米国の小学校で教えられている、広島原爆の物語 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

米国の小学校で教えられている、広島原爆の物語

 

 

米国の小学校では、広島原爆投下についてどのように教えられているのでしょうか?

 

米国カルフォルア州サンディエゴ郡教育委員会では、次のような学習指導要領を作って、教師に指導しています。

 

「Sadako」という副教材を使い、1週間から10日間かけて学ぶようにしています。

 

1日目は「Sadako」という史実に基づいた物語について、教師が説明して、時代背景について理解させる。

 

2日目から5日目は、「Sadako」を読みながら、時系列的に筋書きを記録させる。

 

6日目は、広島、長崎で被爆した人たちの体験談をインターネットなどを通じて探し、その体験談についてクラスで話し合う。

 

7日目も原爆投下について、グループに分かれて議論する。

 

8日目は、グループごとに原爆がどのようにして作られたかを調べ、それを表にする。そして、「原爆は必要だったか」というテーマで議論する。

 

9日目は原子力エネルギーのもたらす恩恵について、10日目は世界における平和運動の実態をインターネットを通じて調べる。

そして、平和についての作文を書かせる。

 

以下は、その副読本として使われている「Sadako」の要約です。

 

主人公のSadako(佐々木禎子さん)は、昭和20年8月6日の広島原爆投下で被爆しました。まだ2歳でした。

 

かけっこが早く、小学校6年生の時の運動会ではリレーの選手に選ばれて優勝しました。

 

運動会の後、もっと早く走りたいとコーチについていたサダコですが、ある日、急に体がだるくなって走れなくなってしまいました。

 

両親は慌てて病院に連れて行きましたが、そこで白血病と診断され、原爆症が発症してしまいました。サダコ13歳の時でした。

 

サダコは父親に尋ねました。

 

『おとうさん、私、本当に原爆症なの?』。

 

なんと答えていいのか、困った父親は一言言いました。

 

『先生はいくつかテストしたいと行っているだけだよ。数週間入院するかもしれないな』と。

 

卒業式にも出られない。リレーのメンバーからも外れることを意味していました。

 

父親は言いました。「何か欲しいものある?」

 

サダコは首を横に振った。家族みんなが帰った後、ひとりぼっちになって、枕に顔を当てて泣きました。

 

こんなに惨めで寂しく感じたことはなかった。

 

ある日、親友のちずこがサダコの病室に見舞いに来ました。

 

「目を閉じて」とちずこは言って、サダコが目と閉じると、

「もう目を開けてもいいよ」と言われました。

 

そこには折紙とハサミがあり、ちずこは金紙で鶴をおりました。

 

「鶴は1000年も生きるんだって。だから誰か病気になったら、鶴を1000羽折ると、神様はその人の願いを叶えてくれて、その人は元気になるんだって。

 

これはサダコちゃんへの1番目の鶴さんだよ。」と、ちずこが言いました。

 

サダコは、奇跡を信じて鶴を折り続けました。そして、病気が治ることを祈り続けました。

 

10月半ばになると、サダコは日を数えることも、昼夜の別もわからなくなって来ました。

 

ある日、目がさめるとそばに母親が泣いてました。

 

「お母さん、泣かないで、お願いだから、泣かないで」とサダコが、かすれるような声で言いました。

 

サダコが今できる唯一のことは、鶴を折ることだけでした。1枚の折り紙を取り出して、鶴を折ろうとしましたが、手先が思うように動きません。

 

もう、鶴さえ折ることもできなくなってしまった、とサダコは自分自身に言いました。

 

ある日、目をさますと、家族がそばにいました。サダコは微笑みました。

 

サダコはいつも家族に愛されていました。サダコは、天井からぶら下ている鶴たちを見上げていました。

 

10月25日、1000羽鶴の祈りも虚しく、サダコは息を引き取りました。サダコが折った鶴は、同じクラスの友達が折った鶴と一緒に、霊前に捧げました。

 

「サダコ」("Sadako and the thousand Paper Cranes" Eleanor Core P.C.Putnam's Sons 1977)

参考図書

「アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争」高濱賛著