南京事変 国際委員会の61通の文書とは?
昭和12年12月13日、南京陥落と同時に、南京安全区国際委員会は、独自の情報網から入手した日本軍の非行告発を、記録して公文書として発刊していきました。
毎日、時には日に2回も発行していき、それを日本大使館その他に手渡しました。
日本側の窓口を担当した、当時、外交官補の福田篤泰氏(のちの吉田首相の秘書官)は、当時を回想して次のように語りました。
「当時の僕は、役目がら毎日のように、国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
「今どこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」、あるいは、「どこどこでに日本軍が集団で押し入りものをかっぱらっている」等々。
その訴えをマギー神父とかフィッチなど3、4人が、僕の目の前で、どんどんタイプしていくのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。」と何度も注意した。
時には、私は、彼らを連れて強姦や略奪の現場に駆けつけてみると、何もない。住んでいるものもない。そんな形跡もない。そういうことが何度もあった。
ある朝、アメリカの副領事から私に抗議があった。「下関(シャーかん)にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。なんとかしてくれ」と。
それはいかん、君も立ち会え! というので、司令部に電話して、本郷忠夫参謀にも同行をお願いして、副領事と三人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。
朝の9時ごろである。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。
「困るね、こいうことでは!」
と僕も厳しく注意したが、とにかく、こんな訴えが連日山のように来た。」
このように記録された文書は、南京城が陥落した昭和12年12月13日から、昭和13年2月9日までの2ヶ月間に起きたありとあらゆる事件を記録していきました。
(国際委員会の61通の文書)
南京安全区国際委員会とはどういった組織だったのでしょうか?
委員会を構成する15名は、日本の中国大陸への進駐に、敵意を憎悪を持っている人たちでした。
中国国民党に軍事支援をしている国(イギリス、米国、ドイツなど)の国民でした。
その15名の配下に、紅卍字会やYMCA及び、中国国民党の宣伝部第二庁の康沢(こうたく)の別働隊の青年たちが、南京城内の安全区や城内全般に情報網をめぐらしていました。
この文書は全く事実検証を一切せず、噂話や伝聞、憶測だけで書かれた文章となります。
しかし、この文書が東京裁判で、決定的な証拠として採用されてしまいました。
61通の文書の中に、”425件”もの日本軍の非行行為が記録されています。
これを分類すると、強姦が361件、殺人が49件、傷害44件、連行390件、掠奪その他170件となっています。
事実検証を全くしていない、61通の文書の中でさえ、殺人は49件しかありません。
30万人大虐殺とはどこから出て来たのでしょうか?
昭和22年(1947年)3月10日、谷寿夫中将は、東京裁判の南京軍事法廷における判決で、裁判長石美瑜により、次のように宣告されました。
「南京市各地区の調査によれば、虐殺・強姦・略奪などの事件は、おおかた被告部隊の南京駐留期間内 ( すなわち十二月十二日から同月二十一日まで ) に発生しているのであり、
被告自身が認めている、その担当地域である中華門一帯で、放火・殺人・強姦・略奪にあった住民について調査可能な事件は、すでに”459件”に達している」
判決主文「谷壽夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す」
425件と459件で、数字が異なりますが、いずれにしても、調査とは名ばかりの、事実検証を全くしていない、伝聞、噂、憶測に基づいた文書に基づいて、谷壽夫中将は処刑されてしまいました。
参考図書
「南京事件の総括」田中正明著