大東亜共栄圏とは何だったのでしょうか? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

大東亜共栄圏とは何だったのでしょうか?

戦前の日本は、アジアを侵略して、植民地にして、現地人を奴隷として扱い、搾取して、略奪強姦をして、アジアの人々に多大な迷惑をかけてきた悪い国であった、とレッテルを貼られてしまっています。

 

本当に日本は悪い国だったのでしょうか?

 

実は、日本は、アジアを白人の植民地支配から解放し、大家族主義のもと、人種差別のない自由で平等で平和な社会を実現し、ともに繁栄していこうとしていたのです。

 

昭和15年(1940年)、近衛文麿内閣の時、「大東亜共栄圏」という言葉がスローガンとして使われ、翌年の昭和16年(1941年)12月、日米開戦直後の東條内閣の会議において、「大東亜戦争」と命名されました。

 

昭和18年(1943年)11月5日から7日にかけて、東京にて「大東亜会議」が開催されました。

 

「大東亜会議」とは、重光葵外相の発案で、東条英機首相の主導のもとに開催された、東アジア地域のサミットのようなものでした。

 

参加者は、東条英機(日本)、

自由インド仮政府(チャンドラ・ボーズ)、

インドはこの時期、まだイギリスから独立しておらず、独立を目指した亡命政府の代表として、チャンドラ・ボーズ氏が出席しました。

タイ(ワンワイタヤーコーン親王(首相代理))、

ビルマ(バー・モウ内閣総理大臣)、

フィリピン(ホセ・ラウレル大統領)、

満州国(張景恵国務総理大臣)、

中華民国(汪兆銘南京政府)

 

重光外相は、大東亜戦争の大義名分について次のように語っています。

 

「日本の戦争目的は東方の解放であり、アジアの復興である。この他に日本は何ら野心を持たない。

 

これが、日本が大東亜戦争という戦争に突入して行った戦争目的であってこれさえ実現すれば、日本はいつでも戦争終結の用意がある、というのが我が主張であった。」

(「重光葵著作集」重光葵著)

 

大東亜会議に出席した、ビルマ王国のバー・モウ首相は、会議の感想を次のように語りました。

 

「会合は極めて感動的な雰囲気を作り出していた。

 

私はみんなと過ごしたこの短時間の夜が、これまでの感情は全て脇に置いて、ただ毎日、その国と国民の現実のみを考えることを強制されてきた、

 

地域の果ての国からやってきたばかりの人間たちの中に、かくも大変様々で、広範囲の考えと感慨を掻き立てるとは考えても見なかった。

 

今や人々はこれらの現実を超えて、広いアジアそのものを一つのものとしてとらえる思いに、満たされていたのであった。

 

大部分の人は初対面の人たちだった。にもかかわらず、お互いに全ての生涯を知りあい、失っていたものを今再発見した。」と。

(「ビルマの夜明け」バー・モウ著)

 

それまで、数百年の長きにわたって、欧米列強の白人から植民地奴隷扱いを受けて、搾取され続けてきたアジアの人々。

 

白人たちは、お互いにアジアのどの地区を、自国の植民地とするかを話し合っていました。

 

しかし、植民地支配を受けてきたアジア人たちは、お互いに話し合い、白人に対抗すべく協力するということをしてきませんでした。

 

そういう意味で、東京で開催された大東亜会議というものは、アジア諸国が一致団結して、白人に対抗しようという初めての国際会議だったのです。

 

昭和18年10月21日、シンガポールにおいて、設立されたばかりの自由インド仮政府にはまだ領土がなく、インドから逃れた亡命政府でしかなかったので、チャンドラボーズ氏はオブザーバーとして大東亜会議に参加していました。

 

東条英機首相は、大東亜会議の席上、自由インド仮政府にアンダマン諸島とニコバル諸島の割譲を約束して、領土を与えました。

 

また、東條英樹首相は、会議の最後に、スバス・チャンドラ・ボーズ氏にインドの大義について言及してくれるように、バー・モウ氏に頼んでいました。

 

その依頼に応じて、バー・モウ氏は、大東亜会議の終わりに次のように発言しました。

 

「インドの独立なくして、アジアの自由は無し、インドとビルマの共同の敵は英国帝国である。

 

歴史の流れの中で、権力者は次々に入れ替わる。しかし、年月とともに生き続け、育ち続ける言葉を語ることができる人間はごくわずかである。

 

そうした人間こそが国民にとっての物語となるのである。

 

私の闘争の経験から武力ない抵抗は無力であると痛感するに至った。

 

インドの武力による奪還を主張されて、闘争してきたスバス・チャンドラ・ボーズ氏こそ、インド独立の指導者として最もふさわしい稀有な人物である。」と。

 

スバス・チャンドラ・ボーズ氏は、次のように演説しました。

「議長(東條首相)閣下、私が昨日及び本日、この大東亜会議の議事を傾聴している際、私の目の前には「パオラマ」のごとく世界の歴史が去来してきました。

私は過去100余年もの間、開催された数多くの国際会議を回想しました。

 

そしてかつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しくさまよったことのある国際連盟の会議。

そして、その廊下やロビーを想起しました。

 

加えてさらにこの歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて、世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを思います。

議長閣下、本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。

 

それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。

本会議は解放された諸国民の会議であり、正義、主権、国際関係における互恵主義、及び相互扶助等の原則に基づき、世界のこの地域に新秩序を創建しようとする会議です。

 

私はこのような原則に基づく会議が、日出ずる国(日本)にて開催されたことは、偶然ではないと考える者です。

そもそも世界が光明と指導とを東洋に求めたということは、これを持って初めてではないからです。

世界新秩序建設は、過去において、かつ他の地域において、何度も試みられてきましたが、全て失敗に終わりました。

それは新秩序創建の指導的立場に立つべきものに利己欲、強欲、及び猜疑心があったためです。

それゆえに、ここに世界が再び光明を東亜に仰がなければならないことになったのは、誠に当然の理であり、歴史的必然なのです。」と。

 

アジアの民がアジア自身の手によって集まった大東亜会議において、民族自立の機運は高まっていましたが、この演説によって、それは決定的となりました。

 

ではなぜ、日本がアジア解放のために立ち上がり、白人からの黄色人種の解放を主導していったのでしょうか?

 

東条英機首相が、東京裁判において残した宣誓供述書には次のような記述があります。

 

「そもそも世界の各国が各々そのところを得て、相寄り相助けて万邦共栄の楽を共にすることが、世界の平和確立の根本要義である。

 

しかして、特に大東亜に関係深き諸国が互いに助け、各自の国礎に培い共存共栄の紐帯を結成すると共に、

 

他の地域の諸国家との間に、共和偕楽の関係を設立することが、世界平和の最も有効にしてかつ実際的の方途である。

 

これが大東亜政策の根底をなす思想であります。」

(「東条英機 歴史の証言」渡辺昇一著)

 

アジア各国が自立して、お互いに助け合いながら共存共栄して繁栄していこう、という理想を、日本は根本思想として掲げていたのです。

 

そこに、白人のような侵略や植民地支配による搾取や奴隷などといった思想は、全くありませんでした。

 

日本書紀の皇都経営の詔には、次のような記載があります。

 

「六合(くにうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせむこと、亦可(またよ)からずや」

 

「あめのしたをおおいていえにせんこと」、から八紘一宇の言葉が生まれました。

 

これが、日本国建国の理念であります。

 

世界は、一つ屋根の下の家であり大家族である。人類皆兄弟。人種や肌の色にかかわらず、人種差別や奴隷もなく、お互いに平和に繁栄していこうという、理想国家の建設を目指しました。

 

昭和12年(1937年)に発行された「八紘一宇の精神」には次のような解説があります。

 

「「八紘」は「八荒」ともいい、前者は八方の隅、後者は発方の遠いはてという字義であって、共に「世界のはて」とか「天の下」という意味である。

 

「一宇」は「一家」という字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体という意味である。

 

従って、「八紘一宇」とは、皇化にまつろわぬ一切の禍を払い、日本はもちろんのこと、

 

各国家・各民族をしてそれぞれそのところを得、その志を伸ばさしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつつも、

 

相より相助けて、全体としてあい然たる一家をなし、以って、生成発展して止まないという意味に外ならない。」と。

(「国民精神総動員資料」「八紘一宇の精神」内閣・内務省・文部省編)

 

八紘一宇は、それぞれの国や民族は自立して、それぞれのいいところを伸ばし、お互いに助け合い、発展していこうという意味です。

 

 

大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」には次のようにあります。

 

「1、アジア諸国は共同してアジアの安定を確保し、道義に基づく”共存共栄”の秩序を建設する。

 

2、アジア諸国は”相互に自主独立”を尊重し、互いに助け合い、アジア諸国の親睦を確立する。

 

3、アジア諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、アジア諸国の文化を高め合う。

 

4、アジア諸国は互いに緊密に提携し、それぞれの国の経済発展を図り、アジア諸国の繁栄を増進する

 

5、アジア諸国は世界各国との交流を深め、”人種差別を撤廃し”、互いによく文化交流し、”進んで資源を解放し”、世界の発展に貢献する

 

”相互に自主独立を尊重し”とは、植民地支配から脱却して再び旧宗主国からの支配を受けることがないようにという願いも込められていました。

 

”人種差別の撤廃”は、大正8年(1919年)パリ講和会議において、国際連盟設立に向けての話し合いの中、その規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」との一文を挿入することを、日本は主張しました。

 

しかし、16名中11名の過半数の賛成を得たのにもかかわらず、ウイルソン議長により全会一致ではないとして、否決されてしまいました。

 

日本は、首尾一貫して人種差別撤廃を大義名分としていたのです。

 

また、”資源の解放”は、日本がABCD包囲網により経済封鎖されてしまったことが戦争への引き金となってしまったので、そのようなことを防ぐ目的で規定されました。

 

このように、日本は人類皆兄弟という大家族思想のもと、人種差別のない平和で繁栄した国づくりを目指しました。

 

そして、白人の植民地支配により数百年もの長い間、搾取され続けていたアジア諸国の有色人種たちは、日本が掲げた新世界秩序を理想とし、希望の光としたのです。

 

チャンドラ・ボーズ氏は、大東亜会議にて次のように演説しました。

「会議参加の閣下各位の既にご承知のように、元来、インド思想並びに文化は普遍主義を持って、その特色とするものでして、遠き昔にはインドは仏教及びこれを中心とするあらゆる文化を通じて全アジアに光を放ったのであります。

 

議長閣下、そして私はここに大東亜共栄圏の建設は単に東亜民族のみならず、請われれば全アジア民族と全人類に取って重大関心事たることを指摘したいのです。

 

私は、新自由亜細亜創建の使命が十二分に完遂がなされることを祈る次第です。終わりに鑑み、私の希望するがごとく、

 

閣下(東条英機首相)並びに閣下の優れたる同僚各位がこの使命を達成できた暁には、各位はまさに新日本の建設者、新東亜、更に新亜細亜の建設者としてのみならず、実に新世界の創造建設者として、永くその名を歴史に残すことを確信しています。」と。

 

その一方、当時の連合国である英国と米国は、どのような新世界秩序を計画していたのでしょうか?

 

日米開戦前の昭和16年(1941年)8月9日から12日、カナダの東海岸に位置するニューファンドランド島沖合に停泊中の、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で、英米首脳が会談。(大西洋会談)

 

その会談で、英国首相のチャーチルと米国大統領のルーズベルトは、以下の8項目の新世界秩序を取り決めました。(大西洋憲章)

英国と米国は、日米開戦前の時期に、世界大戦後の新世界秩序を定めたのでした。

1、合衆国と英国の領土拡大意図の否定

2、領土変更における関係国の”人民の意思の尊重”

3、政府形態を選択する”人民の権利”

4、自由貿易の拡大

5、経済協力の発展

6、恐怖と欠乏からの自由の必要性

 (労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)

7、航海の自由の必要性

8、一般的安全保障のための仕組みの必要性

 

一見すると、良いことばかりが書かれていて問題ないようにも思えます。

 

しかし、この中の”人民の権利”や”人民の意志の尊重”と規定された”人民”とは、あくまで東ヨーロッパの”白色人種”を対象としたものであり、経済協力の発展や自由貿易の拡大といったものも、アジアやアフリカの植民地に住む、”有色人種”を対象としたものではありませんでした。

 

事実、英国のチャーチルは、アジアやアフリカの植民地にこの原則が適用されることを拒みました。

 

また、米国のルーズベルトも、「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語っていました。(『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之著)

 

白人は、有色人種を奴隷として使用し、搾取の対象としか認識していませんでした。その白人が作った世界秩序に対抗した唯一の有色人種が、日本だったのです。

 

スバス・チャンドラ・ボーズ氏は、大東亜会議が開かれる前の昭和18年(1943年)6月19日に来日した際、次のように述べました。

 

「インド人の日本に対する感情をお知りになりたいでしょう。日本は、他の大陸の国家が、アジア大陸に侵略するのを食い止めた最初の国です。

 

過去2000年の間、インドと日本は文化的に密接な関係を保ってきました。英国がインドを支配したため、この絆は中断されてしまいました。

 

しかし、インドが自由を獲得すれば、この関係は再び強まるでしょう。

 

両国が完全な自由を享受し、それぞれの国家の命運を切り開くに当たって、インド人が日本と協力することは全く自然なことなのです。

 

この機会に申し上げておかねばならないのは、昭和17年(1942年)3月に東條英機首相がインドに関して行った声明は、インド人の心に深く染み渡り、自由独立運動に勇気を与えてくれたということです。」と。

 

しかし、日本は、かつて、アジアを侵略して、植民地にして、現地人を奴隷として扱い、搾取して、略奪強姦をして、アジアの人々に多大な迷惑をかけてきた悪い国であった、とレッテルを貼られて謝罪を繰り返しています。

 

参考図書

「大川隆法の大東亜戦争論」大川真輝著

『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之著

「国民精神総動員資料」「八紘一宇の精神」内閣・内務省・文部省編

「東条英機 歴史の証言」渡辺昇一著

「ビルマの夜明け」バー・モウ著