陸海軍の空の神兵と指揮官たち | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

陸海軍の空の神兵と指揮官たち

 

終戦後、英国やオランダに恨まれて、復讐心から戦犯の汚名を着せられて、処刑されてしまった陸海軍の空挺団の指揮官と陸軍大将。

 

しかし、彼らは戦犯ではなく、数百年に及ぶ白人による植民地支配を終わらせた、歴史的戦闘の指揮官だったのです。

 

スマトラ島南部にあるパレンバンには、オランダ植民地時代にインドネシアの85%の石油を生産していたプラジュ油田とロイヤル・ダッチ・シェル製油所があリました。

 

資源のない日本が戦争をする上で油田を制圧し、石油供給基地を確保することは、日本軍の南方作戦における最も重要な戦略目標だったのです。

 

昭和17年(1942)1月11日、海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊が、セレベス島メナドに敵前落下傘降下。

 

海軍に続いて、昭和17年2月14日午前九時、援護戦闘機を含む八十八機は、500人の日本陸軍第1挺進団(挺進第2連隊)を乗せて、マレーシア南部のカハン飛行場を飛び立ち、マラッカ海峡を横断、スマトラ島を海岸沿いに南下し、パレンバンを目指しました。

 

パレンバン上空に侵入、落下傘降下が始まったとき、通常高度の半分以下の約200メートルという低空だった。

 

午前11時26分、降下間隔0・五秒で機から飛び出しパレンバン近郊のジャングルや湿地帯に落下傘降下した。

 

奥本中尉は小隊標旗の日の丸に、次のように書きました。

 

「本日ノ休養ハ、靖国ニ於イテス」

 

これは、靖国神社まで休まず絶対に戦闘を続けて任務を完遂する、と全員で誓ったのでした。

 

地上の連合軍はオランダ軍と英軍を合わせ2千人だった。第2中隊の蒲生清治中尉は飛行場の西側に降下。

 

陸軍による事前の調査では、落下傘で着地する場所は平地で草地でした。ところが2月は雨季のため胸まで水に浸かる湿地になっていて、草がぼうぼうでした。

 

隊長ですから一番に飛び降り、着地後は3人が1組になり深い草むらをかき分け進みました。

 

降下した第2中隊60人のうち蒲生中尉以下7人が戦死した。パレンバン作戦での日本兵の戦死者数は34人、全員が20代の若者だった

 

インドネシアには、古くから「ジョヨボヨ王の予言」というものが言い伝えられてきました。

 

「我らの王国は白い人々に支配される。彼らは離れたところから攻撃をする魔法の杖を持っている。

 

白い人々からの支配が長く続くが、空から黄色い人がやってきて白い人々を追い払ってくれる。

 

この黄色い人も我らの王国を支配するがトウモロコシの寿命と同じくらいの期間しか居ない」。

 

日本が大東亜戦争を始めるにあたり、最優先事項だったのは石油の確保でした。

 

なぜなら、昭和16年8月から米国をはじめとする連合国は、日本に対して、石油の全面禁輸政策を実行していたので、日本の石油備蓄量は残りわずかとなっていたからです。

 

当時の日本は、石油の約80%を米国に依存していました。

 

石油がなければ、戦艦や戦闘機、戦車などはスクラップ同然となってしまいます。

 

日本が米国などの植民地となってしまう危機が、間近に迫っていたのです。

 

その危機を打開するために、当時のアジアで唯一、石油が採掘されていた国である、オランダ領インドネシアの油田と発掘製造施設を奪う必要があったのです。

 

また、この施設は破壊せずに無傷のまま占領しなければなりませんでした。

 

なぜなら、占領する際に破壊してしまったら、その後の石油採掘の計画に影響が出てしまうからです。

 

すなわち、石油の発掘製造施設を速やかに無傷のまま占領することが、必要不可欠でした。

 

昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議に於いて決定した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」では、次のように規定されました。

 

一、南方の資源地帯を制圧して自存自衛を確立する南方作戦

二、インド洋制圧と蒋介石支援ルート切断と、

  インド独立による英国の屈服を狙う西亜作戦

三、アメリカを近海迎撃して彼の継戦意思の喪失を計ること

 

すでに昭和16年8月から、アメリカからの石油を全面禁輸されてしまっていたので、イギリスの植民地であったマレー半島と、オランダの植民地であったインドネシアを制圧して、南方資源地帯を確保することは、国の存亡をかけた作戦だったのです。

 

また、それは同時に、数百年にわたる白人によるアジアの植民地支配をひっくり返してしまった歴史的なことでした。 

 

戦闘機から降下した落下傘部隊が、地上に到着するまでの数十秒間は、地上の敵に討ちまくられました。

 

奥本中尉の落下傘にも、ぷすぷすと弾が通り抜けました。

 

そして、搭乗機が地上砲火を回避するなかで降下したので、ジャングルの森の中に落ちてしまいました。

 

兵隊が携行する武器は、拳銃と手榴弾だけで、小銃、機関銃、弾薬、将校の軍刀(指揮刀)は別の箱に入れて投下します。

 

しかし、ジャングルのかなでその箱は何処に落ちたか分かりませんでした。

 

箱どころか、仲間の兵が何処に降りたかも分からない。

 

そのような状況の中で、奥本中尉は、巡り会った五名と共にジャングルから抜け出して、トラックに乗って向かってきた約百五十名オランダ兵に対し、手持ちの拳銃と手榴弾だけで戦いました。

 

「甲村連隊長は『突っ込め!』と号令して自ら突撃する場面が発生した。

 

降下挺進部隊には、第一線先陣も、予備隊もない。

 

特にジャングル内に於いては、連隊長自身も第一線の散兵線の一兵士であることを如実に物語っていた」

 

2月14日午後9時、空挺団たちは、パレンバン飛行場を制圧。

 

それまで突撃を続けてきた空挺団は、制圧した飛行場で停止しました。

 

奥本中尉は、この時の様子を次のように書き残しました。

 

「戦死した戦友の勇敢な働きを思い浮かべて不覚にも泣き出す兵、ずっと前進していた部隊が、一旦停止すると、必ず感傷が襲うのである」

 

次に、石油所制圧とパレンバン市内の制圧に向かい、パレンバン市内も制圧することができました。

 

この活躍によって、赤道下の広大なインドネシアは、日本軍の管理下に入り、数百年に及ぶオランダ人による植民地支配は終わりました。

 

このニュースを聞いた日本国民は熱狂しました。

 

なぜなら、石油を獲得できるかどうかが、日本が生き残れるかどうかの生命線だったからです。

 

そして、彼ら空挺団の兵士たちを「空の神兵」と呼びました。

 

敵前に奇襲降下した、わずかの空挺団の兵士たちが、日本を救い、世界史を塗り替えたのです。

 

この敵前落下傘降下作戦を指揮したのは、海軍の堀内豊秋海軍大佐と、陸軍の挺進第二連隊長、甲村武雄陸軍少佐でした。

 

また、同じ時期の昭和17年2月15日、日本陸軍が、英国の植民地だったシンガポールを陥落させて、英国による植民地支配を終わらせました。

 

この作戦の指揮官は、山下奉文陸軍大将でした。

 

英国やオランダは、堀内豊秋海軍大佐、甲村武雄陸軍少佐、山下奉文陸軍大将を、なんとしてでも復讐したかったのでしょう。

 

なぜなら、数百年に及ぶ植民地支配により、搾取してきたインドネシアやマレー半島の資源を、あっけなく奪われてしまったのですから。

 

これら歴史的快挙を遂げた指揮官たちは、終戦後、英国、オランダの怨念を晴らすために、戦犯として処刑されてしまいました。

 

参考図書

「空の神兵」田中舘貢橘著 心のかけはし 平成25年5−6月号

 

「なぜ 大東亜戦争は起きたのか?インドネシア・パレンバン落下傘部隊の記録 空の神兵と呼ばれた男たち」高山正之、奥本實共著