中国と”平和”で”友好”な関係を持つのは無理でしょう | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

中国と”平和”で”友好”な関係を持つのは無理でしょう

 

中国と対等に”平和”で”友好”な関係を持つのは、できるのでしょうか?

 

昭和12年7月7日の盧溝橋事件、7月29日通州事件、8月9日の大山事件、8月13日の第二次上海事件と立て続けに中国軍は、日本への攻撃を仕掛けてきました。

 

そのような状況の中、8月30日、中国国民党は、国連に対して次のような提訴をしました。

 

「日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反するので、国連が必要な措置を取るように」と。

 

国連の場で、支那の代表は、次のように演説しました。

 

「支那が日本に抵抗しているのは、”外国の在支那諸権益を擁護”するためである」と。

 

それまで、日本の権益の全面的撤廃を訴えてきた支那でしたが、この時は、”外国権益の擁護”と言い出したのです。

 

”抗日活動は、列国の権益保護のため”という論理で、欧米勢力の干渉(同情)を誘い、日本を攻撃するやり方は、中国の得意とする外交手法です。

(遠交近攻)

 

この支那の提訴により、国連は支那への国際援助を決議。

 

そして、ベルギーのブリュッセルで九ヶ国条約会議が開催されることにな理ましたが、日本は参加を見送りました。

 

1937年11月24日、9カ国条約会議は、次のような宣言をしました。

 

「紛争当事国のみの間で直接交渉しているだけでは、満足のいく解決は得られない。

 

主要な関心をもつ他の列強諸国に相談することによってのみ、公正で誰でも受け入れられる納得のいく協定を結ぶことができるのである。」と。

 

盧溝橋からの一連の戦闘は、中国兵が日本守備隊に仕掛けてきた襲撃によって始まりました。

 

日本は撃たれたから撃ち返しただけでした。

 

日本は、(中国に)右ほほを殴られた後、左ほほを(中国に)さしだすことができませんでした。

(新約聖書『マタイによる福音書』第5章より皮肉を込めた表現)

 

また、他の欧米列強に相談する余裕もありませんでした。

 

なぜなら、中国軍により、7月29日に通州で約250人の日本人居留民が一度に虐殺され、同時に1万人が住んでいる天津租界区へ襲撃され、

 

8月13日から、3万人の日本人居留民が住む上海を包囲され襲撃されてしまうと言う差し迫った危機にさらされてしまったからです。

 

日本としては、攻撃してきた中国軍に対して応戦する以外に選択肢がありませんでした。

 

しかし、日本は後の東京裁判で、9か国条約違反をしたとして、糾弾されてしまいました。

 

英国は、中国との付き合い方で大変苦労してきました。

 

1842年8月、アヘン戦争を戦った英国と中国(清国)との間で、南京条約が締結されました。

 

この時、英国は、中国人民に対して略奪や破壊活動をしませんでした。

 

そのような英国軍を見た中国人民は、英国軍を勝利者として認めず、自分たちが勝利者であると信じました。

 

そして、1842年12月には大規模な広州の英国商館焼き打ち事件が起き、英国人を対象とした暴動が頻発するようになっていきました。

 

なぜ、中国人はこのような認識を持ったのでしょうか?

 

一般的には、戦闘行為で負けた後、条約を締結したらそれに従うというのが国際社会の常識ですが、中国人にはこのような常識が通用しません。

 

中国の長い歴史では、モンゴル人やタタール人、満州族などから侵略を受けて、その支配下に置かれてきました。

 

そして、征服者は必ず、無慈悲な略奪や破壊、虐殺を行うことを常としていました。

 

したがって、戦闘行為で勝利したとしても、その後、このような略奪や破壊、虐殺をしないような軍隊を、勝利者としては認識しないと言う価値観を持っているのです。

 

1854年、清国に駐在していた米国高等弁務官ハンフリー・マーシャル氏は、次のように言いました。

 

「中国政府は武力及びそれを行使しようと言う意思の存在する場合に限ってのみ正義を認める」と。

 

彼の後任のロバート・マクリーンは次のように言いました。

 

「中国との外交交渉は、カノン砲を突きつけた時にのみ行うことができる」と。

 

1856年10月8日、清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、乗員を逮捕してイギリス国旗を下ろしました。

 

これをきっかけに、英国、フランス連合国と清国との間で戦闘が起きました。(アロー号事件)

 

1859年、清国を倒した英仏連合軍が、戦勝軍として北京に入城しますが、この時、フランス軍は金目のものを全て略奪し、英国軍は、清国の宮殿である円明園を「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊しました。

 

これは、通常の道徳基準からすると、野蛮人の行為として、決して褒められるものではありません。

 

しかし、このようなことをしないと、中国人は英仏連合軍を戦勝者として考えなかったでしょう。

 

なぜなら、中国は長い歴史の中で、略奪をしない占領軍などみたことがないからです。

 

1900年6月に、義和団が、北京市内の外国公館を襲撃する事件がありました。

 

義和団と清国軍に包囲された外交団と1千人の外国人は、籠城を余儀なくされしましたが、多国籍軍(その9割は日本軍)により事件は鎮圧されました。

 

その後、欧米列強諸国の軍隊は、中国人民に対して略奪を行いましたが、その中で唯一、略奪を行わなかった国があります。

 

それが日本軍でした。

 

軍規が世界一厳しい軍隊である日本軍は、中国人民に対する略奪騒ぎに加わりませんでした。

 

これは褒められる事なのですが、日本軍のこのような行為は、中国人から軽蔑される行為と写りました。

 

なぜかと言うと、日本は中国に対して恐れの念を抱いている小国だからだ、と考えたからです。

 

中国人は、略奪した軍隊に対しては屈服し、軍規の厳しい、略奪など一切しなかった日本軍に、軽蔑の感情を抱いたのです。

 

理解しづらい価値観です。

 

1932年、中国に15年間住んだことのある、米国の作家ロドニー・ギルバート氏は次のように語りました。

 

「中国人は、自分がトップに立って誰か他の者を押さえつけているか、または自分より強い者の前で屈辱を受けて恐れおののいているか、のどちらかでなければ満足できない。

 

対等の基盤に立って誰かと公平に公正に付き合うことに、中国人は決して満足できないのだ。」と。

 

対等な立場で中国と”平和”で”友好”な関係を結ぶことはできないと言うことでしょう。

 

中国の価値観では、征服するか、征服されるかの二者択一しかないようです。

 

参考図書

「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著