ベトナム独立戦争に参加した元日本兵たち | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

ベトナム独立戦争に参加した元日本兵たち

 

 

かつて、日本終戦後もベトナムに残り、ベトナム独立戦争のためにベトナム人とともに戦った、元日本兵たちがいました。

 

昭和20年(1945年)3月、米英軍の上陸に備えて、フランスによるインドシナ統治機構を解体して、ベトナム、カンボジア、ラオスの3国を独立させて、日本の実質的な軍政下に置きました。

(明号作戦)

 

昭和20年8月15日、日本降伏に伴い日本軍は、北緯16度線の北では中華民国軍に、南ではイギリス軍に対して武装解除しました。

 

この時、政治的な空白状態となったので、ベトナム独立革命運動家たちが、フランスの軍事施設や行政施設を占拠しました。(8月革命)

 

その中心として活動したのが、インドシナ共産党(のちのベトナム共産党)を中心とする、ベトナム独立同盟(ベトミン)でした。

 

共産党とベトミンの指導者であるホーチミンは、昭和20年9月2日に、ベトナム民主共和国(DRV)の独立宣言をしました。

 

フランスはベトナム南部に軍隊を派遣して、再植民地化を企てました。

 

英国軍と中華民国軍も、9月上旬にインドシナに到着し、フランス軍とともに、サイゴンを制圧。

 

日本軍の武装解除を行いつつも、ベトナム民主共和国(DRV)との戦闘を各地で行いました。

 

連合軍と主に対戦したのは、ベトナム独立同盟(ベトミン)でしたが、近代的な装備もなく、軍事訓練もまともに受けたことがなく、近代戦の戦略戦術もなく、初歩的な戦闘技術すら持っていませんでした。

 

そこで、近代的な装備を持ち、明号作戦で連合国軍を駆逐した日本軍への期待が高まっていました。

 

終戦当時、インドシナに派遣されていた日本の仏印派遣軍は、約9万人、そのうち、8万人はベトナムにいました。

 

英国と中華民国にそれぞれ武装解除を待つ日本軍でしたが、次第に無許可での離隊や、所属部隊の脱走兵が多くなっていきました。

 

なぜかというと、ベトナム独立同盟(ベトミン)から全国規模で独立戦争への協力と武器供与の要請が、日本軍将兵に対してあったためです。

 

ベトミン以外の独立運動家たち(ベトナム国民党など)からも同様の要請がありました。

 

その要請に対して、連合国に武装解除して、占領下の日本に帰還する道を選ばずに、ベトナム独立のため戦う道を選んだ兵隊が、少なからずいました。

 

その数、約700人から800人と言われています。

 

ほとんどの日本兵は、北緯16度以北ではハイフォンから、以南ではブンタウからそれぞれ、武装解除して収容所生活を送ったのちに、昭和21年4月から8月にかけて日本へ帰還していきました。

 

インドシナは、大東亜戦争中、激しい戦闘が行われなかった地域でした。インドシナを植民地統治していたのはフランスですが、侵攻してきた日本軍にほとんど抵抗をせずに降伏したためです。

 

英国など連合国とのベトナム独立戦争が勃発。

 

武装解除した日本兵たちにも、英国軍からベトミン討伐戦闘に参加することを強要されました。

 

しかし、連合国軍として戦闘に参加した日本兵たちは、まともにベトミンと戦うことをしませんでした。

 

密かにベトミンに連合軍による攻撃目標地点を通報したり、行軍中見つけたベトミンに対して、身を隠すように伝えたり、戦車の機銃をわざとそらして、ベトナム人に被害が及ばないようにしました。

 

日本兵たちは、ベトナム独立運動に参加した人も、連合国軍に投降して、ベトミン討伐に参加した人も、ベトナム人たちに同情的で、ベトナムの独立を阻止しようとする英仏連合軍に、敵対的な感情を持っていました。

 

ベトミン参加したある日本兵は、ベトミンの民兵を訓練しながらメコンデルタを転戦するうちに瀕死の重傷を負ったため、農村で療養。その後、看護してくれた現地人女性と結婚して、日本に帰らずそのままベトナムに住み着きました。

 

のちに彼は、なぜベトナム独立戦争に参加したのか、という質問に答えました。

 

「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと日本に帰国できるかと思った」と。

(松嶋春義日本陸軍一等兵)

 

日本兵は、大東亜共同宣言の実現を大義名分として、アジア各地で戦いました。

 

大東亜宣言とは、一言で言うと白人による植民地支配からのアジア解放です。

 

日本が降伏した後も、その理想を実現するべく、アジア各地に残って独立戦争に参加した日本兵は、たくさんいました。

 

フエに司令部を置いていた陸軍第34独立混成旅団の参謀、井川省少佐。

 

昭和20年4月に満州からベトナムのフエに着任した井川少佐は、ベトナム組織と密かに相互不可侵の協定を結びました。

 

昭和20年6月、グエン・バン・コック(のちのDRV公安責任者)が、第34旅団司令部に乞食を装い現れました。はじめ、追い返そうとしましたが、井川少佐が引き止め、そのコックを自宅に招き密談しました。

 

その後も何度も、ベトミンの秘密のアジトでコックと密談を重ね、敗戦後にお日本軍とベトミンとの関係について話し合いました。

 

フエには、日本軍がフランス軍から押収した大量の武器弾薬が保管されていました。

 

8月革命の時、日本兵はその保管庫を無人にすることで、ベトミンがその武器弾薬を使うことを黙認しました。

 

その後DRV中央から派遣されたグエン・ソン将軍と親交を結びました。

 

昭和21年2月ごろにフエ南部の集落へ約2週間滞在して、フランス語通訳の大西貞男の協力により、日本軍の教本である「歩兵操典」を翻訳しました。

 

また、フランス軍に対する戦略や戦術、兵員訓練に関する指針を作り、グエン・ソン将軍に手渡しました。

 

情報将校であった中原光信少尉は、昭和21年1月に脱走してベトミンに参加しましたが、彼の意図を察した下士官10名が、我々もベトミンに参加させてほしいと懇願。

 

しかし、中原少尉は彼らの将来を考えて、拒絶しました。

 

ビンディン市では、すでに数十名に日本兵が集まりゲリラ訓練などを行なっていました。

 

井川少佐はベトミン軍幹部に対して、軍事教育を施す一方、ベトミン軍の取るべき戦術についてダエン・ソンと日常的に意見を交わしていました。

 

フランス軍とベトミン軍との戦力差を考慮して、遊撃、奇襲戦術を重視するようにグエン・ソン将軍に進言していました。

 

4月上旬ごろ、井川中佐は、フランス軍との防戦指導のために、ジープで数10名のベトミン兵とともに中部高原のブレイクへ出発しま下が、途中の国道で、フランス軍の待ち伏せに攻撃にあって戦死。

 

フランス軍が井川少佐の遺体から押収したメモには、ベトミンのとるべき戦術が記されていました。

 

そこには、フランス軍の弱点部分をドリル的に攻撃して、相手を混乱状態に陥れる「特攻班」の育成計画が記されていました。

 

この「特攻班」によるドリル攻撃は、フランス軍との戦争中、DRV正規軍の得意技となった攻撃戦術でした。

 

フランス軍が、南部の諸都市を次々に制圧して北上し始めた昭和21年1月、加茂徳治中尉は、カムラン湾の村へいき、元日本兵の五十嵐氏などとベトナム人約30人を加えた遊撃隊(ゲリラ部隊)を組織して、

 

軽機関銃1挺と38式単発銃など10挺しかなかったにもかかわらず、フランス軍1個小隊を奇襲して、ほぼ全員を倒しました。

 

フランス軍は加茂徳治中尉と五十嵐氏を懸賞金付きで探しました。

 

この時、加茂徳治中尉と五十嵐氏は、フランス兵を10数名殺害してしまったので、もはや原隊復帰は不可能でした。そんなことをしたら、それは処刑を意味していました。

 

フランス軍は、第一次ベトナム独立戦争の期間中、元日本兵がベトミン軍の戦力の要と見ていました。

 

その後、加茂徳治中尉と五十嵐氏は各地で民兵へのゲリラ訓練をしながら北上し、4月下旬にベトミン軍の司令部に行きました。

 

昭和21年6月1日、クアンガイにグエン・ソン将軍を校長として、ドアン・クエ(のちのベトナム国防相)を事務長とする陸軍中学が設立されました。

 

これは、ベトナム初の本格的な陸軍士官学校でした。

 

この学校は、学校本部、教室、医務室、教官室、生徒宿舎、食堂などの10棟は、全て竹を組んで粘土を塗った壁に茅葺き屋根と言う粗末なものでした。

 

同校の跡は、現在のベトナム軍の教育訓練施設となっています。

 

生徒数は400名。中学卒業、身体強健、愛国心旺盛、志操堅固という基準で全国各地の部隊の推薦を受け、入学試験に合格した10代後半から20代前半の男子でした。

 

受験者数500名のうち、合格者数は400名でした。

 

生徒は100名ずつ4つの大隊に分けられ、全員が校内で起居しました。

 

各大隊に教官1名、助教官1名、通訳1、2名が配属され、教官は教練を担当し、助教官は指導内容の実演や戦場生活に必要な雑知識の伝授を担当。

 

教官は元日本軍将校、助教官は元日本軍下士官、医務官も日本人、通訳はベトナム人でした。

 

第一大隊の教官は、谷本喜久男元陸軍少尉、助教官は青山浩元陸軍軍曹

第二大隊の教官は、中原光信元陸軍少尉、助教官は大西氏

第3大隊の教官は、猪狩和正中尉、助教官は沼田氏

第4大隊の教官は、加茂徳治中尉、助教官は峯岸貞意兵長

 

助教官の階級と名前が不明なのは、旧日本軍では部隊の離脱は重罪であり、お互いに本名や経歴を告げず、偽名を使っていたからでした。

 

谷本喜久男元陸軍少尉は、陸軍中野学校出身の諜報担当将校でした。

 

正規軍、地方軍、民兵・ゲリラ部隊の3種類からなるベトミン軍の機構はまだ未完成であり、全国的な指揮命令系統の確立には程遠い状況でした。

 

教練は週6日で、朝5時起床し、昼休み(シエスタ)を挟み、午後の教練はしばしば深夜まで及びました。

 

食事は、朝食は粥と塩だけ、昼食と夕食は米飯とザオムシ(水草の一種)、ビードー(かぼちゃ)、芋の煮付けでした。

 

カリキュラムは、日本軍の「歩兵操典」に沿って組み立てられました。

 

教官たちは、軍事用語の翻訳に苦労しましたが、通訳たちの協力で訓練半ばを過ぎた頃には共通の訳語が完成しました。

 

その一部は今でもベトナム人民軍で使われています。

 

彼らは、「率先垂範」「師弟一体」をモットーにしていました。

 

教育態度は、生徒たちと行動(例えば炎天下での分列かけ足行進)に、気の緩みや理解不足が感じられたような場合、食事時間を削っても同じ行動を自分と一緒に、反復させるほどに厳格でした。

 

また、どんな場合でも決して怒らず、相手が納得するまで優しく説明するのが常でした。

 

生徒たちは、このように指導する教官たちを尊敬して、全てを真似ようとしました。

 

のちに、この士官学校を卒業した生徒たちの大半が、ベトナム人民軍将校の中核を占めるようになりました。

 

後の米軍とのベトナム戦争において、士官学校を卒業した連隊、師団長クラスの前線指揮官や作戦参謀たちが、米軍を苦しめることとなったのです。

 

元日本兵による教練が、どれほど優れていたかということを、ベトナム戦争を通じて証明することとなりました。

 

例えば、チャン・ディン・マイは、昭和45年に人民参謀本部地質総局の疎開・防空・民兵局長に就任し、北ベトナム防空の総責任者となりました。

 

レ・スアン・キエンは、ラオス南部で戦い、ベトナム人民軍戦車部隊の総指揮官となり、昭和50年のサイゴン攻略戦で、大統領官邸前への一番乗りを果たしました。

 

このほか、昭和39年に南部のビンザーでサイゴン政権軍を撃破し、米軍参戦前の戦局の流れを一気に変えた連隊長も、この士官学校の卒業生でした。

 

この学校は当初、1年半の授業を予定していましたが、北部がフランス軍の大規模侵攻で主戦場となる気配が濃厚となったために、

 

教育機関を半年に切り上げて、昭和21年11月に第一期の卒業生を送り出しました。

 

昭和21年12月、フランス軍の主力部隊がハイフォンに上陸。これに伴い、ホーチミン主席は、全国抗戦を宣言しました。

 

青木茂飛行連隊曹長は、シンガポールから台湾へ向かう途中にエンジン故障でカンボジアに不時着。

 

そこで、日本敗戦を知り、ベトナム海岸から船で日本へ帰国しようとしていたところで、ベトナムのDRV上級軍人から説得されて、ベトミン参加することとなりました。

 

フランス軍の大拠点であった、ダクラック省バンメトードとその周辺を調査して、詳細な報告書と軍事地図を作成して提供しました。

 

昭和50年(1975年)4月、サイゴン親米政権の崩壊。これは、ベトナム人民軍によるバンメトート攻略からでした。

 

かつて、青木茂飛行連隊曹長が作成した、バンメトードとその周辺の詳細な報告書と軍事地図が、この時も大いに役に立ちました。

 

このほか、バクソン軍政学校においても、元日本軍将校の矢澤鶴次氏、青山幸治氏ら3名が教官として教えていました。

 

そのほか、多くの日本人が軍事顧問としてベトミン軍に参加しており、様々な軍事的助言をしました。

 

例えば、低空飛行で爆撃してくる敵機に対して、複数の小銃や機関銃で斉射する「全力射撃」などは、のちの米軍を苦しめました。

 

また、元日本軍による、民間人殺害や婦女暴行といった犯罪は皆無でした。

 

元日本兵たちは、ベトナム人から見たら、敗戦した外国の脱走兵という身分であり、しかも飢餓に近い状態で貧弱な武器弾薬で、連合軍と対峙したければならなかった状況を考えても、その規律の高さはものすごいです。

 

ベトナム人民軍の上級幹部グエン・テ・グエン大佐は次のように語りました。

 

「飢えた時の米飯の一口は、満腹時の一包みにも勝る。我々のもっとも苦しかった時代の彼ら日本人の貢献は何よりも尊い。我が軍の現役、退役将官、佐官と退役上級幹部は、概ね日本人から何らかの教えを受けている。」と。

 

インドシナ停戦協定の締結が間近に迫り、ベトナムが北緯17度線で分断されることとなったとき、DRVは17度線以北にいた日本人全員の祖国への帰還を決定。

 

1961年までに、150名ほどの日本人が日本に帰国していきました。

 

以下は、1996年ベトナムのハノイの陸軍ホテルで開催された、加茂徳治氏への勲章授与式において、祝辞です。

 

「我々ベトナム人民は、ベトナム民族の友としてフランス植民地であったベトナムの独立戦争に尊い貢献をした日本人たちのことを忘れません。

 

1945年の8月革命以前、ベトミンと連絡を取っていた日本人が数人いました。

 

日本軍が降伏したのち、ベトミン指導部は全国民に政権獲得のための総決起を呼びかけました。

 

8月革命成功の1ヶ月後から、ベトナム民族は自国を統治する権利を奪還するべく、フランス植民地主義者の侵略に対する抗戦を続けるほかありませんでした。

 

我々は幾千万の困難に直面していました。武装勢力は極めて勇敢で江下が、極めて幼稚で、武器も幹部の経験も足りませんでした。

 

そのような状況の中、多くの日本人がベトナム革命に参加しました。その参加は一人ずつ、あるいは2、3名ずつという具合で部隊ごとの参加はありませんでしたが、いたるところに日本人がいました。

 

尊かったのは、軍事幹部養成、戦闘技術の普及という我々の事業を助けてくれた日本人たちです。

 

日本人は人海戦術を取らず、かといって完全に武器に依存するわけでもありませんでした。日本人の計略の用い方、戦場において精神をいかに有効に発揮させるかを心得ていて、効率的に勝利する方法を知っていました。

 

昭和20年3月9日、日本軍が一夜にして、インドシナのフランスの全植民地機構を転覆してしまったことを、我々は直接見て覚えています。

 

我々はフランス、日本、中国、ロシアなどの軍事経験を適時選択的に摂取しましたが、日本の経験の多くは、我々と噛み合うものでした。

 

とりわけ印象的だっったのは、ベトナム革命に参加した日本人がベトナムの軍民と同じ困苦に耐え、民衆に溶け込み、ベトナム語に熟達し、ベトナム名を持ち、ベトナム人と結婚して、混血児を産んだことでした。

 

この機会に、ベトナム独立のために戦ってくれた全ての日本の友人に謹んで挨拶の言葉を送り、日越領民族の友好関係の確かな基礎を築いた皆様、そしてその方々を生んだ日本国民のみなさまに

深い感謝の意を表します。」

(グエン・て・グエン大佐)

 

ベトナム独立戦争に参加して倒れた日本兵は、ベトナム各地に作られた愛国戦士を顕彰する、烈士墓地に葬られています。

 

参考図書

「ベトナム独立戦争参加の日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究」東京財団研究報告書 井川一久著