中国国民党からの挑発に巻き込まれてしまった日本
東京裁判において、日本軍は、中国を侵略したと決めつけられてしまいました。反省と謝罪をしなさい、賠償金を支払いなさいと、70年以上経過しても繰り返し言われ続けています。
本当に日本は中国を侵略したのでしょうか?
日本は、中国と軍事衝突をしたくありませんでしたが、中国からの挑発行為に引きずりこまれるように、中国との戦闘に巻き込まれてしまったのです。
昭和12年8月29日、北京郊外の通州地区で、その地域を管轄していた冀東防共自治政府の保安隊(中国人)によって、日本人220名あまりが大虐殺されてしまいました。
(通州事件)
その殺害の方法は、妊娠している女性のお腹を切り裂いて、中から赤ん坊を取り出し、まるでボールを扱うように仲間に投げて遊んだり、
女性をレイプした後、股間に棒を刺して遊んだりといった猟奇的な殺害、処刑を、中国人部隊は、女子供と老人に対して行いました。
当時の日本政府はこの事件に対して、どのように対処したのでしょうか?
8月7日、船津辰一郎元総領事が上海に到着し、9日に国民党政府の外交官であった高 宗武(こう そうぶ)と会談。
この席で、船津辰一郎元総領事は国民党党首の蒋介石が提示した”すべての条件を受け入れる”と言いました。
その代わり、日中間でこれ以上の軍事衝突を行うのをやめましょうと和平交渉を行いました。
昭和12年7月7日の盧溝橋事件から、日本軍と中国国民党軍との間で、小競り合いが繰り返されていました。
なんども停戦協定が結ばれましたが、それを無視して、小競り合いが発生するということを繰り返していましたので、これ以上の軍事衝突を回避しましょうと、船津辰一郎元総領事が提案したのです。
自国民が外国で虐殺されたら、報復攻撃を行うというのが当時の常識でした。
それは軍事的にも、経済的にもです。
しかし、日本がとった行動は、”すべての条件を受け入れる”というものでした。
世界の常識から著しく外れる、常軌を逸した行為でした。
非戦闘員の自国民が220名あまりも虐殺されて、しかもその殺害方法が残忍極まりないものであるにもかかわらず、報復攻撃を一切することなく、また、海外メディアに対しても一切の宣伝を行うことをしませんでした。
もし、この時、日本が海外向けにこの通州事件を発信していたならば、中国国民党に対する非難が海外から一斉に起きていたでしょう。
日本はそれをあえてしなかったのです。
なぜでしょうか?
日本は中国との紛争を、もうこれ以上行いたくなかったからです。
そんな日本側の思いも虚しく、打ち砕かれてしまいました。
船津辰一郎元総領事が、高 宗武(こう そうぶ)と会談した日の夕方6時ごろ、日本海軍陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と運転手の斎藤與蔵一等水兵が、
国際租界の延長に当たる記念通りを走っていたとき、平和維持部隊と呼ばれる多数の中国人兵士に突然、襲撃されてしまいました。
(大山事件)
大山中尉は、30発以上の弾丸を受け蜂の巣状態で即死。運転手も重傷を負いました。
大山中尉は、国際租界の日本海軍の本部に所属していました。
日本と中国の当局による共同の公式調査の結果、大山中尉の死体は切断され原型を留めていませんでした。
無数のライフル銃が打ち込まれていたばかりでなく、銃剣による切り傷で覆い尽くされていました。
大山中尉の体は、車の外に引きずり出され、ライフルの銃床で殴打され、頭蓋骨は真っ二つに割られていました。そして、彼の顔はぐしゃぐしゃに潰されて、判別は不可能な状態でした。
彼の内臓はさらけ出され、胸部には大きな穴が切り開かれていました。
大山中尉の所持品は、靴も時計も財布も全て奪い取られていました。
記念通りは国際租界の管轄下にあり、すべての外国人の住居や通路に通じていました。大山中尉が襲撃される理由は何一つありませんでした。
さらに大山中尉も運転手も武器を何一つ所持していませんでした。
この記念通りは、昭和7年(1932年)に起きた上海事変の停戦協定によって、非武装地帯になってました。
この停戦協定は、中国と日本との間で結ばれましたが、英国、フランス、イタリア、米国の各代表が立会人として署名し、事実上承認したものでした。
この協定の執行と運営を監督するために、日本、中国、英国、米国、フランス、イタリアの代表からなる国際委員会が組織されました。
この非武装地帯には、平和維持部隊と称する中国警察を除いて、中国の正規軍は駐留してはならないこととなっていました。
また、平和維持部隊と称する中国警察は、拳銃のみで、ライフル銃は携行してはならないこととなっていました。
しかし、大山中尉の死体から検出された弾丸は、ライフル銃から発砲されたものでした。
中国軍は、この事件の発生する以前から、密かに、ライフル銃や機関銃、カノン砲といった武器弾薬を、非武装地帯に持ち込んでいたのです。
8月10日、上海の日本総領事は国際委員会の会議開催を要求しました。
この会議で、日本代表は、中国の平和維持部隊は国際租界及びフランス特区区域に隣接している区域から一時的に撤退すべきであると提案しました。
委員会の各国メンバーたちは、この提案に賛成し、中国人のユイ上海市長も、それを実現するために最大限できることをすると約束しました。
長谷川清中将も国際租界の日本海軍司令部に対して、事態を紛糾させることがないようにと指示して、日本から派遣された海軍陸戦隊を、一人も上海に上陸させることをしませんでした。
8月11日、ユイ上海市長は日本総領事に対して、「自分は無力だから何もできない」と言ってきました。
8月12日夜明け前、中国軍大本営の正規軍大部隊が、上海まで前進してきて、国際租界の日本人居住区域を包囲し攻撃してきました。
日本は、平和的解決に向けての望みを捨てずにいました。直ちに欧米列強諸国の合同委員会を招集し、中国軍の撤退を再び要求しました。
欧米列強諸国は、日本側の誠意を認めて、中国に再考を即しました。
しかし、中国国民党は全く聞く耳を持たずに、8月13日に日本海軍陸戦隊への攻撃を開始しました。
(第二次上海事変)
日本海軍陸戦隊は、国際都市である上海である事実を考慮して、国際租界が戦闘に巻き込まれないように、制限された防衛的戦術に限定しました。
中国軍の戦闘機が上海上空を低空飛行したけれども、日本海軍陸戦隊は、対空砲火による攻撃を差し控えました。
8月13日、英国、米国、フランスの総領事は、日中両国に対して、敵対行動を回避するために両国間で直接交渉をしてはどうかと提案しました。
この提案書は13日深夜に東京に届きましたが、その前の13日午後には、上海地域に投入されていた中国軍は、攻撃を開始してきたのです。
14日、中国軍の爆撃機は、日本海軍陸戦隊の本部や日本総領事館のみならず、国際租界及びフランス特権区域まで、爆弾を投下しました。
長谷川中将は、敵対行動を回避するためにできる限りの手段をとってきましたが、中国軍の態度が戦争に傾いているので、長谷川中将の宥和政策が、”喧嘩もできない弱腰である”、と誤解されるようになってしまいました。
そこで仕方なく、長谷川中将は、方針を改めて、5個師団を上海に派遣するよう日本政府に督促しました。
この時の日本の状況は北支事変(盧溝橋事件)で手がいっぱいでしたので、1個師団を派遣するに留まりました。
このように、日本は、上海での戦闘に無理やり引きずり込まれてしまったのです。
NYタイムズ上海特派員は次のように報じました。
「地域的な敵対行動の勃発を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や、外国の正式なオブザーバーたちはみな、次の点で同意するであろう。
すなわち、日本軍は敵の挑発の下で、最大限に抑制した態度を示し、数日間の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も外出させなかった。
ただし、それによって日本人の生命と財産を、幾分危険にさらしたのではあるが。
8月13日以前に上海で開催された会議に参加した、1人の外国代表は次のように見ている。
7月初めに北京の近郊で始まった戦闘状態の責任は誰にあるのか、と言うことに関しては意見が分かれるかもしれないが、上海の戦闘状態に関する限り、記録の証明している事実は唯一一つしかない。
日本軍はここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りの全てのことをした。
だが、日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は、外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるかのように思えた。」
(ニューヨークタイムズ 8月30日付)
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙のビクトル・キーン氏は次のような見解を述べました。
「北支での戦闘に外国列強諸国がほとんど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地がない。
上海で最後の抵抗をすることによって、多分なんらかの形での仲裁なり、あるいは少なくとも中国の側に立った警告がなされるであろう。
と言う期待があったのである。その上、上海北部の地形は北支の地形よりも防衛行動を行うのにはるかに適していたのである。さらに中国軍精鋭部隊もまた、この地域に駐留していた。」
(ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙 上海特派員ビクトル・キーン 9月16日付)
中国との戦争を望んでいなかった日本。
220名あまりもの猟奇的な虐殺が中国人によって行われたにもかかわらず、海外向けの宣伝を一切行わず、さらに報復攻撃も一切行いませんでした。
そればかりか、”蒋介石の要求をすべて受け入れる”、という世界の常識から逸脱した、信じられないような譲歩をしました。
しかし、そのような日本の思いを踏みにじるように、中国国民党から挑発されてしまい、日本は戦争に引きずりこまれてしまったのです。
参考図書
「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著
写真
大山中尉射殺事件を報じた朝日新聞(1937年8月9日付)