二日市保養所とは? | 誇りが育つ日本の歴史

誇りが育つ日本の歴史

日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

二日市保養所とは?

 

 

戦時中、性奴隷にあった女性を救済するようにと、執拗に日本に要求している国や団体があります。彼ら彼女らは、国連人権委員会などを通して、世界中に日本を貶める活動を積極的に行なっています。

 

その一方、ソ連参戦後、日本への引き揚げの途中に、婦女暴行(レイプ)にあった日本女性がたくさんいました。

 

日本内地への上陸後、性被害にあった日本女性たちはどのような行動をしたのでしょうか?

 

昭和20年8月9日、ソ連軍160万人の兵が、満州、蒙古、樺太など日本国境をこえて侵略してきました。

 

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託して、満州をはじめ大陸の各都市の治安を維持し統括していた関東軍(日本陸軍)が武装解除。

 

関東軍(日本陸軍)の武装解除に伴い、無法地帯となってしまった満州や朝鮮半島、中国大陸の各地では、ソ連兵や朝鮮人、中国人たちによって、民間の日本人に対する略奪、婦女暴行(レイプ)、虐殺が日常的に行われていきました。

 

昭和20年8月24日になると、朝鮮半島の38度線を境にして封鎖されてしまい、北朝鮮から南下することができなくなりました。

 

その年の秋から冬にかけて、家や財産を棄てて着の身着のままで避難してきた日本人難民たちは、北朝鮮から南下することも出来ずに、各地で空き家を探して、すし詰め状態で共同生活を送り、飢餓と寒さに耐え忍んでいました。

 

また、近くに住む朝鮮人たちやソ連兵によって、定期的に略奪が行われ、婦女子は連れ去られて強姦されていきました。

 

例えば、一晩に10人ほどの若い女性が連れて行かれ、翌日、戻されました。戻って来た女性の中には、精神的な苦痛により自殺してしまう人もいました。

 

また、自分の娘や、妻が連れ去られそうになるのを抵抗した男性が暴行を受けて、殺されてしまうこともありました。

 

着の身着のままで避難してきたので、限られた食料しか持っていない日本人難民に対して、定期的に略奪が行われて、強姦の目的で婦女子たちは連れさられて行きました。

 

食料がないなら、外で働きにでればよいではないかと思う人もいるかもしれません。

 

しかし、日本が降伏した日(8月15日)を境にして、朝鮮人や中国人たちは手のひらを返したように、日本人に対してひどい仕打ちをしていったので、日本人が働けるような環境ではなくなってしまいました。

 

また、中には差し入れをしてくれるようなやさしい朝鮮人もいましたが、その行為が朝鮮人の保安隊に見つかると厳しく罰せられていたので、日本人難民を援助したりしてかかわろうとする人はいませんでした。

 

そのような環境の中、かろうじて生き延びていった日本人難民たちですが、大陸や北朝鮮の各地で、腸チフスなどの伝染病や栄養失調のために、多くの人が死亡していきました。

 

昭和20年12月から翌年3月にかけて、旧京城(ソウル)帝国大学の医学部で働いていた泉靖一氏は、釜山港までたどり着いた日本人難民を検診していきました。

 

そこで、885人の日本の婦女子を検診したところ、婦女暴行(レイプ)被害者が70名、性病患者が19名でした。約1割の婦女子が強姦(レイプ)の被害にあっていたのです。

 

この当時、大陸にいた日本女性は、みな丸坊主にして服装も男性の服を着ていました。胸にはさらしなどをきつく巻いて、胸のふくらみを無くし、女性であることを気づかれないようにしていました。

 

やっとの思いで引き揚げ船に乗り込み、博多港に到着したのに、ソ連兵や朝鮮人などに強姦(レイプ)されて身ごもった日本女性が、どうしていいかわからず、海に投身自殺する人たちもいました。

 

日本人には恥の精神があるので、帰国後、社会的に差別を受けることを恐れての行動だったのでしょう。

 

朝鮮半島から博多に引き揚げた泉靖一氏は、占領軍と交渉して移動医療局を作る許可を得ました。

 

昭和21年春、泉靖一氏は、連合軍の監視の目を盗み、押し寄せる引揚者を救護するため、昭和21年春に再び朝鮮半島に潜入しました。

 

京城(ソウル)にて、掘立て小屋に小旗をたてただけの簡単な診療所をつくり、治療にあたりました。旧京城帝国大学医学部の教職員や教学生らが協力して活動していきました。

 

また、栄養失調の孤児にたいして食事を配給でできるようにもなりました。しかし、少ない活動資金のために思うような活動が出来ないでいました。

 

博多にいる孤児たちはどうしたでしょうか?

 

日本政府が行っていた引き揚げ援護局とは別に、民間でも引き揚げ援護を行っていました。

 

その活動は、一番力の弱い子どもたちや婦女子を中心に救援していきました。

 

親を失った戦争孤児たちは、おちつける環境と暖かい励ましの手、栄養補給が必要でした。

 

しかし、博多の町は一面が焼け野原。

 

孤児を世話する保母さん達も、自分のことで精一杯でした。孤児や婦女子など引揚者は、毎日、博多港や佐世保港に上陸してきました。

 

港には上陸待ちの引き揚げ船が、ぎっしりと埋め尽くされていました。

 

泉靖一氏は、引揚者のための仮設住宅を建てる話を聞き、そのひとつを借り受けて、博多駅近くの日本最古の禅寺と言われる聖福寺の境内に立てました。(「聖福寮」)

 

婦人の友から保母さんとして3名が参加しました。終戦から1年後の昭和21年8月15日、引揚者孤児のための施設「聖福寮」が活動を開始しました。

 

そのような中、京城(現在のソウル)生まれの山本良健医師は、昭和21年末、京城からの病人引揚者を引率して博多港に上陸。その後、聖福寮の寮長として活動していきました。

 

孤児たちは、精神的は疲労と飢餓のために、なかなか落ち着きませんでした。夜中に起きて、ゴミだめをあさり、食べるものを探したりしてました。

 

ほとんどの孤児たちは、自分の親の遺骨を持っていました。

 

そして保母たちがその遺骨を預り、まとめて一箇所に安置しようとしましたが、なかなか手放そうとしませんでした。

 

いつも、自分の親のそばにいたかったのでしょう。

 

遺骨を安置した部屋には、孤児たちが入りたがりました。

 

ある12歳の女の子は、病気で自分でたべることができない2才の弟のために、一度食べ物を自分の口で十分に噛んで、やわらかくしてから弟に食べさせていました。

 

おそらく、亡くなった親が、いつも弟にしていたのを真似したのでしょう。

 

しかし、その弟さんは、5日後になくなってしまいました。

 

ある日、田中医師と泉氏のところに、ボロボロに衣服で疲れ切った女性が来て言いました。

 

「先生、娘が婦女暴行(レイプ)を受けて妊娠してしまいました。どうか、この子を元の体に戻してあげてください」と。

 

彼女は朝鮮の京城(ソウル)師範学校の教え子でした。

 

早速、堕胎手術が行われましたが、彼女の娘は、赤ん坊とともに死亡してしまいました。

 

これをきっかけとして、昭和21年3月25日、強姦(レイプ)をうけて妊娠してしまった婦女子に対して、堕胎手術をする診療所を福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)に開設しました。(二日市保養所)(現、済生会二日市病院)

 

当時の日本では、堕胎手術(人口妊娠中絶)は法律で禁止されていましたので、犯罪をおかしてまで、堕胎手術を行う医師もいませんでした。

 

しかし、誰かがやらなければならない、という使命感があったのでしょう。京城(現在のソウル)帝国大学の医学部医局員たちにより治療を行っていきました。

 

診療所を開設したとはいえ、堕胎手術は違法でした。

 

一体どのようにして、法律違反の堕胎手術を引揚者たちの広報して行ったのでしょうか?

 

引き揚げ船の医師を通じて、パンフレットを配布していきました。

 

そこには「不法な暴力と脅迫で体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容して健全なる体にする。」と記されました。

 

「婦女暴行(レイプ)」という直接的な表現を使わずに、あえて婉曲的な表現を使いました。被害にあった日本女性の心の傷に配慮したためです。

 

また、15歳から55歳までの引き揚げ女性たちに対して、博多港や佐世保港に設置された婦人相談所への相談が義務化されていきました。

 

これは、大陸や朝鮮半島での婦女暴行(レイプ)の被害にあった、日本人女性がとても多かったための措置でした。

 

新聞広告も出して、診療所の存在を告知していきました。先ほどのパンフレットと同様に、婉曲的な表現を使って。

 

物資の不足のために麻酔もない状況で、歯を食いしばり痛みに耐えながらの堕胎手術を受けていきました。

 

彼女たちは、看護師の手をぎゅっと握りしめて、爪が食い込むくらいになりながらも、堕胎手術の痛みに耐えていました。

 

中には、死亡してしまった人もいました。

 

二日市保養所では、風呂場を改造して手術室として使っていました。妊娠8ヶ月以降の赤ちゃんの中には、生まれてから鳴き声をあげた子もいました。

 

妊娠後期の堕胎手術によって生まれた赤ちゃんは、毛布などに包んで丘の上の高台にある旧海軍病院に運ばれて、注射による自然消滅と呼ばれる方法によって、殺されました。

 

開拓団として満州に渡ったある人の話です。ソ連軍が突然侵略して来たために、着の身着のままに家を出て日本へ避難する途中、38度線封鎖のために開拓団たちの集団生活が始まりました。

 

その開拓団の中から若い娘を連れてくるようにと、ソ連軍や朝鮮保安隊から執拗に要求がありました。

 

無防備な日本人難民たちは、その要求を断りきれずに、渋々、娘を差し出しました。

 

翌年、38度線を越えて南下できるようになったので、差し出した娘を親が迎えに行くと、その娘は日本に帰りたくないと言い出しました。

 

なぜなら、連日のように強姦(レイプ)されて辱めを受けて来たので、このような体になってしまっては、日本へ帰ることなどできない、と言うのです。

 

日本内地では、占領軍によって日本女性は婦女暴行(レイプ)され放題であると言う噂が流れていました。

 

二日市保養所が開設されてから2ヶ月の間に、堕胎手術を受けた日本人女性に対して、婦女暴行(レイプ)を犯した男性の国籍の内訳は、朝鮮人28人、ソ連人8人、シナ人6人、米国人3人でした。

(橋爪将医務主任の報告書)

 

秦医師の話

「声を上げる女性はいなかった。皆、我慢して耐えていた。とても可哀想だった。僕らがやらなければ誰がやるんだ、という使命感で行動していました。なんとかして、女性たちの体を軽くして家に帰してやりたい、という思いだけでした。」と。

 

堕胎罪という罪に問われるかもしれない状況にもかかわらず、医師たちは堕胎手術をおこなっていったのです。

 

昭和21年3月25日から12月の約9ヶ月間だけでも、218人の婦女暴行(レイプ)の被害にあった女性を治療しました。

 

昭和22年4月、最後の引き揚げ船が博多港に到着。戦争孤児たちの新たな上陸はなくなりましたが、引き続き孤児を預るために施設の運営は継続していきました。

 

博多港からは、満州、中国、朝鮮半島や南方などから1日平均して約4000人の引揚者が上陸して、合計139万2429人にのぼりました。

 

長崎県佐世保港ではどうだったのでしょうか?

 

ここでも、15歳から50歳までの女性が、外地(大陸や朝鮮半島など)での性被害について問診を受けることが義務付けられました。

 

昭和21年5月から22年4月までの約11ヶ月間で、婦女暴行(レイプ)の被害を受けたために、堕胎(人工妊娠中絶)が必要な女性は、214人にのぼりました。(佐世保引揚援護局)

 

被害にあった女性は、佐賀療養所(現在の国立 東佐賀病院)において堕胎手術が行われました。

 

佐賀療養所には、九州大学医学部 産婦人科教室から医師が派遣されました。

 

医師たちには、堕胎手術を行っても堕胎罪には問わないということを、国が超法規的に密約しました。

 

「引き揚げ婦女子に対して心身疲労があり、また、事情により正規分娩が適さない人に対しては、極力、妊娠中絶を実施すること」と。

(引き揚げ婦女子医療救護実施要領)

 

外地で婦女暴行(レイプ)を受けて出産した混血児は、被害女性と同様に、日本内地で差別を受けてしまうだろうという配慮があったのでしょう。

 

佐世保港からは、139万6468人もの引揚者が上陸。

 

ようやく佐世保に上陸した後も、栄養失調や病気のために力尽きて亡くなった人の遺体、約6500体は、荼毘(だび)に付され埋葬されました。

 

あたかも性奴隷が実際にあったと主張し続けて、日本をいつまでも貶めている国や団体がある一方、実際に婦女暴行(レイプ)を受けたにもかかわらず、何の要求もせずに黙って耐え偲び、密かに堕胎手術をして、ひっそりと生きて来た日本女性。

 

現在でも、二日市保養所の「水子慰霊祭」が、毎年5月14日に筑紫野市二日市温泉街の福祉施設「むさし苑」駐車場にある水子地蔵前で、ひっそりと行われています。

 

参考図書

「水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録」上坪隆著