北海道の北部がソ連に占領されるのを防いだ男 樋口季一郎中将
北海道の北半分を守った男 樋口季一郎陸軍中将
昭和20年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三首脳はクリミア半島のヤルタ島で会談を行いました。(ヤルタ会談)
この秘密会談で、ドイツが降伏した2、3ヶ月後に、ソ連が対日参戦することが決まり、そしてその見返りとして、次の条件を挙げました。
1、外蒙古は現状維持
2、1904年の日本の背信的攻撃により侵害された、ロシアの旧権利は回復される。
(イ)南樺太はソ連に返還される
(ロ)大連におけるソ連の優先的利益は擁護され、港は国際化される。ソ連の海軍基地として旅順の租借権は回復される。
(ハ)東清鉄道と南満州鉄道は、中ソ合弁会社として共同運営される。中華民国(蒋介石)は、満州における完全な主権を保有する。
3、千島列島はソ連に引き渡される。
このヤルタ密約は、ルーズベルト大統領が、友人のスターリンに、南樺太、千島列島、東清鉄道、南満州鉄道、大連、旅順を、中華民国(蒋介石)に満州を、プレゼントする約束をしたものでした。
昭和20年4月、ソ連は、日ソ中立条約の不延長(破棄)を駐ソ大使の佐藤尚武に通告しました。
日ソ中立条約の規定では、不延長後も昭和21年4月まで有効であるとする佐藤駐ソ大使の意見に、ソ連のモロトフ外相も一応、確認しました。
ソ連は昭和20年3月までの対日戦の作戦計画を作成して、シベリア鉄道を使って軍事輸送を開始しており、日本大使館もそれを確認していました。
本格的な輸送は、ドイツが降伏した5月7日以降になりますが、極東ソ連軍は、日本参戦までに40個師団から80個師団までに倍増していました。
その一方で、日本陸軍(関東軍)は、南方へ兵力を大きく輸送していたので、ソ連国境付近の軍事力は弱体化していました。
ソ連は、6月26日、27日のソ連共産党、政府、軍の合同会議で、日本軍に対する攻撃作戦を8月に行うと正式に決定しました。
ヤルタ密約により、友人のルーズベルトからのプレゼントである、満州、南樺太、千島列島を占領することが目的でした。
また、北朝鮮の占領もこの作戦に含まれていましたが、北海道の占領については、まだ決まっていませんでした。
昭和20年7月17日からポツダムにて、米国、英国、ソ連首脳が集まり、会談が開かれました。(ポツダム会談)
7月25日、米軍のハンディー参謀副長官は、スパーツ陸軍戦略空軍司令官に、日本への原爆投下を命令しました。
翌日の26日、トルーマンとチャーチルと蒋介石の連名で、ポツダム宣言が発せられました。
鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺する」と声明を出しました。
なぜこの時、鈴木勘太郎首相は、ポツダム宣言を黙殺したのでしょうか?
実は、日本政府は、6月始めからソ連を仲介とする終戦交渉を行っていました。
東郷茂徳外相は、広田元首相に対して、ソ連のマリク駐日大使との交渉を依頼。
なんの進展もないまま、7月中旬に交渉は打ち切られました。
対日参戦のための準備を着々と進めているソ連と、終戦のため交渉を行っていたのです。
ポツダム宣言にはスターリンの著名がありませんでした。
そこで、鈴木貫太郎首相は、ソ連との終戦交渉の望みがまだあるとして、「黙殺する」ことにしました。
8月6日、米国は広島に原爆投下。
翌日の8月7日、スターリンは、ワシレフスキー極東ソ連軍総司令官に、8月9日零時に攻撃を開始するように命じました。
モスクワ時間の8月8日17時、モロトフ外相は、佐藤尚武駐ソ大使とクレムリンで会い、日本に対する宣戦布告を読み上げました。
モスクワ時間8月8日18時、満州・日本時間8月9日深夜0時、ソ連軍174万の大部隊が、満州や南樺太の国境から一気に侵略してきました。
満州を守備していた関東軍は、主力を南方に奪われたため、まともに反撃することができませんでした。
そのような状況の中、民間人が戦闘に巻き込まれる悲劇がありました。
満州には鉄道警護のための、満州鉄路警護団が70個ありましたが、本部の満州里に8月9日朝、ソ連軍が攻撃してきた時、鉄道警護隊員は応戦するも全滅。
満州里鉄道電話通信所で、必死に緊急電話をかけていた電話交換手六人は、乱入してきたソ連兵に射殺されてしまいました。
最後に、「皆様、さよなら、さよなら、これが最後です。ご検討をお祈りします。」と悲痛な叫びを残して死んでいきました。
避難することなく決死の覚悟で、最後までお国のために、電話交換手としての仕事を全うしていった、大和撫子たちでした。
日本政府は、8月10日と14日の御前会議における、天皇の御聖断により、8月14日ポツダム宣言を受諾。
翌日15日、終戦の詔が発布され、正午に玉音放送が流れました。
これを受け、英国軍と米国軍は攻撃を中止しました。しかし、ソ連は攻撃をやめませんでした。
8月16日、アントーノフ参謀総長は、次のような理由で攻撃の継続を声明しました。
「日本の降伏に関する通告は、無条件降伏の一般的通告に過ぎない。日本軍の停戦命令はまだ出ておらず、依然として抵抗を続けている」と。
日本の大本営は、8月16日午後4時になって即時停戦命令を出しました。
しかし、ソ連軍の攻撃は止むことはありませんでしたので、それを迎え撃つ最前線の部隊は、戦闘行動をとっていいのかどうか、決断ができずにいました。
そして、それぞれの前線部隊は、白旗を持って、敵陣地に停戦交渉を何度も繰り返しました。
また、即時停戦命令にも次の但し書きがありました。
「停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘はこれを妨げず」と。
この「自衛のための戦闘」も8月18日午後4時までと徹底されました。
8月17日、山田乙三関東軍総司令官は、ソ連極東方面軍に打電して、停戦を提案したが、ワシレフスキーはこれを拒否。
関東軍は、ワシレンスキーから、8月20日まで軍事行動を停止すること、武器を引き渡すこと、日本兵は捕虜となることを要求されました。
8月19日、ソ連極東方面軍司令部において、関東軍とソ連極東軍との間で、停戦協定が結ばれました。
日本側代表の秦参謀長は、居留民の保護と日本本土への帰還などを要求しましたが、
ソ連軍は守らず、多くの日本人居留民に対する略奪、暴行、強姦(レイプ)、虐殺など、満州の悲劇が起こりました。
樺太ではどうだったのでしょうか?
8月11日早朝、樺太国境付近の古屯付近で、ソ連の戦車部隊と日本の守備隊との間で戦闘が始まりました。
翌日の8月12日、札幌の第5方面軍の総司令官、樋口季一郎中将は、樺太の第88師団に対し、次のような訓示を出しました。
「断固仇的を殲滅し、もって襟を安んじ奉ランことを期すべし」と。(「戦史業書」)
8月15日終戦を迎え、16日午後4時には停戦命令が大本営から出たので、樋口総司令官も88師団長に対して、停戦を命令ずるとともに、
「停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘はこれを妨げず」と打電しました。
この打電を受けて現地の師団は混乱しました。
なぜなら、敵が目の前で攻撃をしかけているのに、こちらから積極的に攻撃をすることができないためです。
8月20日になって、樺太を担当していた第5方面軍は、樺太の第88師団に再び停戦交渉を命令。
22日に知取(マカーロフ)で停戦協定を結びました。
ソ連軍は、8月24日に南樺太の豊原(ユジノサハリンスク)、25日に大泊(コルサコフ)を占領しました。
このような中、民間人である、樺太の真岡郵便局の電話交換手9名が、8月20日、ソ連軍が上陸した時に、青酸カリを飲んで自決しました。
最後に残した言葉は、
「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」。
満州里の鉄道電話通信所と同様、避難することなく決死の覚悟で、最後までお国のために、電話交換手としての仕事を全うしていった、大和撫子たちでした。
千島列島ではどうだったのでしょうか?
千島列島では、8月15日、ワシレンスキー総司令官は、プルカーエフ第二極東方面軍司令官とユマシェフ太平洋艦隊司令官に対し、
北千島(占守島(シュムシュ)、幌島(パラムシル)、阿頼度島(アライト)、志林規島(シリンキ))を占領するように命じました。
米ソではポツダム会談の共同軍事会談で、北千島を除いた千島列島を米国による軍事行動範囲と認めていました。
しかし、ソ連は、この軍事会談を無視して、米国の出方を伺いながら、北千島以南へ侵略していきました。
8月18日早朝、カムチャッカ防衛区のグネチコ少将とペトロパブロフスク海軍根拠地の部隊が、千島北端の占守(シュムシュ)を砲撃。
これに対し、日本の堤不さ貴中将は、国籍不明の的に対して、直ちに反撃。
8月16日午後4時に停戦命令が大本営から出ていましたが、
「停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘はこれを妨げず」
という但し書きがあったので、自衛のための戦闘行動をとりました。
しかし、この自衛の為の戦闘も8月18日午後4時までと厳命されていました。
のちに、この時のことを樋口中将は次のように記しています。
「18日は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交代の日であるべきであった。(略)しかるに何事ぞ。
18日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。
かかる「不法行動」は許されるべきではない。若し、これを許せば、至る所でこの様な不法かつ無知な敵の行動が発生し、「平和的終戦」はありえないであろう」と。
(「遺稿集」)
樋口季一郎司令官は、堤不さ貴師団長に次のように打電しました。
「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」
占守島の竹田浜上陸に対して防戦していた、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊でした。
ソ連軍の攻撃に対し、劣勢でしたが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊が救援に向かいました。
この戦車隊も、終戦を迎えたので、燃料の入ったドラム缶も地中に埋めたり、
17日には、「戦車も海に捨てようか」と話していたような状況でしたが、必死に整備して再び出陣できる状況に持って行きました。
そして、池田末男大佐は兵士たちを前にして、次のような訓示を述べました。
「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、ことここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない」と。
戦車隊が到着して、ソ連軍と戦闘を開始しました。
18日午後1時、樋口季一郎中将は、次の内容を大本営に打電しました。
「今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、第91師団の一部兵力、これを迎えて自衛戦闘続行中なり。
敵は先に停戦を公表しながら、この挙に出るは甚だ不都合なるを持って、関係機関より、速やかに折衝せられたし」と。
この打電を受け、大本営はマニラにいるマッカーサー司令部宛に、ソ連に停戦するように指導することを求めました。
マッカーサーは、ソ連国防軍のアントノフ参謀長に停戦を求めましたが、ソ連軍最高司令部はこの要求を拒否しました。
前線においても、戦闘行動停止を求める軍使を、白旗を掲げて敵陣地に、何度も送りましたが、途中で殺害されてしまうなど、ソ連側に全く停戦する意思がありませんでした。
そうしているうちに午後4時を迎えました。
日本軍は、大本営の決めた午後4時に停戦することを厳守して、積極的戦闘を自ら止めましたが、ソ連軍はかまわず攻撃を続行してきました。
この時の状況を樋口季一郎中将は、のちに次のように記しています。
「私は、この戦闘を「自衛行動」即ち「自衛の為の戦闘」と認めたのである。
自衛戦闘は、「不法者側の謝罪」により終焉すべきものとの信念に基づき、本戦争の成果を待った。
私は残念ながら、16時をもって戦闘を止めた事を知り、不法者膺懲(ようちょう)の不徹底を遺憾とした。」と。
(「遺稿集」)
その後も、停戦交渉を試みますが、まとまらず、最終的に8月21日に停戦協定が締結されました。
この戦闘は、8月15日以降のソ連から仕掛けられた戦闘において、ソ連にとって最大の犠牲者を出す負け戦となりました。
ソ連のイズヴェスチア紙は、「8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と報じました。
停戦協定後、ソ連軍は、日本軍将校を水先案内人として、千島列島を南下していきました。
8月31日までに、ソ連軍により、得撫島(ウルップ)を武装解除しました。
ソ連太平洋艦隊司令部は、8月26日、北太平洋艦隊に択捉と国後への上陸を命じました。
8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島に上陸。
9月2日、戦艦ミズーリ号の艦上にて、降伏文書調印式が行われ、日本は連合国に対して、正式に降伏することとなりました。
その正式に降伏した後の9月5日、なんと、ソ連軍は歯舞諸島に上陸して占領してしまいました。
北方4島に上陸する際、ソ連兵は「この島に米国兵はいるか?」と聞いて、米国兵がいないことを確認してから上陸をしていきました。
これは、ポツダムでの軍事会議で、北千島以外の千島列島は、米国の軍事行動範囲と認めていたため、ソ連軍は、米国の動向を気にしながら占領していったのです。
北海道占領作戦はどうなったのでしょうか?
8月15日、トルーマン大統領はマッカーサーに他する一般命令第一号を決裁したことを、スターリンに知らせました。
この一般命令第一号とは、日本軍が連合国のどの司令官に対して降伏するかを規定したものでしたが、
「満州、朝鮮半島の38度線以北と樺太」については、ソ連極東軍司令官に対して武装解除して降伏することと規定されていました。
この命令第一号について、スターリンは、8月16日に、ヤルタ協定に基づき、
ソ連軍に日本軍が降伏すべき地域に、全ての千島(クリール)諸島を含めることと、
北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線より北側)を含めること、を要求しました。
同じ日の8月16日、スターリンは、ワシレンスキー極東ソ連軍総司令官に対し、北海道と南千島を9月1日までに占領するよう命令を出しました。
9月1日までとは翌日の9月2日が降伏文書調印式の日でしたので、それまでに火事場の泥棒的に、占領することを命じていたのです。
しかし、8月18日トルーマンは、スターリンに対して返答しました。
「北海道の北半分の占領を拒否する」と。
8月22日、スターリンは、トルーマンに次の内容の書簡を送りました。
「北海道の北半分をソ連軍への降伏地域に含めることを拒否する回答は期待していなかった」と。
9月2日、スターリンは、「同志スターリンの国民への呼びかけ」を公表しました。
その内容は次の通りです。
「1904年日露戦争におけるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は、我が国家の不名誉になった。
我が国民は、日本を撃破しその恥を拭う日が来ることを信じ、その日の来るのを待っていた。
我々前世代の人間は、40年間その日の来るのを待っていたが、今その日がきたのである。」と。
樺太、千島列島の占領、日本兵のシベリア抑留が、日露戦争での敗北の復讐であったことを公表しました。
しかし、8月18日の占守島での戦闘で、ソ連軍が予想していなかった日本軍からの積極的な攻撃のため、北海道への侵略工程が狂ってしまいました。
その間に、米軍が北海道に進駐してきたので、ついにソ連軍の侵略は北方4島で止まったのです。
もしこの時、樋口季一郎の決断がなかったら、北海道の北半分はソ連の占領下に置かれ、朝鮮半島やかつてのドイツのように、日本は分断されていた事でしょう。
参考図書
「指揮官の決断」早坂隆著
「シベリア抑留」長勢了治著