北朝鮮は日本陸軍が作った? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
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北朝鮮は日本陸軍が作った?

 

北朝鮮は日本軍が作った?

 

北朝鮮の初代統治者である金日成は、朝鮮人民革命軍の司令官として日本帝国軍と戦い、祖国解放を勝ち取ったと言い伝えられています。

 

実は、金日成は、日本軍との戦闘を経験したことは一度もありませんでした。

 

金日成は、19歳から抗日ゲリラ活動をしていましたが、ソ連のハバロフスクに逃れ、ソビエト極東軍の88旅団に加わりました。

 

88旅団は、朝鮮人と中国人による部隊でした。

 

金日成は、その88旅団の一部隊長にすぎず、朝鮮人民革命軍という軍隊組織は存在しませんでした。

 

88旅団で金日成の上官であった、ワシーリー・イワーノフ ソ連極東軍大尉は次のように語りました。

 

「朝鮮人民革命軍など存在しませんでした。存在しなかった軍隊に金日成は命令することができたのでしょうか?」と。

 

昭和20年8月9日、日本が統治していた朝鮮半島に日ソ中立条約を破棄して侵略してきたのは、ソ連極東軍でした。

 

「金日成は、この侵略にも参加していませんでした。彼は、戦闘に参加させてほしいと懇願してきましたが、我々はこの懇願を却下しました。なぜなら、彼は戦闘の役に立たないと考えたからです。」

(ワシーリー・イワーノフ ソ連極東軍大尉)

 

スターリンは、グレゴリー・メクレル ソ連軍宣伝部長に対して、占領した朝鮮半島北部の指導者を選ぶよう指示しました。

 

グレゴリー・メクレルは多くの朝鮮人と面接をしました。

その中で、朝鮮のガンジーと呼ばれたチョ・マンシクという政治家がいました。

 

彼は、朝鮮人からの信望が熱かったのですが、反共産主義的でしたので、指導者としては不適格と、グレゴリー・メクレルは判断しました。

 

次の候補者として、金日成と面接しました。

 

グレゴリー・メクレルは次のように語りました。

 

「私は、金日成の資質を調べるために、朝鮮の情勢に関して様々な質問をしました。

 

金日成は、長年朝鮮から離れていたので、朝鮮のことなど何も知らないと思っていました。しかし、金日成は私の質問に的確に答えました。私はとても満足しました。」

 

グレゴリー・メクレルは、昭和20年10月14日に行われたソ連軍歓迎集会において、金日成を抗日パルチザン闘争の英雄と紹介しました。

 

そして、モスクワに次のように打電しました。

 

「金日成は抗日闘争の英雄として朝鮮人の間で有名である。彼は、朝鮮半島北部の指導者として、最もふさわしい人物である。」と。

 

昭和23年(1948年)9月9日、北朝鮮が建国。金日成は、最高指導者として、内閣の首相と共産党委員長を兼任しました。

 

このように、ソ連の指導により人工的に作られた国であるため、金日成を始め指導者たちは、国家運営について素人集団でした。

 

そこで、日本陸軍中野学校で訓練を受けた畑中理(はたなかおさむ)氏が、金日成の顧問として人工国家の建国の指導にあたりました。

 

畑中理(はたなかおさむ)(朝鮮名・金策(キム・チェク))氏は、金日成の10歳年上です。

 

畑中理氏は、陸軍中野学校にて明石元二郎大佐の報告書『革命のしをり』を基本教材とし、指導を受けていました。

 

明石大佐は、日露戦争の際、ロシアに潜伏してロシア革命支援工作を画策しました。その諜報活動は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と賞賛されるほどでした。

 

陸軍中野学校の工作員たちは、アジア各地に潜伏して現地人に溶け込んでいきました。

 

その中で有名な方は小野田寛郎氏ですが、フィリピンのルバング島から帰国した後、次のように語りました。

 

「私には残置諜者および遊撃指揮の任務をが与えられたのです。日本が負けて占領されても、玉砕はならぬ。必ず迎えにいく。それまで生き残り、連合国軍と戦えと言われたのです」と。

 

このような方々がアジア諸国に潜伏して、白人による植民地支配から独立するために、士官学校を作り軍隊を養成して、独立戦争を戦っていきました。

 

畑中理氏は、北朝鮮の建国に際して、次のように決意しました。

 

「日本は原爆でやられた。次の戦争は必ず原爆戦から始まる。北朝鮮に真実の日本を造る。

 

アメリカの占領下に入った日本はダメになる。精神を失った国家になるであろう。だからこの北朝鮮に精神をもった軍隊をつくる」と。

 

原爆の製造は建国当初から始まっていました。

 

北朝鮮にはウランが豊富にあり、鴨緑江に当時、世界最大級と言われた水豊ダムがあります。

 

水豊ダムは、日韓併合時に、朝鮮窒素肥料(現在のチッソ)が主に費用負担し、間組、西松建設が施工し、東芝が発電機を製造。発電能力は60万kWでした。

 

原爆を製造するには問題ない条件でした。

 

また、日本から原発技術者が朝鮮半島に渡りました。

 

実は、戦時中の昭和16年5月に日本陸軍航空技術研究所は、理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」研究依頼をしていました。

 

仁科芳雄主任研究員のもと、本格的な研究が始まりました。

(二号研究)

 

仁科博士は、すでに昭和15年7月に『高速中性子によって生成された核分裂生成物(Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons)』という論文を、

 

英国の学術雑誌ネイチャーに発表していました。

 

日本海軍は京都大学理学部の荒勝文策教授に研究を依頼。

(F研究)

 

それは遠心分離機を使い高速回転でつくる方法でした。

 

しかし、軍が原爆の研究をしていると聞いた天皇陛下が、次のように語り、研究停止を指示しました。

 

「そんなものを使ったら人類は滅亡するから止めなさい。日本人がそんなものを最初に使ったと言われてはならない」と。

 

日本で研究できなくなった研究者たちは、大陸に渡って瀋陽や北朝鮮にて研究を続けていくことになりました。

 

「米国に原爆を叩き込む」というのは、北朝鮮の建国当初からの目的のようになっていました。だから3代続いて核開発を諦めることをしませんでした。

 

「米国へミサイルを撃ち込んでやる」と宣言している金正恩。これは、もしかして畑中理氏の怨念なのでしょうか?

 

畑中理氏は、金策製鉄所(日本製鐵清津製鉄所から改名)、金策軍官学校(現・金日成政治大学)、金策工業総合大学(平壌工業大学から改名)、金策航空大学(空軍の教育機関)など、

 

朝鮮名の”金策”の名前をつけた大学や士官学校、工場や市があり、「北朝鮮の英雄」として祀られています。

 

参考

NHKスペシャル「ドキュメント北朝鮮」

「北朝鮮と畑中理(おさむ)」中杉弘氏ブログより