした劉西元(りゅう せいげん)は、中国共産党の建国の英雄として教えられています。

 

共産国に対して武装解除したらどういう事になるか、歴史が教えてくれます。