盧溝橋事件は、日本が起こしたのではなかったのです。 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

盧溝橋事件は、日本が起こしたのではなかったのです。

 

日本は中国に侵略した、と言われています。日本は中国に侵略したのだから、反省と謝罪と賠償をしなさいと、何度も繰り返し要求されています。

 

でも実は、日本は中国と戦争することを望んでいませんでした。

 

昭和12年(1937年)7月7日夕方、約170名の日本兵は盧溝橋近くの練兵場で、いつものように軍事演習をしていました。

 

いつもと同様に、中国当局は、日本側から事前に演習をすることについて、連絡を受けていました。日本軍は実弾を携行しないで、いつも通り空砲で演習していました。

 

ところが、同日の夜11時40分、29路軍第37師団の中国軍によって銃撃を受けてしまいました。

 

なぜ、日本軍が中国の盧溝橋付近に駐屯していたのでしょうか?

 

それは、1900年6月に外国の公使館を襲撃した義和団事件により、締結された北京議定書に基づいて、米国、英国、フランス、イタリア、そして日本の軍隊などが、北京、天津周辺に軍隊を駐留していました。

 

義和団は、中国(当時は清国)の暗黙の承認の下に、外国人を殲滅することを目的にして暴動を起こしましたが、

 

37年経過してもなお、中国警察や中国軍に治安を任せることができずに、欧米各国はそれぞれの居留民保護することを目的にして駐屯していたのです。

 

この地域には日本人住民が1万7千人いて、それを4080人の日本兵が守備しなければなりませんでした。兵士一人に対して住民4人の割合です。

 

同じ地域の欧米の住民は1万人あまりに対し、4449人の軍隊に守られていました。兵士一人に対して、住民2人の割合です。

 

7月7日の夜、日本軍が中国人に銃撃されたとき、実弾を携行していなかったので、反撃をすることができませんでした。

 

日本軍は軍事演習を中止して、2マイルほど後方に退却して、本部に通報しました。

 

深夜12時過ぎに援軍が到着。中国軍の銃撃に対する、日本軍の応戦が始まりました。

 

この間、日中それぞれの地方当局は、この事件の報告を受け、共同で調査団を派遣したため、7月8日午前6時に戦闘は止みました。

 

しかし、8日の午後3時に中国軍は再び日本軍に向けて銃撃を開始。

 

7月9日、中国29路軍の代表責任者と、日本軍の松井大佐との間で停戦協定が締結されました。

 

7月10日午後5時過ぎから午後8時にかけて、中国軍200名は、停戦協定を無視して、再び日本軍に向けて迫撃砲などで攻撃を開始。

 

日本軍はこれに応戦しましたが、不拡大方針をとっている日本は、再び休戦協定を締結しました。

 

7月11日午後4時、日本側代表松井大佐と中国側の張自忠天津市長、殷雲河北省公安長官との間で協定が結ばれました。

 

その協定文は以下の通りです。

 

1、中国第29軍の代表による謝罪と直接責任者の処罰。

2、中国軍は、彼らが日本軍に銃撃してきた盧溝橋から撤退すること。そして、その代わりに、中国軍と日本軍が接触しないように十分に隔離する意図で持って平和維持部隊を配置すること。

3、反日的な青シャツ隊と共産党の活動を抑制するための適切な処置をとること。

 

第3項の「青シャツ隊と共産党の抑制のための」とは、もっとも危険で厄介な集団であり、言語道断の暴力的な反日運動を繰り広げてきました。

 

7月13日、第29路軍の司令部である、河北・チチハル政治会議の議長である宋哲元将軍は天津へ行き、日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めました。

 

このように事態収拾に向けて、日中双方で歩み寄っていたのですが、問題は、南京政府の蒋介石でした。

 

蒋介石は、7月7日の深夜に、盧溝橋で銃撃戦が起きたと報告を受けると、7月9日には4個師団と戦闘機を北京に派遣しました。

 

そして、7月19日までに、なんと30個師団(20万人)もの中国軍を北京に集結させたのです。

 

蒋介石は、この事件に関する地域レベルでの決着を一切認めない、と日本政府に対して通報しました。

 

これは、河北・チチハル政治会議の議長である宋哲元将軍と、日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将との間で締結された協定を、南京政府が拒否することを意味していました。

 

河北・チチハル政治会議は、昭和10年(1935年)に南京政府の明確な承認の下に組織されました。

 

日本政府は、あくまで、この事件は地域レベルでの平和的解決にこだわりました。

 

7月22日、蒋介石総統自身の率いる師団が河北省に進駐。これは、1935年の協定違反でした。

 

このような大規模な軍事行動は、蒋介石が武力の行使によって問題解決しようと決意したことを意味していました。

 

29路軍に属している第37師団は、極めて反日的で挑発行為を繰り返してました。

 

総司令官である宋哲元が、地域レベルでの平和的解決に向けて日本側と同意していたにも関わらずです。

 

7月20日、第37師団は、盧溝橋付近で、再び日本軍に対する攻撃を開始。

 

宋哲元は21日正午までに第37師団の撤退を行うと、日本軍司令部の葛城陸軍中将に再び保障しました。

 

しかし、蒋介石は、7月21日午前11時、南京で行われた戦争会議において、日本と戦争の手段に訴えることを公式に採択しました。

 

宋哲元は、第37師団の挑発的行動を抑えきれず、また、蒋介石が日本との戦争を決断するに至ってしまいました。

 

7月23日、南京政府の副幕僚長の孫浜将軍は飛行機で北京と保定に就き、日本軍と戦うように勧告しました。

 

このような状況にもかかわらず、葛城陸軍中将は、この事件が平和的解決されるであろうと、7月25日に表明。

 

中国軍は、日本軍の北京・天津間の電話線を切断。7月25日午後4時、歩兵一個師団中隊に護衛された工兵隊が、切断された電話線の修理に向かいました。

 

これは、事前に、中国軍の第38師団の了解を得た上での行動でした。

 

午後11時までに復旧作業は完了し、日本軍の技師と兵士は夕食をしていたところ、中国軍から手榴弾、機関銃、迫撃砲による攻撃を受けてしまいました。

 

日本軍は夜襲に対して、圧倒的多数の敵の軍隊に包囲された状況で、陣地を死守しましたが、玉砕の危機に瀕していました。

 

復旧したばかりの電話線を使い、本部に救援要請をしました。翌日の26日午前7時、日本軍戦闘機が救援に到着して、中国軍陣地を爆撃。

 

中国軍は、日本軍が切断された電話線を修理することを許可しておきながら、日本軍を虐殺しようとしたのです。

 

ここまできて、ようやく葛城陸軍中将も、中国軍の司令官たちは信用できないという結論を、渋々認めざるを得ませんでした。

 

日本軍司令部は、宋哲元に最後通告となる覚書を送りました。

 

その内容は、第37師団の北京の全地域から完全に撤退し、保定まで撤退することを要求しました。

 

そして、この要求に応じなければ、日本軍は、29路軍は誠意にかけているという結論を出さざるをえず、日本軍が適切と考えるなんらかの行動を取らざるを得ないであろう。というものでした。

 

中国軍は、この要求に応じるわけもないので、7月27日、日本政府は、平和的解決の希望を諦め、中国への援軍の派遣を決定しました。

 

7月7日の盧溝橋での銃撃がおきてから実に、20日も経過してから、やっと日本政府は、中国大陸の紛争地へ援軍を派遣することを決めたのです。

 

日本政府は、なんとか地域的な紛争に限定して、平和的解決に導こうと必死の努力をしていたのです。

 

一方、蒋介石はどうでしたでしょうか?

 

7月9日には、北京へ向けて4個師団の派遣を指令しています。平和的解決をしようという意図は、全くありませんでした。

 

7月27日の午後11時、南京政府は、北支行政当局と日本軍守備隊司令官との間で締結された協定に基づいて、交渉をしようと、呼びかけてきました。

 

すでに、南京政府は、日本軍に対して何度も4回にわたる休戦協定を無視して攻撃してきており、軍隊も北京に25万人も派遣しているので、

 

これは、外国の目を意識した、見え見えのパフォーマンスでしかありませんでした。

 

7月29日、北京郊外の通州地区において、中国軍による、日本人居留民約250人を虐殺する事件がおきました。(通州事件)

 

同時期に天津の日本人租界区域に中国軍が攻撃を仕掛けてきました。

 

その天津租界区には1万人の日本人居留民が住んでいました。

 

このように、7月7日の盧溝橋での銃撃を受けてから3週間に渡り、日本は4回も停戦協定を結びましたが、全て中国軍によって破られてしまいました。

 

20日間経過するまで、日本政府は軍隊の動員令を出すのを控えていましたが、南京政府は即座に動員令を発動して、25万人の軍隊を北支に派遣しました。

 

平和的解決を望む日本政府の意向とは裏腹に、中国軍は、通州での日本人民間人を約250人虐殺。さらに1万人の日本人居留民が住んでいる天津租界区に、中国軍は攻撃しました。

 

日本は北支での中国との戦争をすることを望んでいませんでしたが、日本の平和的解決の望みはことごとく打ち砕かれてしまったのです。

 

参考図書

「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著 展転社

 

写真

新しく内地から来た男子宣撫班員が、盧溝橋近くの一文字山の戦跡で盧溝橋事件の説明を聞いている。

 

宣撫班とは、武器を持たずに、戦闘終了後における治安の回復と、住民への食料の配給や、焼却された家屋の建築、抗日思想や共産思想の一掃などを目的とした部隊です。

 

支那事変画報第25集(毎日新聞社、昭和13年4月21日発行)