八紘一宇とは | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

八紘一宇とは

 

 

 

 

 

「八紘一宇」とは、軍国主義の象徴であり戦争をするための危険な考え方であるといわれています。

 

本当でしょうか?

 

実は、「八紘一宇」の考え方は、武力を使わずに世界平和を実現しようとする考え方だったのです。

 

古神道では、自我と真我を細かく分類した、一霊四魂(いちれいしこん)という考え方があります。

 

一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と、4つの魂から成り立っているという考え方です。

 

「直霊」(なおひ)は、真我、または内なる神のことであります。

 

この日本古来から伝えられてきた古神道の一霊四魂(いちれいしこん)の考え方は、幕末から明治時代に生きた儒学者の権威、平田篤胤(あつたね)の弟子の本田親徳が、体系的にまとめました。

 

4つの魂は、武人である荒御魂(あらみたま)・商工人である和御魂(にぎみたま)・農耕人である幸御魂(さきみたま)・漁人である奇御魂(くしみたま)であり、この四魂(しこん)を直霊(なおひ)という霊が管理しています。

 

四魂(しこん)のそれぞれの意味として、荒御魂(あらみたま) (aramitama)は、活動(courage)を意味し、

 

和御魂(にぎみたま) (nigimitama)は、調和( friendship)を意味し、幸御魂(くしみたま) (kushimitama)は、霊感(wisdom)を意味し、奇御魂(さきみたま) (sakimitama)は、幸福(love)を意味しています。

 

昭和15年(1940年)、神武天皇が即位してから2600年(皇紀2600年)になることを祝うため、国は紀元二千六百年奉祝事業として、宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになりました。

 

当時の相川勝六宮崎県知事も、”八紘一宇”の精神を体現した日本一の塔(八紘之基柱(あめつちのもとはしら))を作る事を提案。

 

彫刻家である日名子実三(ひなご じつぞう)氏に依頼して、昭和15年(1940年)11月25日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われました。

 

日名子実三(ひなご じつぞう)氏は、日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏(やたがらす)をデザインした方です。

 

”八紘一宇”の大きな文字が塔の中央にあり、その周りには、一霊四魂(いちれいしこん)の荒御魂(あらみたま)・和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さきみたま)・奇御魂(くしみたま)が祭られています。

 

終戦後、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)は、占領軍の監督下に置かれ、解体されてしまう予定となっていました。

 

昭和20年12月15日、占領軍からの「神道指令」によって「八紘一宇」の熟語の使用も禁止されてしまいました。

 

ハーグ陸戦条約では、「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」("should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area")、と定められています。

 

占領軍による神道の弾圧は、国際法からみても違法でした。

 

また、ハーグ陸戦条約の”敵国の領土における軍の権力”の条文の中で、建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止されています。

 

占領軍は、ハーグ陸戦条約など一切無視して、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の記念碑を破壊しようとしたのです。

 

宮崎神宮の神官たちは、何とかして、この八紘之基柱(あめつちのもとはしら)を守ろうと相談しました。

 

たまたま、占領軍が近くでキャンプをするので、警備が手薄になるときがありました。

 

その隙をねらって、塔の内部に納められていた、秩父宮雍仁親王殿下が書かれたご親筆「八紘一宇」を、宮崎神宮の神官が密かに持ち出しました。

 

そして、この「八紘一宇」のご親筆が収められていた木枠だけを塔の前で燃やして、秩父宮雍仁親王殿下の書かれた「八紘一宇」のご親筆そのものは見つからないように、森の中の地面深くに埋めました。

 

神官たちは、秩父宮雍仁親王殿下が書かれたご親筆「八紘一宇」を燃やしました、と占領軍に報告。

 

それを聞いた占領軍は、日本人の手でそこまでやったのなら、武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像を撤去することを条件に、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)を解体することを免除しました。

 

宮崎神宮の神官は、占領軍により処刑されてしまうだろうと予想していました。

 

なぜなら、ウソの報告をしていたのですから。

 

そして、あらかじめ、残された家族の面倒をみてくれるように親戚たちに頼んでいたのです。

 

宮崎神宮の神官が、命がけで守ろうとした八紘之基柱(あめつちのもとはしら)。

 

その八紘之基柱(あめつちのもとはしら)に書かれた、”八紘一宇”とはどういう意味なのでしょうか?

 

神武天皇(初代天皇)が熊野の地から八咫烏(やたがらす)に導かれて、大和朝廷を創りました。

 

そして、神武天皇のご即位二年前に「橿原建都の詔」を公表しましたが、そこには、つぎのように書かれています。

 

「上(かみ)ハ乾霊(あまつかみ)ノ国ヲ授ケタマヒシ徳(みうつくしび)ニ答ヘ、

 

下(しも)ハ皇孫(すめみま)ノ正(ただしきみち)ヲ養ヒタマヒシ心(みこころ)ヲ弘メム。

 

然(しかう)シテ後ニ、六合(くにのうち)ヲ兼ネテ以ッテ都ヲ開キ、

 

八紘(あめのした)ヲ掩(おほ)ヒテ宇(いへ)トセムコト、又可(またよ)カラズヤ」

(『日本書紀』巻第三神武天皇の条)

 

「紘」とは冠の紐とか縄張りという意味。

 

「八紘」となると、杭を(四方に)打って縄を張り巡らし、境界を示す意味。

 

従って、元々の神武天皇詔勅の意味するところは、上は天つ神(皇祖神・天照大御神)が国をお授けになった御徳に答え、下は皇孫(天孫・瓊瓊杵尊)が正しきを養われた御心を広めてゆこう。

 

その後、六合(天地と四方)を統合して都を開き、八紘(天下)を覆って宇(家)となすことは、とても良いことではないか、という意味になります。

 

つまり、国民が一家のごとく仲睦まじく暮らせるような平和国家の建設、これが神武天皇の建国の理想なのです。

 

日本書紀には、「八紘為宇」(はっこういう)とあります。

 

「八紘一宇」という言葉は、大正二年に日蓮在家教団「国柱会」(こくちゅうかい)の田中智学(ちがく)が、「八紘為宇」(はっこういう) の言葉を元に造った造語になります。

 

「八紘を掩ふて宇と為す、われ必ず諸刃の威を借りず、座りながらにして天下を平らげむ。」

 

武力を使わないで、平和に世界をひとつの屋根のもとに統治しようではないか、と神武天皇は、今から2600年以上も前におっしゃいました。

 

今を生きる私たち人類が、この神武天皇の建国の精神に沿って生きていけば、世界は光明化していき、きっと戦争や争いの無い平和な世界が顕現することとなるでしょう。

 

画像:紀元二千六百年奉祝 八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の落成式典