日米開戦は、真珠湾攻撃からではなく、対日経済封鎖から始まっていました。 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

日米開戦は、真珠湾攻撃からではなく、対日経済封鎖から始まっていました。

 

日本と米国との開戦は、昭和16年12月8日の日本軍による真珠湾奇襲攻撃から始まった、とされています。

 

実は、日米開戦は、その前のくず鉄や燃料の対日輸出制限、在米資産凍結や、石油の対日全面禁輸といった”経済封鎖”から始まっていました。

 

”経済封鎖”は、昭和15年1月の日米通商航海条約の失効に伴う、くず鉄や航空機燃料などの対日輸出制限、昭和15年9月の鉄くずの対日全面禁輸、昭和16年7月の日本の在米資産凍結、在英資産凍結、在蘭資産凍結、日英通商航海条約等の廃棄、同年8月の石油の対日全面禁輸といった、米国、英国、オランダ、シナによる対日経済制裁が、すでに行われていました。

(ABCD包囲網)

 

三井物産など民間による、ブラジルなどの油田や鉱山を獲得しようとしましたが、米国の圧力により断念。

 

当時の日本は、石油の8割を米国からの輸入に頼っていたので、米国から全面禁輸されてしまったら、平時で3年弱、戦時で1年半で石油備蓄は底をつく状況でした。

 

果たして、この経済封鎖は、戦争行為と言えるのでしょうか?

 

昭和3年、パリにおいて、「戦争放棄に関する条約」(パリ不戦条約)が日本を含む15カ国において調印されました。

 

このパリ不戦条約を共同提案したのは、米国のフランク・ケロッグ国務長官とフランスのブリアン外相でした。

 

ケロッグ国務長官は、”侵略戦争”か”自衛戦争”かについての判断は、それぞれの国家が「自己解釈権」(Right of Self Interpretation)を備えており、自ら判断するほかはない、と説明しました。

 

また、昭和3年12月7日、米国上院議会にて、パリ不戦条約を批准することを巡り議論がされました。

 

議員から「国家が軍事的に攻撃されるのではなく、”経済封鎖”を受けた場合はどうなるのか?」との質問に対し、ケロッグ国務長官は、次のように答えました。

 

「戦争を戦わないで、”経済封鎖”だけを行うことは普通考えられない。」と。

 

さらに、「”経済封鎖”は、”戦争行為”に当たると思うがどうか?」との質問に対し、ケロッグ国務長官は、

 

「もちろん、(経済封鎖は)戦争行為そのものである」と断言しました。

 

パリ不戦条約においても、”経済封鎖は戦争行為そのものである”と断言されたのです。

 

しかし、占領期の東京裁判において、日本はパリ不戦条約に違反して侵略戦争を行なったとして糾弾されてしまいました。

 

フーバー元米国大統領は、日本敗戦後、マッカーサーと会って、次のように述べました。

 

「私が『日本との戦争の全てが、戦争を仕掛けたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だった』と述べたところ、マッカーサーも同意した。

 

マッカーサーは『1941年7月の日本に対する”金融制裁”が、挑発的だったばかりでなく、その制裁を解除しなければ、

 

たとえ自殺行為であったとしても、日本を戦争をせざるを得ない状態まで追い込んだ、経済制裁は殺戮と破壊が行われないものの、戦争行為に当たるものであって、

 

どのような国であっても、誇りを重んじる国であったとすれば、耐えられることではなかった』と述べた。

 

日本に対する”経済制裁”は、弾こそ撃っていなかったが、本質的には戦争であった」と。

 

マッカーサーは、トルーマン大統領からすべての役職を罷免されたので、日本を去り米国に帰国ました。

 

そして、帰国して間もない、昭和26年(1951年)5月3日、米国上院軍事外交合同委員会において、次のように証言しました。

 

「彼ら(日本)はもし、これらの石油やくず鉄などの原料の供給が断ち切られたならば、1000万人から1200万人の失業者が発生するだろうことを恐れていた。

 

したがって、日本が戦争に飛び込んでいった動機は、その大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と。

 

日本は、列強による経済制裁にもがき苦しみ、止むに止まれず、自衛のために戦わざるを得なかったのです。

 

しかし、日本政府は、話し合いにより戦争回避をしようと、最後まで諦めませんでした。

 

昭和16年4月から11月まで、日米交渉がなんども続けられました。

 

昭和16年11月26日、米国務長官コーデル・ハルは、日本側全権大使の野村吉三郎と来栖三郎に書類を渡しました。

(ハルノート)

 

その書類には、戦争回避のための妥結条件として、中国および仏印に展開しているすべての日本軍の撤兵、日独伊三国同盟の廃棄、日本の傀儡政権である、南京の汪兆銘政権を否認することが書かれていました。

 

この内容は、それまで積み上げられてきた日米交渉において、日本側の譲歩をすべて無効にするような、事実上の最後通牒でした。

 

このハルノートを受け取る前の、昭和16年9月6日に第8回御前会議が開かれました。

 

昭和天皇は、懐から紙片を取り出し、自らお読みになられました。

 

 四方の海

 みなはらからと

 思ふ世に

 など波風の

 たちさわぐらむ

 

これは明治天皇の御製です。

 

四方の海(世界中)は、みんな同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか、という意味です。

 

その後、海軍軍令部総長の永野修身(おさみ)元帥は、発言を求められ次のように発言しました。

 

「政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。

 

すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、

 

戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。

 

統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、

 

もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。」

(『戦後歴史の真実』前野徹著、扶桑社)

 

参考図書

「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」加瀬秀明、ヘンリーストクス共著

 

画像

永野修身海軍軍令部総長