南樺太の真岡郵便局での悲劇 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

南樺太の真岡郵便局での悲劇

 

終戦後、南樺太で自害した9人の日本人女性たちがいました。彼女たちは、日本軍の命令で服毒自殺をしたと言い伝えられてきました。

 

実は、日本軍が命令した事実はなく、彼女たちが自主的に自害したのでした。

 

ではなぜ、彼女たちは終戦後に死ななければならなかったのでしょうか?

 

昭和20年8月8日、160万のソ連軍が、満州や蒙古、南樺太の国境を突破して侵略を開始。

 

昭和20年8月15日、日本は、ポツダム宣言を受託。

 

同日、トルーマン大統領は、マッカーサーに対して、日本軍の武装解除についての指令書を出しました。

 

その指令書には、満州国と38度線より北の北朝鮮と、南樺太に駐屯している日本軍は、ソ連軍に対して武装解除することが規定されていました。

 

この指令書を見たスターリンは、日本軍が武装解除する地域は、千島列島全てと、北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線より北側)も含める事をトルーマンに要求。

 

そして、スターリンは、ワシレフスキー司令官に北海道の北半分と南千島を、降伏文書調印式(9月2日)までに占領するように指示。

 

その一方、南樺太と千島列島に駐屯している日本軍は、札幌の第5方面軍から次の指令を受けていました。

 

「8月18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣。その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、”自衛のための戦闘は妨げず”」と。

 

”自衛のための戦闘は妨げず”とは、一体どういう意味でしょうか?

 

現場ではこの解釈で混乱が起きました。

 

日本軍は、8月15日以降、戦車の備砲を撤去したり、化学兵器を廃棄したりして武装解除の準備をしていました。

 

しかし、ソ連軍は8月15日以降も戦闘行為を停止しようとしなかったので、最前線の守備隊は混乱していました。

 

白旗を持って停戦交渉をしようとしても、白旗を持った日本兵は狙撃されてしまうという状況でした。

 

かといって、積極的に戦闘行為をしてしまうと、命令に背くことになってしまいます。

 

軍隊の命令は、絶対忠実に従わなくてはなりませんので、最前線の現場では、降伏したくてもできないし、積極的に応戦したくてもできないし、と混乱していました。

 

そのような中、8月18日早朝、ソ連軍が千島列島の占守島(シュムシュ)に上陸。

 

この報告を受けた札幌の樋口季一郎中将は、千島の守備隊に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出しました。

 

現地の守備隊は、ソ連軍に対して積極的に反撃。

 

日本軍は、上陸したソ連軍を殲滅できる有利な態勢になったのですが、すでに18日16時から停戦するように指令が出ていたので、日本軍は積極的戦闘を停止しました。

 

この予想もしていなかった日本軍の反撃のために、ソ連軍は北海道の北半分の占領計画に、大きな打撃を受けました。

 

降伏文書調印式(9月2日)までに占領するという期限が限られていたので、この占守島(シュムシュ)の戦いは、スターリンにとって大きな打撃となったのです。

 

もし、樋口季一郎中将が、千島の守備隊に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出していなかったら、

 

もし、占守島(シュムシュ)で日本軍が反撃していなかったら、北海道の北半分はソ連領となっていたかもしれません。

 

南樺太では、地上戦と空爆によって2、000人の一般人が殺害されました。

 

樺太庁では、ソ連軍の戦闘行動が激しさを増していったので、8月13日から緊急に北海道への集団疎開を進めていました。

 

8月16日、真岡郵便局の局長は、電話交換手たちに「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との通知を出しました。

 

真岡郵便局内の朝礼にて、主事補の鈴木かずえさんが、次のように、緊急疎開に伴う業務の引き継ぎについて説明して、真岡に残る人を募りました。

 

「政府から、女性達を優先して疎開させるように、と通達がありました。

 

しかし、疎開を成功させるためには通信業務の継続は必要です。

 

ソ連軍が上陸しても、電話交換業務移管が行われるまでは

業務を遂行しなければなりません。

 

残留を希望する職員は、家族と相談したうえで返事をしてほしい」と。

 

すると、その場にいた女性職員の全員が、手を上げて残ることを希望しました。

 

そして、真岡郵便局にとどまる血書嘆願を用意しました。

 

その報告を受けた真岡郵便局の上田局長は、ソ連軍が進駐してきたら女性は強姦(レイプ)されてしまうかもしれない、と言って疎開するように説得しました。

 

しかし、全員が真岡郵便局に最後まで残ることを希望しました。

 

真岡に残ることを親に反対されて、仕方なく北海道へ疎開することとなった交換手も何人かいました。

 

公衆電話から真岡郵便局に別れの電話をすると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と、真岡に残った電話交換手たちから、かわるがわる励ましの言葉をかけられました。

 

しかし、先に疎開をした避難船の中には、北海道へ向けて航行中に、魚雷で撃沈されてしまった船もありました。

 

真岡に残っても地獄、北海道へ疎開する道中も地獄という状況だったのです。

 

8月20日、南樺太の真岡沖合から真岡市内に向けて、ソ連軍が艦砲射撃を開始。

 

真岡市には王子製紙の工場があり、多くの日本人が住んでいました。

 

この艦砲射撃を受けて、真岡市内の人々は大混乱に陥りました。

 

そんな中、真岡郵便局で最後まで電話交換手として、交換台に残った女性たちは、決意をしました。

 

もうすぐソ連兵がやってくる。そして、私たち日本女性は強姦(レイプ)されてしまう。敵国の兵士に強姦されるくらいなら死を選ぶ、と。

 

彼女たちは皆、もしもの時に備えて青酸カリを隠し持っていました。

 

そして、泊居郵便局の局長あてに次のような最後の電報を打ちました。

 

『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』

 

12人の日本女性は、最後まで持ち場を離れずに、電話交換手として仕事を続けました。

 

艦砲射撃で周りが火の海になってもです。

 

そして、9人の乙女が青酸カリを飲んで自害しました。まだ19歳から24歳の若さでした。

 

ソ連侵略後の8月13日から22日にかけて、7万6千人の日本人が、家や財産をすべて捨てて、手に持てる必要最低限の荷物を持って、大泊港や真岡港まで歩いて集団疎開していきました。

 

その徒歩での避難途中も、ソ連軍戦闘機が低空飛行して、容赦なく射撃してくるので、多くの日本人が死亡しました。

 

また、大泊港や真岡港から北海道に向けて出航した輸送船(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)も、次々と撃沈されていき、1、700人もの民間の日本人が殺害されてしまいました。

 

苦労してやっと乗船できたと思ったのに、その避難船が撃沈されてしまったのです。

 

8月23日以後は、北海道への渡航が原則禁止。

 

樺太に残された住民、約28万人(民間人26万7千人、軍人1万2千人)は、米ソ協定に基づき、昭和21年12月から24年7月までに真岡から函館港へ引き上げて来ました。

(「樺太終戦史」全国樺太連盟 著)

 

8月24日、ソ連軍は南樺太の豊原と大泊を占領し、8月28日、北方領土の択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月5日、歯舞諸島に上陸。

 

択捉島、国後島に上陸したソ連軍は、「この島にはアメリカ兵はいるか?」と現地の人に聞いていました。

 

ソ連軍は、アメリカ軍がいないことを確認しながら、南千島上陸作戦を強行していったのです。

(「我らの北方領土・ソ連占領編」千島歯舞諸島居住者連盟)

 

9月2日、戦艦ミズーリにて降伏文書調印式が行われました。

 

その時、スターリンは、「同志、スターリンの国民への呼びかけ」という声明を発表。

 

その内容は、

「1904年、日露戦争におけるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は我が国家の不名誉となった。

 

我が国家は日本を撃破しその恥を拭う日が来ることを信じ、その日の来るのを待っていた。

 

我々前世代の人間は、40年間その日の来るのを待っていたが、今、その日は来たのである。」と。

 

真岡郵便局の九人の乙女たちは、日本軍に命令されて服毒自殺をした、と言い伝えられてきました。

 

終戦後も戦闘行為を止めようとしなかったソ連軍。北海道の北半分を占領するように指示を出したスターリン。

 

そのような蛮行を行なったソ連軍への非難をしない代わりに、日本軍が、自国の一般人に服毒自殺をするように命令した、と広報していったのです。

 

昭和43年9月5日、昭和天皇と皇后陛下は稚内を訪問し、九人の乙女像の前で深く頭を垂れました。

 

そして、次の歌を詠まれました。

 

「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる」

 

「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」

 

真岡郵便局で電話交換手の生き残りの工藤てるさんは、平成27年7月に次のように当時を振り返りました。

 

「私は非番でしたが、もしその時、真岡郵便局にいたら、みんなと一緒に青酸カリを飲んで死んでいたと思います。

 

死ぬことはなんとも思いませんでした。私たち女性も、軍人と同じ精神でいました。」と。