聖徳太子の死後の人々の悲しみ | 誇りが育つ日本の歴史

誇りが育つ日本の歴史

日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

聖徳太子の死後の人々の悲しみ

 

 

聖徳太子が亡くなったとき、どれだけの人が悲しんだのでしょうか?

 

538年、朝鮮半島にあった百済(くだら)の国の王、聖王(せいおう)は、倭国(日本)に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、経典などを伝えました。

(仏教公伝)

 

百済(くだら)の聖王(せいおう)は、仏教について次のように伝言しました。

「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。

 

今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」と。

(聖徳太子の最古の伝記である「上宮聖徳法王帝説」、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」)

 

欽明天皇は、百済の王、聖王(せいおう)から送られた仏像をみて、その見事さに感銘して「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と豪族たちの意見を聞きました。

 

蘇我稲目は、「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めました。

 

物部尾輿・中臣鎌子らは、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対。(「日本書紀」)

 

欽明天皇は、意見が二分されたため、仏教への帰依を断念。ただ、蘇我稲目に、私的に礼拝することや寺を建立することだけは許しました。

 

その直後に疫病が流行しました。物部・中臣氏らは、その疫病が流行した理由を、「仏神」のせいで国神が怒っているためであると天皇に奏上。

 

その上奏を受けて、欽明天皇は、物部・中臣氏らが仏像を廃棄し、寺を焼却するのを黙認しました。

 

585年、敏達天皇が崩御された後、用明天皇が即位。

 

用明天皇は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を皇后にしました。

 

その第2子は、厩戸皇子(うまやとのみこ)、またの名を豊聡耳聖徳皇子(とよとみみのしょうとくのみこ)、あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)、あるいは法主王(のりのうしのきみ)といいました。(後の聖徳太子)

 

この皇子は、はじめ上宮に住んでいましたが、のちに斑鳩(いかるが)に移りました。

 

587年4月2日、新嘗祭が行われましたが、用明天皇は病にかかられて宮中に帰り、群臣に対して次のようにいいました。

 

「私は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」と。

 

大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は勅命の会議で反対しました。

 

「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」

 

宿祢大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)はいいました。

「詔に従って、お助けすべきである。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」

 

587年5月21日?、用明天皇が崩御。

 

587年10月4日、たびたび朝廷に猪が献上されることがありましたが、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇は、その献上された猪を指して次のように言いました。

 

「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」

 

大伴嬪・小手子は、崇峻天皇から受けていた寵愛がなくなったのでそれを逆恨して、蘇我馬子に使いを出して告げ口しました。

 

「この頃、猪が献じられることありました。崇峻天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”といわれました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」と。

 

蘇我馬子は、それを聞いて驚きました。蘇我馬子は、自分を嫌っていることを恐れ、一族の者を招集して、崇峻天皇を弑することを謀りました。

 

592年12月12日?、蘇我馬子は、群臣をあざむいていいました。

 

「今日、東国から調が献上されてくる」

 

そして東漢直駒を使って崇峻天皇を暗殺し、倉梯岳陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬りました。

 

日本の歴代天皇で唯一、臣下により暗殺された天皇でした。

 

593年、聖徳太子は、崇峻天皇の後を継いだ推古天皇の時代に皇太子となり、摂政としてすべての政務を統括して天皇の政事を行いました。

(「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ))

 

595年、高句麗から聖徳太子の師となる慧慈(えじ)が来日。慧慈(えじ)は「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と伝えました。

 

603年、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智からなる、12階の冠位が制定されました。(冠位十二階)

 

この冠位の名称のうち、徳を除いた五つは、儒教における五常に該当します。

 

翌年、聖徳太子は、17条憲法を制定。

 

619年、聖徳太子は、つぎのようなことを定めました。

「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。

 

また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。

 

孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。

 

幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。

 

もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。すべてこのようなことを道という。

 

これを八義という。八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。

 

(この八儀は、南総里見八犬伝の八犬士が持っている玉に刻まれた文字でもあります。このうち仁義礼智信の五つは、儒教においては五常と呼ばれます。)

 

また、天・地・日・月・星・辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。

 

貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。

 

孝は天であり、紫冠を第一とする。

忠は日であり、錦冠を第二とする。

 

仁は月であり、繍冠を第三とする。

悌は星であり、纏冠を第四とする。

 

義は辰であり、緋冠を第五とする。

礼は聖であり、深緑を第六とする。

 

智は賢であり、浅緑を第七とする。

信は神であり、深縹を第八とする。

 

祇は祇であり、浅縹を第九とする。

地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。

今より後、永く常の法とせよ

 

君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」と。

(「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ))

 

621年12月21日(622年2月6日)、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)(間人皇后)が亡くなり、翌622年2月22日(622年4月8日)には聖徳太子自身も亡くなり、斑鳩宮で薨去されました。

 

このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどでした。

 

若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。皆がいった。

 

「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう」

 

聖徳太子の妃である橘大郎女は、推古天皇(祖母)に次のように申し上げました。

 

「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。

 

聖徳太子は、天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。

 

推古天皇は、嘆き悲しんでいる橘大郎女の気持ちを汲み取り、采女(うねめ)(天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官)らに命じて繍帷二帳を作らせました。

 

その繍帷二帳には、400文字が刺繍されており、欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜が書き記されていました。

 

繍帷二帳は「天寿国曼荼羅繍帳」と呼ばれ、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表しています。

 

この中で「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指します。

(奈良県斑鳩町の中宮寺 所蔵)

 

高句麗に帰国していた慧慈(えじ)は、聖徳太子が亡くなったことを聞いて、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催しました。そしてみずから経を説く日に誓願して次のようにいいました。

 

「日本の国に聖人がおられました。上宮豊聡耳皇子と申しあげます。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖の徳をもって日本の国にお生まれになりました。

 

中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われました。真の大聖です。その太子が亡くなられました。

 

自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ません。自分一人生き残っても何の益もありません。

 

来年の2月22日(623年3月31日)には、自分もきっと死ぬでしょう。上宮太子(聖徳太子)に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めたいと思います」と。

 

そして、慧慈はみずから定めたその日に亡くなりました。

(「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ))

 

画像

天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)