中国による国際干渉によって日本を屈服させる外交とは? | 誇りが育つ日本の歴史

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中国による国際干渉によって日本を屈服させる外交とは?

 

 

日清戦争からの中国外交の基本的政策は、日本に対する国際的な干渉を生じさせることで、日本の力と影響力を阻止することであります。

 

これは、「遠くの敵を近くの敵にけしかける」という、中国の伝統的政策となります。

 

米国生まれで少年時代を中国で過ごしたシナ学者である、オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)は次のように語りました。

 

「中国にとって、蛮族と戦うよりも彼らに内部的混乱を起こさせた方が得策である。

 

そのために、陰謀、同盟、賄賂などがあり、相互に敵対しあうことで、どの部族も自由に中国を攻撃できなくなってしまうのである。

 

これが蛮族を持って蛮族を制する、という有名な規範であり、中国の歴史を通じてみられる根本的現象である」と。

 

日清戦争の際、中国の李鴻章は、欧米列強に対して国際干渉を引き起こそうと積極的に働きかけました。

 

「もし、中国が領土の割譲を認めるのを拒んだ場合、あなたの政府は清国のために介入してくれるか?」と。

 

この時、米国公使であるチャールズ・デンビイは次のように忠告しました。

 

「清国を救う唯一の方法は、日本と清国が全面的な協力関係を構築する誠実な意図を持って、直ちに講和を結ぶことである。

 

外国の干渉という他のいかなる方法も、清国をさらなる苦難と屈辱の泥沼に追い込んでしまうだけであろう」と。

 

日本との戦争が長引けば長引くほど、清国が受ける損傷は大きくなるばかりであるので、

 

日本と仲良くすることが清国にとって最上の選択であり、それは早ければ早いほど良い、というのがチャールズ・デンビイの持論でした。

 

しかし、清国はそのような考えを受け入れませんでした。ただひたすら、欧米列強の干渉を招くことによって、日本を打倒して、日本に屈辱を与えることを考えました。

 

日清戦争の後、下関条約で遼東半島を日本に割譲されましたが、清国は、ドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉を引き出し、再び、返還させることに成功しました。

 

しかし、これは清国にとって破滅的な結果を招くことになりました。

 

なぜなら、山東半島南海岸の膠州湾はドイツに、満州の権益と遼東半島の大連、旅順はロシアに奪われてしまったからです。

 

さらに、この干渉が、のちの日露戦争を引き起こした要因となりました。

 

国連が設立されると、中国は、このジュネーブで開催される会議において、欧米列強からの干渉を引き出すための手段として、活用しました。

 

日中の間の未解決問題を友好的に解決しようという、日本の融和政策(幣原外相による外交方針)は、ほとんど意味を持ちませんでした。

 

なぜなら、中国は国連の場を使って、欧米列強の干渉を生じさせることで、日本を屈服させることしか興味なかったからです。

 

また、中国は外国の干渉を煽るために、日本に対する様々な挑発行為を繰り広げて行きました。

 

例えば、反日宣伝活動であり、貿易活動のボイコット、学生騒乱、日本人居留民の虐殺、反日教育など。

 

中国は、このような挑発を日本に対して行うことで、日本に軍事行動を起こさせ、その結果、国連の場を利用して英米などから、侵略してきた日本に対する制裁措置を取らせることを画策したのです。

 

一方、米国の国務長官ヘンリー・L・スティムソン(Henry Lewis Stimson)は、かつてチャールズ・デンビイ氏が清国の李鴻章に忠告した、国際干渉を求めず日本と講和するように、というのとは真逆の方針をとりました。

 

すなわち、国際干渉によって日本の影響力を阻止する政策をとるように、国連を導いていくというものです。

 

昭和6年(1931年)9月18日、満州の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破される事件が起きました。

(柳条湖事件)

 

この事件をきっかけに日本陸軍(関東軍)が、満州に侵攻して満州全土を占領しました。

(満州事変)

 

スティムソンは、日本の満州への軍事行動を非難しました。

(スティムソン・ドクトリン)

 

(終戦後の昭和22年、スティムソンは、原爆投下について、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明しました。)

 

 

昭和6年(1931年)10月18日、日本政府は、中国との直接交渉のたたき台として、国連に次の公式文書を提出しました。

 

1、日本と中国は相互不可侵を守ることを各自誓う。

2、日本は中国の領土保全を尊重する

3、中国は反日ボイコット及び反日宣伝活動を取り締まる。

4、中国は満州の日本人の生命と財産を守ることを約束する

5、中国は日本と結んだ条約を尊重する

 

国連は、この日本から提出された公式文書に基づく、中国との直接交渉をすることを拒否し、さらに満州から日本軍が撤退することを要求しました。

 

昭和7年(1932年)3月1日、満州国が建国。

 

昭和7年(1932年)9月、リットン調査団が満州から戻り、国連に報告書を提出しました。(リットン報告書)

 

その中で、「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」としつつも、次のことを強調しました。

 

1、中国の反日ボイコットは、中国政府の側に多少の責任がある。(つまり、中国政府は反日ボイコットを止めさせる義務がある)

 

2、昭和6年(1931年)9月の時点で存在した日中条約は、両国調印国を拘束し、その条約に定義された日本の権利は、尊重されなければならない。

 

3、日本軍が満州から撤退するための準備として、満州の平和を維持するために有能な憲兵隊が組織されねばならない。

 

満州において、張学良が支配していた時期、日本人居留民が暴行や虐殺などを受けていたので、他の効果的な制度が確立しない限り、日本は軍隊を撤退させることはできませんでした。

 

英国の国際法学者トマス・バティ(Thomas Baty)は、次のように述べました。

 

「当時の中国は、南京の国民党政府と奉天の張作霖軍閥といった分裂した2つの政府があり、その2者間での内戦の中、中国の領域は、国際法的には誰のものでもなく、日本としては現地の居留民を保護するために、軍事的介入をする権利はある。」と。

(『国際法の規準』トマス・バティ著)

 

日本政府は、満州を中国から分離した行動は、九カ国条約に違反するものではないと主張。

 

しかし、国連は、日本軍の撤退を要求し、また、日本政府が提出した文書に基づく中国との直接交渉にも、拒否の態度をとったので、日中間の友好的解決ができなくなり、日本は孤立していくことになりました。

 

参考図書

「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著