対華21か条の要求は、袁世凱による反日宣伝の材料でしかありませんでした | 誇りが育つ日本の歴史

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対華21か条の要求は、袁世凱による反日宣伝の材料でしかありませんでした

 

 

日本は、大正4年、袁世凱に対して21か条の要求をしたが、これは支那に対する不当で屈辱的な要求であり、日本は悪いことをして迷惑をかけて、世界中から非難された、と言われています。

 

しかし、21か条のうちの7か条は”要求”ではなく”要望”であり、最終的な締結の前に日本は棚上げして、のちに撤回しています。

 

残りの14か条についても、日本は、米国から「何の異議もない」という通告を受けましたし、英国、ロシア、フランスからも好意的に受け取られていました。

 

さらに袁世凱は、この条約締結の直後から約束を全く守ろうとせずに、そればかりか”対華21か条の要求”を、反日宣伝(プロパガンダ)の材料として大いに利用していったのです。

 

明治27年(1894年)、中国は日清戦争で負けた後、下関条約により、正当に日本の領土となった、満州最南端の遼東半島を取り返すために、ドイツ、ロシア、フランスに働きかけました。

(三国干渉)

 

この干渉により、中国は、一旦、遼東半島を取り返すことに成功しました。

 

しかし、山東半島の膠州湾(コウシュウ)と青島(チンタオ)はドイツに、山東省の威海衛(イカイエイ)と香港の九龍はイギリスに、遼東半島(リャオトン)の旅順と大連はロシアに、広州湾はフランスによって租借させられてしまいました。

 

実は、中華民国政府は、日清戦争の後、明治29年(1896年)5月にロシアと秘密同盟を結んでいました。

(リーフンチャン・ロバノフ条約)

 

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リーフンチャン・ロバノフ条約

 

第1条、この契約当事者は、東アジア、中国、朝鮮におけるロシアの縄張りに向けられた、いかなる攻撃に対してもすべての陸海軍力を動員して、相互に助け合うこと。

 

第2条、他方の承認なしに、敵対する第三国とのいかなる平和条約も結ばざること。

 

第3条、軍事行動に従事している間は、中国のすべての港をロシアの船舶に対して解放すること。

 

第4条、中国政府は、黒竜江省と吉林省を通って、ウラジオストクへ至る鉄道建設に同意する。

 

この鉄道建設と沿線区域の開発権は、ロシア中国銀行に与えられるものとする。この契約は、ペテルスブルク駐在中国公使とロシア中国銀行との間で締結する。

 

第5条、戦時下において、ロシアは舞台の輸送及び補給のために、この鉄道を自由に使用できるものとする。

 

平和時においても、ロシアは同等の権利を有するものとする。

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この中国とロシアの秘密条約により、日露戦争の戦後、日本の利益にとって損失となるような秘密援助を、中国はロシアに与え続けていました。

 

この中国とロシアの秘密条約は、大正10年(1921年)から行われたワシントン軍縮会議まで、公になることはありませんでした。

 

明治34年(1901年)、日本は、ロシアの南進を阻止するために、英国、米国、ドイツに対して協力を求めましたが、いずれの国も日本と協力しようとしませんでした。

 

止むを得ず、日本は単独でロシアと戦争を行い(日露戦争)、満州を手に入れました。

 

中国は第三勢力と共謀して、満州における日本企業を攻撃して無力化しようと試みました。

 

明治39年(1906年)、日本が南満洲鉄道株式会社を設立すると、その翌年、中国は、英国にファークメン鉄道の契約をするように勧めて、日本の企業を無力化させようと企んだのです。

 

明治42年(1909年)7月のタイム誌に次のような社説が掲載されました。

 

「満州問題を扱うときの中国の狙いの一つが、日本と他の列強諸国の間に摩擦を生じさせることであることは、ほとんど疑う余地がない。

 

ファークメン鉄道の契約を英国に与えることにより、中国は明らかに英国と日本の仲がもつれることを望んだ。

 

しかし、中国の期待は外れた。英国と日本の同盟と友好関係は、両国の共通の利害の上にあまりにもしっかりと根付いているので、そのような見え透いた策略によって重大な影響を受けることはないのである。」と。

 

要求の第1号、山東省のドイツ権益を日本が継承すること。

 

第一次世界大戦の際、日本は同盟関係であった英国の要請により、ドイツに宣戦布告して、大正3年(1914年)、ドイツの租借地であった山東半島の膠州湾(コウシュウ)と青島(チンタオ)を占領。

 

日本は、参戦当初より、この膠州湾租借地を中華民国に返還するようにドイツ政府に要求していましたが、ドイツとの講和が締結されるまで、日本軍が青島を占領している必要がありました。

 

なぜなら、日本はドイツと開戦しているのであって、戦時国際法によりドイツ海外領土である膠州湾租借地の軍事占領を継続する必要があったためです。

 

しかし、中華民国は、日本軍の青島からの撤退を要求。日本は、袁世凱大統領と直接交渉することにしました。

 

要求の第2号、南満州および内モンゴル東部における日本の特権の承認。

 

日本は日露戦争に勝利したのち、ポーツマス条約ににより、南満州鉄道と遼東半島の租借権を手に入れましたが、遼東半島の租借期限は、1923年で満了し、満州鉄道は、1933年で満了してしまいます。

 

そこで、この租借期間を99年間に延長しようと要求しました。

 

なぜ99年間かというと、当時のイギリスなど欧米列強は中国大陸の各地に租借地を持っており、その期限を99年間と設定していたからです。

 

99年間の租借権の期限というのは、当時の世界基準だっったのです。

 

また、鉄道周辺には日本人居留民が移住してきましたが、地元の中国人との争いが頻繁に起きてきたので、両国間で取り決めが必要となってきていました。

 

要求の第3号、漢冶萍煤鉄(かんやひょうばいてつ)公司の日中合弁化。

 

揚子江中流にある冶萍公司(かんやひょう こうし)という製鉄所についても、話し合いが必要でした。

 

この製鉄所は、明治31年に設立され、当初は日本から石炭を運び、製鉄していました。

 

明治44年(1911年)に辛亥革命が起きるまで、日本からは多くの資金を使って投資していました。その出資金は、日本興業銀行から300万円、三井物産から100万円、横浜銀行から1、000万円の巨額にのぼりました。

 

その後も貸付総額は3、500万円(うち政府関連は3、300万円)でした。

 

しかし、辛亥革命により、この漢冶萍公司は接収されてしまい、事業活動ができないくらいに破壊され、略奪されてしまい、さらに国有化されようとしていたので、袁世凱と交渉しようとしました。

 

要求の第4号、中国沿岸の港湾・島嶼の他国への不割譲・不貸与。

 

当時の中国は主要都市や港湾などを欧米列強に割譲したり租借したりしていました。

 

それは、欧米列強からの圧力に屈したためですが、日本はそれをしないようにと、釘を刺したのです。

 

なぜかというと、日本からすると中国の海岸線はとても近く、特に日本領だった台湾から、中国の福建省はとても近い距離でした。

 

そこの土地が、欧米列強に割譲されてしまうと、日本にとっては脅威だったためです。

 

これは、日本に対して中国の領土を提供しろという要求ではなく、欧米列強に対して、安易に中国の領土を提供しないでほしいという要求です。

 

この要求が、中華民国への主権侵害であるとして、日本を非難することはマトが外れています。

 

このように、中国の中央政府と地方政府があまりにも執拗に、日本に対して妨害活動をしてきたので、大正4年(1915年)1月18日、日本は中国に対して要求を出さざるを得ない状況だったのです。

 

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対華21か条(14か条の要求書と7か条の要望書)

 

第1号(要求)

山東省のドイツ権益を日本が継承することなど。

 

第2号(要求)

旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することなど、南満州および内モンゴル東部における日本の特権の承認

 

第3号(要求)

漢冶萍煤鉄(かんやひょうばいてつ)公司の日中合弁化

 

第4号(要求)

中国沿岸の港湾・島嶼の他国への不割譲・不貸与

 

第5号(要望)

中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用することなど。

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大正4年(1915年)の外交関係に関する米国の公式白書には、次のように記述されています。

 

「すべての事項を詳細に検討した結果、21か条要求の内の14か条については何の異議もない。」という内容を、ワシントン政府が日本政府に通告してきた、とあります。

 

これは、満州及び山東に関する日本の要求に対して、米国が何の異議も持たなかったことを意味しています。

 

米国が異議を唱えたのは、第5号(7か条)に関する項目だけでした。

 

そもそも、この第5号は、「要求」ではなく「要望」として中国側に提出されたものであり、最終合意がされる前に撤回されました。

 

3月8日、イギリスのグレイ外相は、加藤外相に対し次のように述べました。

 

「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。

 

ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、

 

これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。

 

自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と。

 

また、駐日英大使グリーンは、加藤外相に次のように語りました。

 

「中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁世凱大総統に直接申しいれてもいる」と。

 

4月26日に25回目の交渉で、日本側は最終修正案を提出しました。中華民国に妥協したものでしたが、それに対し、中華民国が5月1日に最終修正案に対する回答をしてきました。

 

その内容というと、日本人は満州で中国警察行政に従わなければならない、また、裁判も中国側の裁判所で審理しなければならないというものでした。

 

もし、中華民国政府が、法治国家としての機能を整っているのなら、この提案は、特に問題ないものとして受け入れられたでしょう。

 

しかし、当時の中国は、鞭打ちの刑があったり、現場の警察官の勝手な裁量により、好き勝手に逮捕や拘束が行われており、監獄においても、賄賂やリンチなどを強要されるといった状況でした。

 

とても法治国家の体をなしていないので、最後通牒を出さなければならないと、5月3日、日置(ひおき)駐中国公使は加藤高明外務大臣に打電しました。

 

これを受け、日本政府は、日夜会議を開き、井上馨や山県有朋などを招いて元老会議を開いて協議しました。

 

5月5日の夜、北京政府の李盛鐸(り・せいたく)が、日本公使館に訪れ、船津辰一郎書記官に次のように話しました。

 

「交渉がこのように難局に陥ったのは、わが中華民国政府がイギリス、米国に頼りすぎ、交渉内容を外部に漏らして、その干渉(同情)を得ようとしたからである。

 

その結果、わが中華民国政府は進退の余地を失ってしまった。修正案も強硬なものにしないと、袁世凱総統のメンツに関わり、反体制派が中華民国政府を攻撃する。

 

日本が最後の決意を示すことになれば、中華民国は譲歩するしかない。」と。

 

つまり、中華民国政府から、「日本側から強硬な最後通牒を出してほしい」と要請してきたのです。

 

それに対して、中華民国が渋々仕方なく、受諾した形を取れば、袁世凱のメンツも保たれるし、反体制派が中華民国政府を攻撃してくることもなくなると計算して、そのような要請をしてきたのです。

 

加藤高明外相の伝記にも、「交渉中、日本政府が最後通告を出すことを、中国側代表が非公式に求めてきた」、とあります。

 

最後通告とは、国際交渉において最終的な要求を文書で提示することで交渉の終わりを示唆します。

 

それを相手国が受け入れなければ、外交交渉ではなく、軍事的な実力行使の段階に移ることを意味します。

 

袁世凱は、日本が軍事力を背景に圧力をかけて要求してきたので、その要求に屈服せざるを得なかった、と宣伝(プロパガンダ)しましたが、最後通牒して欲しいと要求してきたのは、袁世凱の方だったのです。

 

日本は、袁世凱の要求通りに形式的に最後通牒しましたが、14か条の要求(21か条ではない)を受け入れなかったら軍事的行動に出るつもりは全くありませんでした。

 

5月6日、ロシアのマレヴィッチ大使は、加藤高明外相に次のように述べました。

 

「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。袁世凱は最後通牒を待っているものと思われる」と。

 

5月7日、日本政府はその要請を受け、最後通牒を世界に向けて公表しました。

 

5月7日、イギリスのグレイ外相は、駐英井上勝之助大使に対し、次のように述べました。

 

「北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。

 

北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」と。

 

また5月7日、英国のグレイ外相は、英国のジョルダン駐華公使に電報して、

 

「日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、中華国民政府に対し、非公式に強い勧告を与えるように」と伝えました。

 

フランスのデルカッセ外相は、石井菊次郎大使に、次のように述べました。

「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」と。

 

5月9日、中華民国は、この最後通牒を受諾する旨を回答しました。

 

このように、日本の対華21か条の要求は、英国、フランス、ロシアからは好意的に受け止められていたのです。

 

この5月9日は、「国辱の日」として、広く中国人民のみならず世界に向けて宣伝されていくことになりました。

 

5月25日、要望として出されていた第5号の7か条は棚上げされて、最終的に第1号から第4号の14か条の要求が、「山東省に関する条約」と「南満州及び東部内蒙古に関する条約」の2つの条約と13の交換公文として、北京にて調印されました。

 

袁世凱は、この締結直後の6月22日、中華民国は”懲弁国賊条例”を公布しました。これは日本人に土地を貸したものは、公開裁判なしに死刑に処すものです。

 

袁世凱は、初めから「2つの条約と、13の交換公文」(21か条の要求)を守ろうとしませんでした。

 

孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁世凱が日本に支払った代償である」、と断言しました。

 

この要求は、日本がドイツに勝利した際の正当な権利、ロシアに勝利した際の正当な権利を、中華民国に対して明確にすることであり、また、日本がそれまで投資してきた製鉄会社について、正当な権利を要求しただけでした。

 

そして、日本の方から、軍事力を背景とした”最後通牒”までして袁世凱を追い詰めて、要求を受け入れさせたものでもありませんでした。

 

しかし、袁世凱は、ドイツや米国など列強諸国と国内に向けた、反日宣伝の材料として、”対華21か条の要求”を最大限に利用して行ったのです。

 

参考図書

「シナ大陸の真相(1931−1938)」カール・カワカミ著

「条約で読む日本の近現代史」藤岡信勝著

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加藤高明外務大臣