スペイン帝国による、日本が植民地となる危機を回避することができた、秀吉の朝鮮征伐
豊臣秀吉による朝鮮征伐(唐入り)がありました。
(文禄、慶長の役)
これは、秀吉が天下統一を果たした後、年老いた秀吉のお戯れであったと思っていますか?
あるいは征服欲の発作だったのでしょうか?
実は、秀吉が朝鮮出兵してくれたおかげで、日本が列強の植民地にされるところを救ってくれたのです。
天文18(1549)年、スペインから宣教師フランシスコ・ザビエルが来日しました。
彼に与えられた役目は、日本にキリスト教を宣教することと言われています。
当時の宣教師たちは、キリスト教の布教を目的に、世界中に派遣されていきました。そして、ある程度、布教活動が住民に浸透していくと、反キリスト教集団の抵抗に遭います。
そして、それを口実に、軍隊を派遣して、一気に侵略していき、住民を虐殺して植民地化していくと言う流れでした。
当時のスペイン帝国は、フェリペ2世が君臨しており、ポルトガル国王も兼任して、世界を支配していた時代でした。
北米、中南米大陸、アフリカ、アジアと次々に植民地化していった、「太陽の沈まぬ帝国」スペインの次の狙いは、中国大陸を支配していた明国と日本でした。
しかし、天正16年(1588年)7月、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊がイギリス軍に敗れました。
戦力の落ちたスペイン軍は、極東まで手を伸ばすことに余裕がなくなってきていました。
秀吉は、天正19年(1591年)9月15日、スペインの植民地であるフィリピン総督府に、密使として商人の原田孫七郎(ガスパル・ハラダ)を送りました。
そして、スペイン領フィリピン総督府に対し、日本への臣下の礼を取るようにと要求しました。
いくら、イギリスとの戦いに敗れ、無敵艦隊が壊滅的打撃を受けたとはいえ、相手は、多くの植民地を支配していた「太陽の沈まぬ帝国」スペインです。
その大国に対して、極東の小さな島国の天下を統一したばかりの秀吉が、遠慮することなく堂々と外交交渉を行ったのです。
弱肉強食の時代、支配されるか支配するかとどちらかの選択肢しかありませんでした。
秀吉は、スペインの極東への派遣軍と仮に戦争となったとしても、勝てる自信があったのでしょう。
なぜなら、それまで、長い戦国時代を戦ってきた日本には、屈強な武士たちがたくさんいました。その数200万人と言われています。
また、鉄砲が日本の種子島に伝来してから、それをわずかな期間で国産化してしまい、世界有数の鉄砲保有国となっていたからです。その鉄砲の保有数は、なんと50万丁。
そのような背景もあり、秀吉は、臆することなく堂々と、スペイン帝国と外交交渉をしようとしたのです。
天正19年(1591年)年7月、スペイン領フィリピン総督府は、宣教師フアン・コボを日本に派遣し、友好関係を樹立したいとする書信を届けました。
秀吉は、重ねて、”スペインは、日本に臣下としての礼をとること”、という要求を書いた書簡を、宣教師フアン・コポスに渡しました。
天正19年(1591年)8月23日、秀吉が「唐入り」と称する明国遠征の決意が、全国の諸大名に発表されました。
秀吉は、遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示。
文禄元年(1592年)4月、26万人に上る大遠征軍を組織して、そのうち16万人の軍勢が朝鮮半島に渡りました。
文禄2年(1593年)、明国との間で、講話が結ばれ、停戦。
秀吉は、再度、文禄2年(1593年)4月、スペイン領フィリピン総督府に対して、原田孫七郎の主人にあたる原田喜右衛門を派遣して書簡を届けさせました。
文禄3年(1594年)4月に、新たに宣教師ペドロ・バプチスタ、ゴンザロ・ガルシア等3名が来日し、名護屋で秀吉と謁見。
秀吉は、あくまで”スペイン領フィリピンは、日本に臣下としての礼をとること”を要求しました。
文禄5年(1596年)8月28日、スペインのガレオン船(帆船)、サン・フェリペ号が日本の土佐国で遭難。
(サン=フェリペ号事件)
その海難事故を調査するために、増田長盛が派遣されました。
そこで、サン・フェリーペ号の水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは増田長盛に世界地図を示して、次のように説しました。
「スペインは広大な領土をもつ国であります。それに比べて日本がどれだけ小さい国であるか」と。
増田長盛はデ・オランディアに問いかけました。
「何故スペインが、かくも広大な領土を持つにいたったのか?」
デ・オランディアは答えました。
「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。
それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と。
この報告を受けた秀吉は、文禄5年(1596年)12月8日、禁教令を再び発布。キリシタン26名を逮捕して長崎に送りました。
長崎のイエズス会は、その26名を死罪とするように長崎奉行に申請して、慶長元年(1596年)12月19日処刑されました。
(日本二十六聖人殉教)
この処刑の9年前の天正15年(1587年)、秀吉はバテレン追放令を発布していましたが、これはキリスト教の布教のみを禁止するものであり、キリスト教の信仰は認められていました。
よって、キリシタン(キリスト教信徒)は迫害されることはありませんでした。
しかし、サン=フェリペ号事件をきっかけとして、スペイン帝国による世界植民地支配のシナリオを知った秀吉は、キリシタン弾圧を行ったのです。
慶長2年(1597年)、14万の遠征軍を組織して、再び朝鮮半島に渡りました。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去。
慶長3年(1598年)10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が遠征軍に発令され、順次、朝鮮を撤退していきました。
もし、秀吉が、キリシタン弾圧をせず、また「唐入り」を称する明国との戦争(朝鮮征伐)をしていなかったらどうなっていたでしょうか?
スペイン帝国による世界植民地支配のシナリオ通り、日本はキリスト教宣教師が日本国内にて活発に布教活動をし、その後、スペイン軍を日本に派遣して、植民地にされていたかもしれません。
あるいは、日本には戦い慣れた屈強な武士200万人と、鉄砲50万丁があることを、宣教師たちの報告から知っていたスペイン帝国は、侵略の矛先を明国にして、明国を植民地にしていたかもしれません。
明国が植民地となるということは、明国の属国であった朝鮮半島も自動的に植民地となるということです。
そして、朝鮮半島経由で、明国と朝鮮連合軍による、日本征伐が行われていたかもしれません。
なぜなら、明治時代、ロシア帝国がかつてのスペイン帝国と同じように、朝鮮半島の植民地化を狙い、その後の日本侵略を計画していたからです。
このように考えると、豊臣秀吉の朝鮮征伐により、日本のみならず、明国、朝鮮半島を、スペイン帝国の植民地となる危機から救ってくれたのです。