「地上の楽園」と騙されて、北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人妻たち | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

「地上の楽園」と騙されて、北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人妻たち

 

 

 

 

 

かつて、「地上の楽園」と騙されて、北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人妻の人たち。

 

「地上の楽園」どころか、人権弾圧をやりたい放題の北から命がけで脱出する人が絶えません。

 

朝鮮総連や朝日新聞が、「地上の楽園」と騙した北朝鮮では、どのような人権弾圧が行われていたのでしょうか?

 

昭和35年(1960年)9月23日、朝鮮の済州島出身の両親の元、政美さんは、次女として、大阪市生野区に生まれました。

 

当時は、朝鮮総連や朝日新聞などが、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、在日朝鮮人と日本人妻を、北朝鮮に帰国させる事業を盛んに行っていました。

 

昭和37年(1962年)に父親を亡くし、子供3人を抱えたお母さんは、在日朝鮮人の男性と再婚しました。

昭和38年(1963年)10月18日、「地上の楽園」である北朝鮮に行けば生活が楽になると説得されて、家族と共に北朝鮮に向かうことになりました。

新潟港から乗船して、北朝鮮の清津港に到着。

 

清津港は古く、出迎えの人たちの姿は貧しかったそうです。

 

そのような状況を見て、まだ10代後半だったお兄さんは、「船から降りない。日本に返してくれ!」と言い張りました。

 

そして、そのままどこかへ連れ去られてしまいました。

それから4年半経ったある日、政美さんは、、精神病患者専用の病院で、髪は伸び放題でボロボロの服を着たお兄さんに再開しました。

 

薬漬けにされて、生きるのもやっとの状態にさせられてしまったのでしょう。間も無くお兄さんは亡くなってしまいました。

 

北朝鮮では、生まれた時から思想教育が徹底されます。

 

幼稚園では、ハングル文字を憶える前に「キム・イルソン」「キム・ジョンイル」の名前を暗記させられます。

在日帰国者は、朝鮮人たちから「チョッパリ(日本人の蔑称)」などと差別されました。

 

「神様は我々を助けてくれないが、キム・イルソンは我々を助けてくれる」と教育されました。

 

政府に反抗すれば、政治犯として殺害されてしまいますので、誰でも、政府に反抗する意志をなくして行きました。

昭和55年(1980年)、政美さんは、新義州第1師範学校を卒業して、新義州内の大学の体育教師として働き、マス・ゲームの指導教官になりました。

 

平成7年(1995年)5月、政美さんは、餓死者の「遺体処理」に動員されました。

この年、北朝鮮では、大規模の飢饉が起きました。

 

餓死者は90年代を通して合計300万人以上とも言われました。平壌以外の地方都市の多くで配給がストップしました。

当局からは「絶対に仕事内容を外に漏らさないように」と誓約書にサインをさせられ、政美さんは、秘密裏に遺体処理の仕事に携わりました。

 

新義州駅前の旅館内には遺体が山のように運ばれ、夜になると学生たちと4班に分かれ山間部に遺体を捨てに行きました。

 

遺体の数は、35日間で2千体を超えました。

 

平成8年(1996年)11月、政美さんは、突然解雇されてしまい、山奥への追放を言い渡されてしまいました。

 

大学入試を控えていた娘と、高校生の息子も一緒に追放されてしまいました。

 

子供の将来まで潰されてしまうのは耐え難かったそうです。

 

各部署に必死に掛け合いましたが、無駄でした。

 

政美さんは、この時、ついに脱北を決意しました。

中朝国境を流れる鴨緑江(アムノッカン)河口付近で、引き潮の時間を見計らって、川を渡ろうと計画しました。

 

平成12年(2000年)12月1日午前5時。

国境付近に、子供たち3人と身を潜め、引き潮の時間まで待ちました。

 

真冬の鴨緑江周辺は、マイナス20度以下になる日もある極寒でした。

 

持ってきたお弁当は凍ってしまい、両手、両足は感覚が無くなり、紫色に変色していきました。これは、凍傷の症状でした。

政美さんは、心の底から次のように祈りました。

 

「仏様、本当にお忙しいとは思いますが、しばらくこの3人に目を向けては頂けませんでしょうか。この運命を、命を、どうかお助け下さい!」と。

熱心な仏教徒だったお母さんの言葉を思い出しました。

「仏教の神様は何億という自分の子供たちを常に見ているよ。

 

人生で本当に困ったときには、心から祈ったら助けてくれるんだよ。それを信じて、あなたは生きていかなくてはならないよ」と。

生前、お母さんが、よく話してくれていた言葉が、このとき、心の底から湧き上がってきました。

 

涙が止まりませんでした。

午後6時を過ぎたころ、土手で警戒に当たる警備兵がいないのを確認して、脱北を決行しました。

 

境界線にある土手を一気に駆け上がると、電気鉄条網の鉄線を古木で押し拡げて、息子と娘を通しました。

 

脱北後に着替える衣類を詰めたバッグを持って、3人は境界線を越えました。

しかし、中国領側の土手の向こうは、干潟が遙か遠くまで続いていました。

立ち止まっている暇はありません。

 

凍傷で指先の感覚がなくなった両足を動かして、泥沼をかき分けていきました。

 

黙々と歩いていると、海水がすでに腰周りまで満ちてきているのに、ハット気がつきました。

 

娘は、すでにのど元まで海水に浸かっていました。

このままでは溺れてしまう。

 

身の危険を察知して周りを見渡すと、たまたま、岸に繋がれていた木製の小舟を見つけました。

 

子供を乗せて叫びました。

「チン・ジューミン!(清救命)」

しばらくして、中国人の老人が、岸へと引き上げてくれました。

 

直後に「ザザザーッ」という流水音が聞こえ、河は海水で一気に満たされていきました。まさに間一髪でした。

その後、政美さんは、新義州にある国家保衛部の留置所に拘束されてしまいました。

 

決死の覚悟で脱北したのに、中国公安によって、北朝鮮に強制送還されてしまったのです。

留置所内での拷問は、想像を絶するものでした。

 

顔面への殴打で目は潰れ、歯はすべて抜け落ちた。舌は口から出たまま元に戻らず、肛門は開いたままでした。

身体は、糊のように床に貼りついてしまい、動くことすらできませんでした。

 

声も出ません。

 

死体同然になり果てた中で、心の声はささやきました。

 

「大丈夫です。死ぬことはありません」

「あなたは死なない。生きてその経験を世界に伝えなさい。あなたをここから助けてあげますので、その大事な仕事をしっかりと果たしなさい」と。

息が閉じようとする、まさにその瞬間、心の内側から響いてきた厳かな「言葉」でした。

平成15年(2003年)11月、政美さんは、2度目の脱北を果たしました。

 

平成17年(2005年)7月28日、日本のNGO「脱北帰国者の生命と人権を守る会(以下「守る会」)などの支援で、息子と共に日本への帰国を果たしました。

 

そして、娘さんは、同年11月末に日本に帰国。

お母さんとともに、『地上の楽園」と騙されて、新潟港から北朝鮮に渡った政美さん。

 

政美さんと同じように、在日朝鮮人と日本人妻93、340人が、朝鮮総連や朝日新聞などから騙されて、公的に誘拐されて、北朝鮮に渡っていきました。

 

93、340人の人々は、北朝鮮でどのような人生を送ったのでしょうか?

 

このような北朝鮮の人権弾圧に対して、非難すらしようとしない反日日本人の方々。

 

「地上の楽園」と騙して公的に誘拐したあとも、北朝鮮の実態を報道しようとしてこなかった朝日新聞。

 

「人権侵害だ!」、「差別だ!」と、何かと日本政府に対して大きな声を上げる朝鮮総連。

 

日本は、北朝鮮によって、半世紀以上にもわたり、生命と財産と人権を奪われてきたのです。

 

参考図書

The Liberty 2010年5月号