聖徳太子は架空の人なの? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

聖徳太子は架空の人なの?

 

 

聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))は、いなかったという人がいます。

架空の人物であり、日本の歴史書(古事記、日本書紀)にも記載がないといいます。

 

本当でしょうか?

 

西暦600年前後の時代、日本(倭国)の最有力の豪族で精強な軍事氏族あった 物部守屋(もののべ の もりや)と、豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立していました。

 

その対立の主な原因は、仏教でした。

 

百済の王から日本(倭国)の欽明天皇に仏教の経典が送られました。

(仏教伝来)

 

百済の王は伝えました。

「仏教はあらゆる教えの中で、最も優れている。遠くインドから朝鮮半島にいたるまでこの教えにしたがっている」と。

 

朝廷内で大連(おおむらじ)という役職を務める、物部氏は主張しました。

「天皇は、日本古来の神々をお祭りされています。他国の神をお祭りすると、日本の神々が怒るでしょう」と。

 

蘇我氏は主張しました。

「西方の国々はみな仏教を礼拝しています。日本だけがそれにそむくわけにはいきません。」と。

 

また、物部氏は、朝鮮半島にあった高句麗、新羅からの使者を暗殺し、友好国であった百済からの使者も暗殺してしまうという、排外的な外交政策をとりました。

 

物部守屋(もののべ の もりや)は、敏達天皇に上奏しました。

「疫病が蔓延して民の多くが死んでいます。これは蘇我氏が仏教を広めたことが原因であります。」と。

 

敏達天皇は指示しました。

「最もなことである。仏法をやめさせよ」と。

 

物部氏は、仏像や経典を次々に焼き払っていきました。

 

585年、仏教を排斥した敏達天皇が崩御。

 

用明天皇が皇位を継承しましたが、587年4月、病に倒れました。そして、神道を尊びながら、仏教にも帰依するようになっていきました。

 

物部守屋(もののべ の もりや)は、用明天皇が仏法に帰依したことを聞いて、朝廷の会議で次のように語りました。

 

「どうして日本古来の神々に背いて、他国の神を敬うのか。そのようやことは聞いたことがない。」と。

 

蘇我馬子(そがのうまこ)は反論しました。

「天皇のご意向に沿って、お助けすべきである」と。

 

587年7月、物部守屋と蘇我馬子がついに戦争をはじめました。しかし、蘇我軍は三度も撃退されてしまいました。

 

これを見た聖徳太子(厩戸皇子)は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓いました。

 

また、蘇我馬子(そがのうまこ)も、戦いに勝利したら、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願しました。

 

蘇我軍は物部軍を攻め立て、物部守屋(もののべ の もりや)は、迹見赤檮に射殺されました。大将を失った物部軍は逃げ散り、大豪族であった物部氏は滅びました。

 

この戦いの後、蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけました。しかし政治の実権は蘇我馬子(そがのうまこ)が持ち、これに不満な崇峻天皇は蘇我馬子(そがのうまこ)と対立するようになりました。

 

592年、蘇我馬子(そがのうまこ)は、崇峻天皇を暗殺。

 

崇峻天皇は、日本の歴史上で唯一暗殺された天皇でした。(安徳天皇は、数え年8歳で入水自害をしていますが、敵である源氏に殺されたわけではないので、敵に暗殺された天皇という意味では唯一となります。)

 

その後、蘇我馬子(そがのうまこ)は、豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して皇位につけました。

 

推古天皇は、史上初の女帝でした。聖徳太子(厩戸皇子)は皇太子となり、蘇我馬子と共に天皇を補佐するようになりました。

 

厩戸皇子(聖徳太子)は、皇太子となったと日本書紀には記載がありますが、この当時、皇太子という制度はなかったといって、日本書紀は誤りであると主張する人がいます。

 

それをもって、聖徳太子は架空の人物であるという論理を展開されています。

 

また、日本書紀の中には、他と異なる文章の書き方をした箇所がいくつもみられる。これは、後に誰かが書き換えた可能性が高い。

 

よって、日本書紀の内容は信用性が低い。だから、その日本書紀に書かれている話は架空の物語である、と。

 

たしかに聖徳太子という名前は、日本書紀にも古事記にもありません。記載があるのは厩戸皇子(うまやどのおうじ)という名前です。

 

しかし、日本書紀は日本の歴史書として、日本に伝存する最古の正史であり、その内容が間違っているという論拠には無理があります。

 

もし、正式に認められている歴史書が誤りであるから、そこに登場する人物はいなかった、という論理が通ってしまいますと、すべての歴史書に対して、そのような論理をあてはめることができてしまいます。

 

それでは、自分の都合の良いように簡単に歴史をかきかえることができてしまい、歴史修正主義者が世にはばかることとなってしまうでしょう。

 

そもそも日本書紀は、天武天皇が、川島皇子以下12人に対して編纂を命じたものであります。

 

今でも複数の人が本を編纂する場合、それぞれ異なる単元を分担して書いていきます。書き手によって、言い回しのくせなどが異なりますので、それをもって、「後から書き直したものである!」と断言するのは、乱暴すぎます。

 

もし、どうしても日本書紀の内容は間違っていると断言したいのであれば、いつ誰がどのように書き換えたのかが、明らかとなる証拠が必要となります。

 

592年、聖徳太子(厩戸皇子)は、物部氏との戦いの際に誓ったことを守り、摂津国難波に四天王寺を建立して、施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を作りました。

 

また、蘇我馬子(そがのうまこ)が、物部守屋(もののべ の もりや)との戦いの際に祈願した寺院も、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣されて、604年、現在の奈良県高市郡明日香村に建立しました。(飛鳥寺)

 

高句麗の僧侶である慧慈が来日し、中国大陸に誕生した巨大帝国、隋の情勢を伝えました。

 

598年、随(大唐国)は朝鮮半島の高句麗と戦争を開始。

 

600年、日本(倭国)は、随(大唐国)に使者を派遣しました。このときは国書を持参しませんでした。(第一回遣隋使)(中国の歴史書「隋書」「東夷傳俀國傳」)(「日本書紀」に記載なし)

 

隋の皇帝である文帝は、倭国の政治体制について説明をうけると、次のように語りました。

 

「これ、おおいに義理なし。教えてこれを改めるべし」と。

(此大無義理 訓令改之)(「随書」)

 

つまり、当時の倭国(日本)の政治体制は未熟であるので、教育して改善していく必要がある、と指摘されました。

 

随(大唐国)は、長安を首都におき、世界一大きな仏教寺院(大興善寺)を建立していました。周辺国はみな、随(大唐国)に服従していました。

 

文明大国である随(大唐国)の視察から帰国した蘇我馬子(そがのうまこ)は、聖徳太子(厩戸皇子)とともに日本(倭国)の近代化を推進していきました。

 

603年12月5日、それまでの官僚体制を改める改革を行いました。

(冠位十二階)

 

冠位十二階とは、それまでの官僚体制は、氏族ごとに定められた姓(大臣、大連(おおむらじ)など)の世襲制でしたが、個人の才能や功績、忠誠に応じて位階が与えられて、世襲もされずに、昇進も可能というものでした。

 

604年4月3日、それまで日本人が培っていた普遍的な道徳的観念を、明文化して憲法という形にしてまとめました。(十七条憲法)(「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」)(『日本書紀』)

 

十七条憲法とは、どのような内容だったのでしょうか?

 

第一条 和(やわらぎ)を持って貴しとなす。忤(さか)うること

    無きを宗とせよ。「以和為貴」

     “忤”とは「みだれる」つまりバランスを崩すという意味。世の中の

    物事は、すべて調和ということが大切である。決して片方にだけ

    偏ることなく、常に公平に見て、双方の納得できるバランス

   (即ち“調和”)を考えなければならない。

 

第二条 あつく三法(仏法僧)を敬え「篤敬三賓」

    三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)のこと。

 

第三条 みことのりを受けては必ずつつしめ「承認必謹」

第四条 うやまうことを根本とせよ「以豊為本」

 

第五条 むさぼりを絶ち、欲を棄てよ「絶賓棄欲」

第六条 悪をこらしめ善を勧めよ「懲悪勧善」

 

第七条 人各々任あり「人各有任」

    人はみな、この世にうまれてきた使命があります。その使命を全う

   することで、人は幸せになり、世の中が良くなっていくのであります。

 

第八条 朝早く出社し遅くに退せよ「早朝遅退」

第九条 まことはことわりのもとなり「信是義本」

    信とはまこと、義とはことわり。 

 

第十条 心の怒りを絶ち、表の怒りを棄てよ「絶忿棄瞋」

     忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て

     人の違う意見を怒らないように。

 

第十一条 功過を明らかに察せよ「明察功過」

     功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、

     賞罰を必ず当てるように。

 

第十二条 国に二君なし「国非二君」

第十三条 もろもろの官に任ずる者は、同じく職掌を知れ「同知職掌」

 

第十四条 嫉妬あるなかれ「無有嫉妬」

第十五条 私に背き公に向え「背私向公」

    私心を棄てて公に奉仕しましょう。

 

第十六条 古の良典を用いよ「古之良典」

第十七条 独断不可「不可独断」

    どこかに間違えがあるかもしれないという前提をもって、

    謙虚な心で話し合いをもって、行動していきましょう、

    というような意味。

 

607年、小野妹子は、随(日本書紀では「随」を「大唐国」と記載)に渡り、隋の皇帝である煬帝に、推古天皇からの国書を渡しました。(第二回遣隋使)

 

その国書の内容は、「日出(いず)る処の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致す。つつがなしや」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)というもので、聖徳太子が書きました。

 

隋の煬帝は、没落を意味する「日没する処」という言葉を見たて、「無礼である、二度と取り次がせるな」と大いに怒りを顕わにしました。(「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)

(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)

 

煬帝が怒りをあらわにしたのに対して、小野妹子は、物怖じせずに動じない態度でいました。

 

「皇帝」という名称は、中国大陸を支配している国だけが使うことができるものであり、その周辺国であり遅れた国が、対等な名称を使うことは許されないことでした。

 

「日出(い)ずるところ」と「日沒(ぼっ)するところ」という表現は、仏教の『摩訶般若波羅蜜多経』の『大智度論』に、「日出処是東方 日没処是西方」とあります。

 

聖徳太子は、この仏教の法典から引用して、ただ単に東西の方角を表す意味で書いただけだ、という人もいます。

 

しかし、この国書は、俀國(日本)が隋との対等の外交を目指したものであり、隋(大唐国)の冊封体制に入らないことを意味する、日本の独立宣言なのであります。

 

このような日本(俀國)の独立宣言である国書を受け取り、怒った隋(大唐国)の煬帝は、なぜ、日本を侵略しようとしなかったのでしょうか?

 

当時、隋(大唐国)は、朝鮮半島の高句麗との戦争が間近にせまっており、その背後にある日本(俀國)を敵にすることはできない事情がありました。

 

翌年の608年、その国書の返礼のため、隋の煬帝から使者として裴世清が日本を訪れました。

 

その国書には、つぎのように書かれていました。

 

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。

 

倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」(「日本書記」)

 

「皇帝 倭皇に問ふ」(「皇帝問倭皇」)とあります。以前の国書にあった「倭王」から、「倭皇」に記載が変化しています。

 

”王”というのは隋(大唐国)の周辺国(衛星国)に対してつけた称号であり、隋(大唐国)の皇帝の家臣という位置づけでした。

 

それに対して、”倭皇”という称号は隋(大唐国)の皇帝と同じ位という意味になります。

 

608年、小野妹子は再び、隋(大唐国)の皇帝に国書と携えて、派遣されました。(第三回遣隋使)

 

その国書には「東の”天皇”、 つつしみて西の”皇帝”にもうす」(「東天皇敬白西皇帝」)と書かれていました。(日本書紀)

 

隋の皇帝だけが使うことが許されている称号、”皇帝”。それを倭国(日本)が使うとなると、軍事侵略して滅ぼされてしまう可能性もありました。そこで、苦肉の策として、”天皇”という称号を使うことにしました。

 

”天皇”という称号は、”倭皇”と同じで、隋の皇帝と同等であるという意味になります。

 

日本の歴史で、初めて使われた”天皇”という称号でした。

 

中国大陸の皇帝の家来になることなく、日本の独立を維持するという、重要な功績を残した、聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))。

 

聖徳太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、日本国内の政治体制を大きく変えていきました。

 

また、仏教を日本国内に大きく広めていきました。

 

もし、蘇我馬子(そがのうまこ)が勝利することなく、物部守屋(もののべ の もりや)が勝利していたら、日本全国に広く浸透している仏教寺院は無かったかもしれません。

 

もし、聖徳太子がいなかったら、日本は、他の多くのアジア諸国と同様に、中国大陸の皇帝の属国となっていたかもしれません。