日本軍人の魂を捨てなかった朝鮮人
終戦後も日本軍人としての魂を捨てなかった朝鮮人がいました。
韓国政府から親日派としてひどい仕打ちを受けてもです。
なぜでしょうか?
昭和25年(1950年)6月25日、北緯38度線において北朝鮮軍が南に向けて進軍。
それは、事前に宣戦布告もなく、突然、開始された侵略でした。
約11万人の北朝鮮軍が、38度線を越境して、3日後の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落。
韓国は、ソウル南方の水原という場所に、一時的に首都を移しました。
ソウル陥落の際、韓国大統領であった李承晩は、ソウル市内の漢江にかかる橋を爆破するように指示。
橋を爆破すれば、北朝鮮軍の侵略を防ぐことができると思ったから、そのような指示を出したのでしょうが、まだ多くの韓国軍兵士や一般人がソウル市内に残っていました。
李承晩は、同胞であるはずの韓国人が犠牲になっても何とも思わなかったのでしょう。
なぜなら、武器を持たない一般人である韓国保導連盟員を、全員北朝鮮のスパイだと決めつけて、約20万人以上もの韓国人を虐殺してしまったからです。(保導連事件)
武器を持った屈強な北朝鮮軍の前では、敵前逃亡を繰り返す李承晩。
武器を持たない無抵抗な韓国人に対しては、虐殺を繰り返す李承晩。
敵と戦う気概を全く持たずに、しかも守らなくてはいけない同胞であるはずの韓国人を、何の抵抗もなく虐殺していく李承晩。
李承晩を初代大統領として建国された韓国は、とても不幸な国でした。
その後、韓国軍は釜山まで追い詰められました。国連決議により、韓国を支援するために米国を主力とする多国籍軍が編成されました。
なぜ、韓国軍はこれほどまでに弱かったのでしょうか?
朝鮮戦争当時、韓国軍には日本統治時代に旧日本陸軍に在籍していた兵士が多数いました。
しかし、反日思想で凝り固まっている李承晩は、旧日本陸軍で屈強に鍛え上がられた朝鮮人兵士を避けました。
旧日本陸軍に所属していた朝鮮人兵士は、韓国軍の将校にもされず、横の繋がりも断絶するように仕向けられていました。
ブルドックのようなどんなに屈強な兵士達が集まっても、それを統率するリーダーが、羊のような戦闘能力に欠けた人ですと、貧弱な軍隊となってしまいます。
逆に、羊のような軍事訓練をまともに受けたことのない兵士達が集まっても、それを統率するリーダーが、戦闘能力を持った狼ならば、強い軍隊となります。
当時の韓国軍には、ブルドックのような旧日本陸軍で屈強に鍛え上げられた兵士達が多数いたのにもかかわらず、それを統率するリーダーが李承晩だったので、とても弱い軍隊となってしまったのです。
釜山近郊の釜山橋頭堡まで追い詰められてしまい、大韓民国が北朝鮮に占領されるのが時間の問題となったその時、旧日本陸軍で屈強に鍛え上げられたある男が、李承晩に直談判をしました。
「我々、旧日本陸軍兵士達で師団を編成して、北朝鮮人民軍との戦闘を任せてほしい」、と。
反日思想に凝り固まっている李承晩は、旧日本陸軍で活躍した男の進言を”仕方なく”受け入れました。
もはや、大韓民国の消滅は時間の問題でしたので、「好きにしろ」と投げやりの気持ちだったのでしょう。
その旧日本軍で活躍した男は、どのような人物だったのでしょうか?
彼は、大正4年(1915年)に陸軍士官学校を卒業したエリートでした。
昭和12年(1937年)、日本と中国国民党軍との戦い(日華事変)では、大隊長(少佐)として一個大隊を統率。
約1000名の日本人兵士を指揮して活躍し、朝鮮人としては初の功三級金鵄勲章を授与されました。
中国軍では「金部隊と戦うより逃げろ」と言われていたというほどです。
日本軍では、朝鮮人将校が、日本人兵士1000名を指揮していたのです。
欧米列強が、植民地支配していた現地人を、差別することなく宗主国の正規軍の将校にまで出世させて、宗主国の兵士を指揮させていた国があるでしょうか?
昭和25(1950年)7月6日、彼は、元日本兵だけを集めて1個師団(首都師団)を編成。
北朝鮮人民軍は、この男を最も恐れていたと言われ、鎮川で韓国軍と交戦した人民軍の崔賢は「ああ、いかん。やつとぶつかった」と嘆いたといいます。
昭和25(1950年)7月末ごろから、横須賀や米国本土からも続々と米軍の増援部隊が朝鮮半島に送られていきました。
昭和25(1950年)8月8日、男は釜山橋頭堡の戦いの最中に第三師団に着任。盈徳をめぐり北朝鮮人民軍と戦っていた韓国軍の第三師団が、退路を断たれて孤立してしまいましたので、海上から撤退することとなりました。
ソ連製の戦車で武装した北朝鮮軍を相手に、勝つ見込みのない絶対絶命の状態で戦いに挑んで行きました。(長沙洞(チャンサドン)撤収作戦)
8月17日、海岸線まで追い詰められると、事前に極秘に米陸軍の第8軍司令官であったウォルトン・ウォーカー中将との打ち合わせ通り、
第3師団の兵士9000名と警察官1200名、避難民1000名全員を、釜山近海に待機していた4隻のLST(戦車揚陸艦)に乗せて、米軍艦隊から艦砲射撃を行いました。
北朝鮮人民軍は総崩れとなり、重装備を放棄して敗走をして行きました。
米軍の力を借りたとはいえ、見事な戦略戦術を持って戦いに挑んだ男の逆転勝利でした。
この撤収作戦の際、1隻のLST(戦車揚陸艦)が最後まで離岸しませんでした。
最後の一人まで救助するまで動こうとしなかった男を、待っていたからです。
そして、男が最後にLST(戦車揚陸艦)に乗船したら、そこにはなんと旧日本海軍の兵士が、米軍に協力するために乗船していました。
実は、朝鮮戦争には、日本は極秘に掃海艇などを派兵して米軍に協力していたのです。
昭和31年(1956年)、韓国軍の予備役となった彼は、城南高等学校の理事長を務めました。
彼の長男である金泳秀陸軍大尉は、昭和20年(1945年)、フィリピン戦線で戦死して靖国神社に合祀されています。
昭和55年、彼は、偕行社(旧日本陸軍将校の親睦団体)の総会に招かれた際に、「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶しました。
乃木将軍が、自分の息子が2人とも戦死した際、同様のことを話して、外国人から尊敬されましたが、彼の挨拶を聞いた、旧人陸軍将校たちは感動しました。
昭和55年、彼は、長男である金泳秀陸軍大尉が合祀されている靖国神社に参拝しました。
彼と彼の長男である金泳秀陸軍大尉は、2002年2月28日、韓国国会「民族精気議員の会」が発表した、親日派708人名簿に掲載されました。
そして、この親日派名簿に掲載されたことをきっかけにして、城南高等学校の敷地内にあった、彼の銅像が撤去されてしまいました。
盧武鉉大統領のときに、チンイルパ(親日派)弾劾運動が活発に行われ、2005年、反民族特別法が成立。
この反民族特別法に基づき、民族問題研究所から発表された親日人名辞典に、彼と彼の長男である金泳秀陸軍大尉が、日本の韓国植民地統治に協力した親日派として掲載されました。
そして、、2005年に成立した「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」に基づき、親日派に指定された彼の財産は、その遺族から没収されてしまいました。
日本統治時代には、彼とその遺族達は、朝鮮人にもかかわらず、高く評価されました。
彼を称える記事が何度も新聞報道され、崔南善の作詞で「金少佐を思う」という歌までが作られたほどです。
しかし、韓国建国後には、同じ同胞である朝鮮人から、親日派としてひどい仕打ちを受けてきました。
大韓民国存亡の危機に立ち上がり、絶望的な状況にもかかわらず、朝鮮人民軍を蹴散らした男。
その男の名は、金錫源(キム・ソグォン)。
旧日本陸軍にて鍛え上げられた金錫源(キム・ソグォン)陸軍大佐は、日本終戦後、韓国からどのようなひどい仕打ちを受けても、日本軍人としての誇りを捨てずに生き続けました。
参考図書
「朝鮮戦争/韓国編 下巻」佐々木春隆著