関東大震災の時、日本人は朝鮮人から虐殺やレイプを受けていました。 | 誇りが育つ日本の歴史

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関東大震災の時、日本人は朝鮮人から虐殺やレイプを受けていました。

 

 

関東大震災が起きたとき、朝鮮人がたくさん虐殺されたと言われています。

しかし、虐殺されたのは実は日本人でした。

 

大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。この震災により10万人が犠牲になりました。

 

自警団が組織され、震災の混乱の中、暴徒と化した朝鮮人たちを迎え撃ちました。

 

なぜ、朝鮮人たちは暴徒となって、日本人を襲撃したのでしょうか?

 

大正8年(1919年)、韓国皇帝の高宗が死去した際、朝鮮半島全域において暴動が起きました。(3・1独立運動)

 

朝鮮総督府はこの暴動を厳しく鎮圧しましたが、その際、朝鮮人指導者たちは、上海に逃亡して大韓民国臨時政府を設立。日本国内にも朝鮮人テロリストたちが潜伏することとなりました。

 

上海の大韓民国臨時政府は、大正12年(1923年)11月23日に予定されていた摂政であった皇太子(のちの昭和天皇)のご成婚に儀(ご大典)において、皇太子暗殺テロを予定していました。

 

ところが、9月1日に関東大震災が発生したために計画を前倒しして、混乱する都内のどさくさに紛れて、テロを決行することになりました。

 

当時の新聞には次のように記事が掲載されました。

 

「不逞鮮人各所に放火、帝都に戒厳令を布く」

 

「鮮人、いたるところ滅多斬りを働く、二百名抜刀して集合。警官隊と衝突す」

 

「二人ずれの鮮人、井戸に猫いらずを投下せんとす。現場を警官が発見して逮捕」

東京日日新聞(現在の毎日新聞)大正12年9月3日付記事

 

横浜では朝鮮人千人あまりがレイプ、略奪、放火を繰り返していたので、監獄に収容されていた朝鮮人を解放して、看守の指揮の元、暴徒化した朝鮮人たちを鎮圧することにしました。

 

内務大臣に就任した後藤新平は、次のように語りました。

 

「事態をこのまま放置すると、日本人自警団と朝鮮人暴徒たちの間で抗争が激化して、日本国内は内戦状態になってしまう恐れがある。」と。

 

そこで、後藤新平は、朝鮮人による犯罪報道を意図的に自粛して、日本国民の朝鮮人に対する恐怖感を和らげて、自警団に武器を放棄させました。

 

9月5日に、次の内務省の告示が新聞各社に記載されました。

 

「善良な朝鮮人を愛せよ。

 

善良な朝鮮人を敵視してはなりませぬ。

 

警察力も兵力も十分ですからこれに信頼して安心してください。

各自に武器等を持って防衛する必要はありませぬ。

 

勝手に武器を携帯することは、戒厳司令官の命令により固く禁じられていますから、やめてください。」と。

 

後藤新平は、警視庁の警務部長であった正力松太郎に次にように語りました。

 

「正力君、朝鮮人による暴動があったことは事実であり、自分は知らないわけではない。

 

だがな、このまま自警団に任せて力でねじふせていては、彼らとてこのままでは引き下がらないであろう。必ずその報復がくる。

 

報復の矢先は万が一にも御上(皇族)に向けられることがあったならば、私が腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは自警団には気の毒だが、引いてもらう。」と。

 

11月27日に予定されていた皇太子のご成婚の儀を狙った、朝鮮人テロ組織による暗殺テロ計画があったことは、後藤新平にも報告が入っていました。

 

関東大震災の後、爆発物取締罰則違反で逮捕された、朴裂(パク・ヨル)(のちの在日韓国民団(民団)の初代団長)と、愛人の金子文子(フミコ)が、皇太子(裕仁親王)を暗殺する計画があったとして、大逆罪で告発されました。

 

朴裂(パク・ヨル)(のちの在日韓国民団(民団)の初代団長)は、朝鮮で起きた3・1運動のときに、日本に密航したテロリストでした。

 

金子文子(フミコ)は次のように供述しました。

「私と、朴とは皇太子の結婚式が一番いいから、爆弾を手に入れ

それを投げつけようと計画したのでありました。

 

朴は皇太子の結婚により皇太子を初め、これに次いで、大臣らの

顕官が行列していくような際に、皇太子や顕官をめがけて爆弾を

投げつけてやるように計画している事を、私に言いました。」

 

大正12年12月、難波大輔が、虎ノ門にて皇太子(裕仁親王)を散弾銃により狙撃して暗殺しようと試みました。

(虎ノ門事件)

 

朝鮮で起きた3・1運動後、吉林省にて結成された義烈団による、皇太子(裕仁親王)暗殺計画がありました。

 

義烈団は「日本帝国主義の心臓部に弾丸を撃ち込む」必殺主義

を掲げていました。

 

大正12年4月に台湾視察旅行に出かけた皇太子(裕仁親王)に対して、義烈団による暗殺計画があるとの情報を入手した日本警察は警戒を強化。

 

この警備強化のために、暗殺は未遂に終わりましたが、義烈団は日本側の過剰防衛を「臆病」と軽蔑してバカにしました。

 

11月27日の婚礼の儀にて皇太子(裕仁親王)暗殺をするため準備していた、義烈団や過激な社会主義者たちは、資金調達のために、日本内地と朝鮮半島にて銀行強盗を繰り返していました。

 

9月6日から9日あたりまでに朝鮮半島にも、関東大震災に伴い朝鮮人たちが、日本人に対して略奪、レイプ、放火などを行なっているという情報が届いていました。

 

この情報に対して、朝鮮人は次のように語りました。

 

「火災は、我らと志を同じうせる主義者同人が革命の為、放火したるに因るものなり。

 

我らはその壮挙を喜び、時期を見て吾人も活動すべく期待し居りたる。

 

戒厳令敷かれ、遂にはその目的を達する能はざりしは遺憾なりと、同志間にて語り合う」

(朝鮮総督府刑務局文書より)

 

朝鮮人テロリストたちは、日本で共産革命を起こして、国家転覆を図ることを目的としていたのです。

 

日本の自警団たちは、このような朝鮮人テロリストから日本人への虐殺と暴行、レイプ、それから家、街などの破壊から守ったのです。

 

しかし、日本人と朝鮮人との民族間抗争による、内戦状態になることを恐れた後藤新平は、その自警団に武器を置くことを要請しました。

 

また、後藤新平は、新聞各社にも朝鮮人による、組織的な凶悪テロ事件を報道することを、自粛するように要請したのです。

 

参考図書

「関東大震災〜朝鮮人虐殺の真実」工藤久美子著

 

画像

「東京府、神奈川県全域に戒厳令区域を拡大」

大正12年9月4日号外 大阪毎日新聞

 

後藤新平内務大臣