朝鮮半島からの難民問題は、1000年前からあったのです | 誇りが育つ日本の歴史

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朝鮮半島からの難民問題は、1000年前からあったのです

 

 

 

 

朝鮮半島の情勢により、たくさんの朝鮮人難民が日本に押し寄せてくることが懸念されています。

 

実は、このような事態は、今から1000年以上の昔にも起きていました。

 

698年、朝鮮半島と大陸の付け根から北東沿岸にかけて、渤海国(ぼっかい)が建国されました。初代王は大祚栄。

 

721年、朝鮮半島の新羅(しらぎ)が、北の渤海国との国境付近に長城を築城。

 

新羅は、かつての百済全土及び高句麗の一部を占領していましたが、さらに元の高句麗全土を支配下に置こうという野心を持っていましたので、近隣の渤海国と緊張関係にありました。

 

また、渤海国は、中国大陸を支配していた唐による、侵略の脅威にも怯えていました。

 

そこで渤海国は、日本と軍事的な同盟関係を結ぶことで、新羅を背後から牽制しようとしました。

 

727年、渤海国は、高仁義を筆頭とした24名の使節団を倭国(日本)に派遣しました。(渤海使(ぼっかいし))(「続日本記」)

 

彼ら渤海使は、日本に到着し、翌年聖武天皇に拝謁しました。

 

728年、引田虫麻呂を筆頭とした62名の使節団が、初めて倭国(日本)から渤海国に派遣されて、軍事的な同盟関係が築かれて行きました。(遣渤海使(けんぼっかいし))(「続日本記」)

 

755年から唐に内乱が起こりました。(安史の乱)

 

この内乱により、唐の属国であったチベットやウイグル、新羅に対する唐の影響力が低下。

 

倭国(日本)は、同盟国であった渤海国からの要請を受けて、太政大臣の藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は新羅を討伐することを検討しました。

 

759年、倭国(日本)は、新羅に使節を派遣しましたが、新羅側はその使節に無礼をはたらいたとして、藤原仲麻呂は、具体的な新羅征伐の準備を命じました。

(『隋書』倭国伝)

 

しかし、764年、倭国(日本)に内乱(藤原仲麻呂の乱)が起きたために、この計画が実行されることはありませんでした。

 

当時の極東の国際関係はどのようであったのでしょうか?

 

唐は、渤海国の大欽茂に「渤海国王」という地位を与えて冊封政策(近隣諸国を属国扱いして支配従属関係を築く)をしていました。

 

唐は、新羅と友好関係でしたが、日本と渤海国とは断交していました。一方、日本は、渤海と友好関係でありましたが、新羅とは険悪な関係だったのです。

 

なぜ新羅との関係が険悪だったのでしょうか?

 

663年、倭国(日本)は、同盟国であった朝鮮半島の百済を助けるために出兵して、唐・新羅連合軍と戦いました。

(白村江の戦い)

 

その戦いが終わった後も、唐・新羅連合軍が日本へ侵略してくるのではないかと恐れていました。

 

そのような状況の中、8世紀ごろ、新羅国内で内乱が起きたため、大量の難民が日本に押し寄せて来ました。

 

また、新羅からの盗賊が対馬や肥前の五島・小近島(小値賀島)に上陸して、日本の一般民衆から略奪したり、虐殺するという事件が起きました。

 

820年、遠江・駿河両国に移配した在日新羅人700人が反乱を起こして一般人を虐殺。(「日本後記」)

 

遠江・駿河両国では制圧できず、盗賊は伊豆国の穀物を盗み逃走しましたが、相模・武蔵等七国の援兵が動員されて、制圧しました。(弘仁新羅の乱)

 

藤原衛(ふじわら の まもる)が、遠江守としてこの事件の後処理の責任者に任命されました。

 

そして、藤原衛は、新羅からの帰化人の対応策に詳しくなっていきました。

 

845年、藤原衛は、新羅との最前線である大宰大弐として九州への赴任を命じられましたが、そのとき、新羅人の対応について朝廷に次のように奏上しました。

 

「食糧が不足しており、不測の事態が発生した場合に対処ができないことから、新羅人の入国を一切禁止すること。」

 

この奏上に対して朝廷は以下のように回答しました。

 

「朝廷の徳が遠方へ及んで、外蕃(野蛮で未開な国)の者が帰化しようとしているところを、完全に入国禁止とするのは、仁に似つかわしくないやり方である。

 

漂流してきた者へは食料を与えて放還せよ。商売のために渡来した者は自由に交易させ、終わったら速やかに退去させよ。」

 

この藤原衛の進言により、新羅人が難民として日本にやってきて、帰化を申請してきた場合でも、食料衣服を与えて追い返すことと定められました。(「貞観格」(じょうがんきゃく))

 

894年、新羅から派遣された、100艘に乗った2500人の大軍が、対馬に上陸して、略奪、殺人を行いました。

(寛平の韓寇)

 

捕虜の証言では、

「新羅は不作で餓えに苦しみ、食料もなくなってしまったので、船を使って食料を略奪するようにと、新羅の国王から命令された。」と。

 

これは、民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪だったのです。

 

926年、契丹国(遼国)の侵略により、渤海国が滅亡。

 

渤海使による日本と渤海国との交流は、渤海国が滅亡するまで約200年にわたり続けられて、合計36回にも及びました。

 

日本は、新羅からの度重なる挑発行為に乗らず、大きな自制を強いていました。その結果、新羅との全面戦争には発展しませんでしたが、新羅からの帰化人の対応策に苦慮していました。

 

この時から1000年以上経過した今、朝鮮半島の情勢により、たくさんの朝鮮人難民が日本に押し寄せてくるかもしれません。

 

また、かつて日本の同盟国であった渤海国は、今は北朝鮮領とロシア領となっていますが、ロシアが日本と同盟関係になるかどうかはわかりません。

 

今の日本では、1000年以上の昔に、藤原衛が上奏したような意見を採用することが求められています。