元寇とは高麗軍が主体の日本への侵略戦争でした。 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
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元寇とは高麗軍が主体の日本への侵略戦争でした。

 

 

鎌倉時代に元(モンゴル)が日本に侵略したとされる元寇。

 

実は、その日本への侵略軍の中心は、元軍(モンゴル)ではなく高麗軍(朝鮮軍)だったのです。

 

元の属国であった高麗の世子椹(後の忠烈王)は、元(モンゴル)の皇帝であるフビライ・ハン(チンギスハンの孫)に盛んに東征(日本への侵略)を煽り立てました。(元の歴史書『元史』)

 

元(モンゴル)の皇帝フビライ・ハンは、元への服属を求める国書を携えて、日本へ使者を何度か送りましたが、この時の鎌倉幕府執権・北条時宗は、明解な回答をしませんでした。

 

その国書には、もし、元に服従をしないのならば軍隊を送り込むという脅迫文を書いていたので、フビライ・ハンは、日本へ進軍することを決断しました。

 

当時は、大陸から日本に渡るのに船を使うしかありませんでした。

 

そこで、文永11年(1274年)年1月、軍用船300隻を造ることを高麗に命じました。

 

元から派遣されたホン・タグの指揮の下、高麗は、約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫工事をして造船作業をしていきました。

 

現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断して、費用が安くて簡単な構造の高麗船を大小900隻、建造しました。

 

文永11(1274年)10月3日、総司令官キントの指揮の元、総勢3万人以上の兵士を収容した船団が、合浦(がっぽ)(現在の馬山)から出港。(文永の役)

 

元軍(モンゴル)と、元の属国であった高麗軍(朝鮮人)の連合軍は、日本の九州に向かう途中、日本の対馬と壱岐に侵攻しました。

 

「入対馬島、撃殺甚衆」(高麗(朝鮮)の歴史書)と記録されています。

 

つまり、キム・バンギョンが率いる高麗軍(朝鮮軍)が、島根の対馬で島民を皆殺しにしてしまいました。

 

山に逃れた島民をしつこく捜す高麗軍(朝鮮軍)の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにしました。

 

高麗(朝鮮)軍は、命乞いを懇願する妊婦の腹を蹴破り、胎児をつかみ出し殺しました。

 

また、高麗(朝鮮)軍は、壱岐、対馬の人々を、男女とも素裸にして、男は手に穴を開けて船縁に吊るし、女は髪の毛で船縁から吊るしました。

 

なぜ、このような残虐なことをしたのでしょうか?

 

高麗(朝鮮人)は、食料として、人間の肉を食べる習慣がありました。そこで、多くの兵隊の食料を確保するために、途中の壱岐、対馬で虐殺してきた日本人の肉を天日干しにしていたのです。

 

まるで、豚や牛の肉のように。

 

高麗(朝鮮)軍に生け捕りにされた女性は、手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると“数珠つなぎ”にされました。

 

これは朝鮮半島特有の風習でした。

 

日蓮宗の宗祖・日蓮聖人が、関係者から聞いた話をまとめた『高祖遺文録』にも、同様のことが書かれていました。

 

壱岐でも同様の行為がありました。元・高麗(朝鮮)連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったといわれています。

 

このように、高麗軍(朝鮮軍)の兵士は、武装していない無抵抗な女、子供、老人など一般住民を虐殺して生きました。

 

対馬、壱岐での敗戦の報告を受けた御家人らは、ただちに大宰府へ向かいました。

 

その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将にして、約1万人の武士が集まりました。

 

文永11(1274年)10月20日、博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵隊は、早朝に早良郡(さわらぐん)に上陸を始めました。

 

日本側は、鎌倉と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置いて、集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えました。

 

当時の武士は、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方とされました。

 

「やあやあ、我こそは、・・・」と名乗りを上げてから、敵陣に突撃していく戦法です。

 

これに対して、元・高麗連合軍は、組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切って突撃していった御家人らが、敵に取り囲まれては討ちとられていきました。

 

また、日本には馬に乗った武士団がいて、馬上から弓矢を放つことを得意とする騎兵隊に、元軍は恐れをなして背中を向けて逃げ回っている様子が、絵巻に書かれています。

 

「騎兵は結束す。人はすなわち勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」と、日本の武将を評価した記録が、元の歴史書にあります。

 

元軍の弓矢は、小さいけれども矢の先に毒を塗っていたために、殺傷能力が高かったです。

 

戦さは、元・高麗連合軍が優位のまま夜になりましたが、元軍の副将であった劉復亨(りゅう ふくこう)が負傷しました。

 

夜、高麗船に帰ると、元の総司令官クドゥンと、副司令官ホン・タグと、高麗軍司令官キム・バンギョンが、今後の作戦行動について話し合いました。

 

高麗軍司令官キム・バンギョンは「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と、戦闘の継続を主張したのですが、

 

元の総司令官クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として、撤退を決断。

 

元・高麗連合軍は、陸地に前線基地を設けることもなく、全軍、博多湾に停泊していた船に戻り、そのまま朝鮮に帰っていきました。

 

なぜ、優位に戦さを展開していた、元・高麗(朝鮮)連合軍が、あっさりと引き返していったのでしょうか?

 

元軍の副将であった劉復亨(りゅう ふくこう)が負傷したのが原因かもしれません。

 

また、もともと、この侵略戦争は、高麗(朝鮮)王である忠烈王が、元の皇帝フビライ・ハ-ンに強く勧めたことがきっかけでした。

 

そこで、元としては、高麗軍(朝鮮)に戦わせて、高麗軍(朝鮮)に被害で出ても構わないが、元軍が多くの被害を出してまで戦うことに消極的だったのでしょう。

 

ある程度戦った時点で、見切りをつけて、さっさと引き返してしまったのです。

 

そして帰国途中に、暴風雨により多くの高麗船が沈没してしまいました。

 

この戦さによる元・高麗軍の被害はというと、失った兵士の数が、派遣時の約半数の約1万3500人にのぼりました。(高麗の歴史書「高麗史」)

 

戦さそのものは、元・高麗軍が優勢だったのですが、貧弱な高麗船で海を渡ってきたので、多くの兵士が犠牲となりました。

 

また、高麗(朝鮮)軍は、日本で200人もの童男童女を奴隷として生け捕りにして、高麗(朝鮮)の忠烈王とその妃に献上しました。(高麗の歴史書「高麗史」)

 

このような高麗(朝鮮)軍による日本人拉致が、大々的に行われていきました。

 

この時の高麗(朝鮮)の国内の状況はどうだったのでしょうか?

 

「働き盛りの男は船の建造にとられ、兵士の多くは戦いで負傷したほか、帰国中の暴風雨で溺死したため、今では国内には老人と子供だけ。

 

しかも日照りなどが続き稲も実らず、草や葉で飢えをしのいだ」とあります。(高麗の歴史書「高麗史」)

 

もともと、高麗(朝鮮)王である忠烈王が、元の皇帝フビライ・ハ-ンに強く勧めたことにより始まった、日本への侵略戦争。

 

そして、日本への侵略軍の多くを構成していた高麗軍(朝鮮軍)。

 

この元と高麗(朝鮮)軍による日本への侵略戦争で、日本と高麗(朝鮮)に多くの傷跡を残してしまいました。