天皇皇后両陛下による七人の士への墓参り | 誇りが育つ日本の歴史

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天皇皇后両陛下による七人の士への墓参り

 

A級戦犯の靖国神社への合祀のあと、天皇皇后両陛下による靖国神社への参拝ができなくなったと言われています。

 

実は、天皇皇后両陛下は、靖国神社への合祀のあとも、七人の士への墓参りを自らの意思で行っていたのです。

 

昭和21年4月29日、東京裁判において七人の士が起訴されました。

 

4月29日は、昭和天皇のお誕生日になります。

 

七人の士とは、

土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)

松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)

東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)

武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)

板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)

広田弘毅(文民、内閣総理大臣)

木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)

です。(処刑された順)

 

七人の士のうち6人が陸軍大将でした。

 

昭和23年(1948)12月23日、絞首刑の判決を受けた七人の士の刑が、巣鴨プリズン(池袋サンシャインビル)にて執行されました。

 

12月23日は、当時皇太子殿下であった今上天皇のお誕生日になります。

 

絞首刑となった七人の士は、その日のうちに横浜の久保山火葬場で火葬によりご遺体は焼かれました。

 

以下は、「天皇と東条英機の苦悩 」から引用です。

 

全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。

 

窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

 

ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。

 

このため骨壷は米兵の手もとへ移った。

 

米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。

それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

 

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。

 

それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。

 

遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

 

骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。

そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。

 

この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。

 

台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

 

A級戦犯の遺骨を奪う計画は、小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。

 

三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。

 

ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

 

そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。

 

三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。

 

市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。

 

三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

 

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。

 

彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。

 

市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。

 

市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

 

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。

 

今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。

 

次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

 

これを盗み出すのは12月25日の夜と決めた。

米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。

 

暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

 

三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。

 

三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。

 

七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

 

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。

 

遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。

 

そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。

 

これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。

(「天皇と東条英機の苦悩 」塩田 道夫著)

 

その後、三文字氏は、松井大将の他、七人の士の遺族らと相談し、翌年5月3日、廣田氏、東條大将、武藤大将の未亡人とともに興亜観音を訪れました。

 

興亜観音とは、松井大将が生前、南京城攻略のあと支那大陸から戻ってきてから、熱海伊豆山の山中に建立したものです。

 

松井大将は、興亜観音にて、南京城攻略で戦死した日本兵だけでなく支那兵をも平等に、毎日、戦没者供養していました。

 

興亜観音を訪れた、三文字氏と廣田氏、東條大将、武藤大将の未亡人は、先代堂守である伊丹忍礼師に「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで秘蔵しておいて欲しい」と、頼みました。

 

伊丹忍礼師は、その遺骨を一目みて、七人の士のものと直感。

 

こころよく承諾されました。

 

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により、日本の主権が回復しました。

 

しかし、講和条約には次のような規定がありました。

 

第11条、関係国の同意なくして、日本政府は勝手に戦争受刑者(戦犯)を釈放してはならない。

 

この規定の為、日本の主権が回復した後も、巣鴨プリズン、モンテンルパ(フィリピン)、マヌス島(オーストラリア)において、1224名の日本人及び、戦時中日本国籍を有していた朝鮮人と台湾人が、釈放されることなく、A、B、C級戦犯として服役していました。

 

昭和27年(1952)6月5日、東京裁判で戦犯とされた方々の、名誉回復のための署名運動が全国規模で起こり、4000万人の署名が集まりました。(戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願運動)

 

この4000万人の署名は国会を動かしました。

 

昭和28年(1953)8月、衆院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択。

 

東京裁判で戦犯とされた方々は、「日本にとっては戦犯ではない」という名誉回復が、国会において正式に決議されたのです。

 

そして、日本政府は関係各国と交渉して、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を、昭和33年までに釈放しました。

 

昭和34年4月19日、七人の士の遺骨が安置されていた、伊豆の興亜観音に「七士の碑」が建立されました。

 

昭和35年(1960)4月28日、三文字正平弁護士らは、東京の日比谷で開かれた東京裁判弁護団解散記念会において、三河山頂に七人の士の墓碑を建てる計画を発表。

 

ご遺族の方の同意のもとに、各方面の有志の賛同を得て、愛知県幡豆郡幡豆町(はずぐんはずちょう)の三ヶ根山(さんがねさん)山頂に合祀墓がつくられ、伊豆の興亜観音から七人の士の遺骨が分骨されました。

 

そして、昭和35年8月16日静かに関係者と遺族が列席の元、「殉国七士廟」の前で墓前祭が行われました。

 

昭和54年5月26日、昭和天皇皇后両陛下は、豊田市内で行われる植樹祭にご出席されるために、愛知県の三ヶ根山頂にある「グリーンホテル」にご宿泊されました。

 

植樹祭の会場は豊田市内なので、宿泊先も豊田市内にあるホテルが便が良いと思います。

 

しかし、昭和天皇の強いご意向(御内意)により、わざわざ三ヶ根山頂にある「グリーンホテル」にご宿泊されたのです。

 

なぜでしょうか?

 

当日の朝6時すぎ、同行していた元政府高官の方が、ご案内のためにお部屋に行くと、天皇皇后両陛下は、三ヶ根山頂にある七人の士の眠る「殉国七士廟」の方角に対して、直立不動のままに佇立(ちょりつ)されていました。

 

直立不動のままに佇立(ちょりつ)されていた時間は、元政府高官の方がお部屋についてから15分間でしたので、実際はそれ以上、佇立(ちょりつ)されていたと思われます。

 

天皇皇后両陛下は、殉死された七人の士に対して、どのような思いで佇立(ちょりつ)されていたのでしょうか?

 

この前年の昭和53年10月17日、七人の士(A級戦犯)の靖国神社への合祀が行われていました。

 

靖国神社への合祀の後も、天皇皇后両陛下は、七人の士への墓参りを行なっていたのです。

 

参考図書

「日本人が知ってはならない歴史」若狹和朋著

「天皇と東条英機の苦悩 」塩田 道夫著