極寒のシベリアを放浪するポーランド孤児たちを救った唯一の国、日本 | 誇りが育つ日本の歴史

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極寒のシベリアを放浪するポーランド孤児たちを救った唯一の国、日本

 

 

 

大正時代、極寒のシベリアで、ポーランド孤児たちが、身寄りもなく放浪していました。

 

孤児たちに手を差し伸べる国は、どこもありませんでした。

しかし、孤児たちを助けた唯一の国がありました。

 

それは日本です。

 

大正3年(1914年)から始まった第一次世界大戦では、ロシアの属国となっていたポーランド国内で、ドイツとロシアが戦闘を繰り広げました。

 

ドイツの猛攻に対して、ロシアがポーランド住民の民家を焼き払い、住民を追い払ったので、ポーランド人は、混乱のため、家族がバラバラになり必死にシベリアに逃げました。

 

その数、15万人から20万人と言われています。

 

シベリアは、ロシア帝国による、厳しいポーランド属国統治に逆らった、政治犯とその家族たちの流刑地でした。

 

そこで、鉄道敷設などの作業に従事していましたが、極寒の地であり、食料や医療設備も十分ではなく、飢餓や凍死、病死などにより、多くのポーランド人が亡くなっていきました。

 

さらに、大正6年(1917年)に2度のロシア革命が起き、その後の内戦と混乱が続いたので、シベリアでのポーランド人の生活環境は悲惨でした。

 

特に、親と死別した子供たちは、腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、まさにこの世の地獄のような極限状態でした。

 

大正7年(1918年)11月、ポーランド共和国がロシアから独立したので、祖国へ引き揚げ計画があったのですが、その後、大正8年(1919年)2月より、ソビエトとポーランドとの間で戦争が勃発により、その計画を断念。

 

せめて、両親が亡くなってしまった孤児たちを救済しようと、大正8年(1919年)10月、ポーランド孤児救済委員会がウラジオストクに設立され、米国やイギリスなど主要国に嘆願しました。

 

しかし、どの国もポーランド人の孤児救済に協力してくれる国はなく八方塞がりで途方に暮れていました。

 

そのような状況を見て、当時、日本からシベリアに出兵していた日本陸軍の浦塩(ウラジオ)派遣軍が手をさしのべました。

 

浦塩(ウラジオ)派遣軍参謀であった長谷部照悟陸軍少佐、浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部のハルビン特務機関長であった石坂善次郎中将 、浦塩(ウラジオ)派遣軍政務部部長であった松平恒雄です。

 

大正7年(1918年)8月から「ロシア革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」との名目で、同盟国であったイギリスからの要請で、日本陸軍7万3000名がシベリアに派遣されていたのです。

 

そして、大正9年(1920年)6月18日、ウラジオストクのポーランド孤児救済委員会の会長アンナ・ビルケウィッチ女史は、東京の外務省を訪問。

 

彼女は、在ウラジオストク総領事であり、浦塩(ウラジオ)派遣軍政務部部員を兼任していた渡邊理恵からの紹介状を持参していました。

 

外務省で、彼女の嘆願を聞いた、武者小路公共政務局第二課長は、上司である埴原事務次官の相談しました。

 

人道上の理由で協力したいが、国としての予算が難しいという理由で、2日後の6月20日に埴原事務次官は、日本赤十字社の石黒忠悳社長に書状で協力を要請。

 

7月5日、日本赤十字社は、ポーランド孤児救済に協力することを理事会で正式に決定しました。

 

アンナ・ビルケウィッチ女史が外務省に嘆願した日からわずか17日という迅速な対応でした。

 

次の課題は、極寒のシベリアの大地で放浪するポーランド人孤児を探して、ウラジオストクの港まで連れてくることでした。

 

その自然環境も治安も劣悪なシベリア各地で放浪していた、見知らぬポーランド人孤児たちを探し出すのに、シベリア出兵中の日本陸軍が全面協力しました。

 

ポーランド孤児救済委員会のヤクブケヴィチ副会長は、「日本陸軍の保護の下で、シベリアの奥地からウラジオストクに至るまで、ある時は陸軍の自動車で、ある時は汽車で児童を輸送してくれた」と回想しています。

 

大正9年(1920年)7月からの1年間で、児童375名が福井の敦賀港に上陸。(第1次)

 

大正11年(1922年)8月7日から29日まで3回に分けて、児童388名、付添い39名の計427名が、敦賀港に上陸しました。(第2次)

 

第1次と第2次で計765人のポーランド孤児たちが、来日しました。

 

敦賀町では、菓子・玩具・絵葉書等を差し入れ、宿泊・休憩所などの施設の提供を行いました。

 

また地元の有志をはじめ、婦人会でも菓子・果物などの差し入れを行い子供たちを慰めました。

 

9歳の時に上陸したポーランド・ワルシャワ在住のハリーナ・ノビツカさん(故人)は、

 

「到着した敦賀の美しい花園のある浜辺の民家。バナナやみかんなど見たこともない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」と語りました。

 

大正9年(1920年)から大正10年(1921年)に収容された、第1次の孤児たち375名は、東京府下豊多摩郡渋谷町(現東京都渋谷区広尾4丁目)の「福田会育児所」に収容されました。

 

大正11年(1922年)に助け出された第2次の孤児たち388名は、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」が用意されました。

 

収容された時の孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態でした。

 

また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気にかかっており、すぐに治療が施されました。

 

さらに、長い放浪のため、着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいませんでした。

 

そこで日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や菓子、果物を支給しました。

 

看護婦の松澤フミさんは腸チフスに感染した子供に対して、「せめて私の胸の中で死なせてあげたい」と、そのこのそばを離れませんでした。

 

彼女の献身的な看護により、その子は奇跡的に回復しましたが、代わりに松澤フミさんは腸チフスに感染してしまい、23歳の若さで殉職しました。

 

ある子供は当時を次のように回想しました。

「私はひどい皮膚病にかかっていたので、全身に薬を塗られて、ミイラのように白い布に包まれて看護婦さんのベッドに運ばれました。

 

その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると布から顔だけ出している私の鼻にキスをして、微笑んでくれました。

 

私は、このキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出してしまいました」

 

このような暖かい看護のおかげで、順調に孤児たちは回復し、健康を取り戻していきました。

 

そして、それは同時に、ポーランドへの帰国を意味していました。

 

ポーランド孤児たちの中には、このまま日本にいたいと、泣いて駄々をいう子供もいました。

 

第1次の孤児たちは、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150名、香取丸で114名、伏見丸で106名の合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへ送られました。

 

また、大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2回にわたり、香取丸で191名、熱田丸で199名の合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港し、ポーランドへ送られました。

 

港では、両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り、「アリガトウ」「サヨウナラ」と叫びました。

そして、「君が代」や「さくら」など日本で覚えた歌を歌いました。

 

その時、見送る人や送られる子供たちの顔には別れを惜しむ涙がありました。

 

日本船の船長は、毎晩、子供達の寝室を巡回して、一人一人の毛布を首までかけてあげて、頭を撫でて熱がでていないか確かめていました。

 

「お父さんの手はきっとこんなに大きくて暖かいんだろうな」と薄眼を開けて、船長の巡回を楽しみにしていた子供もいたそうです。

 

ポーランド帰国後、昭和3年(1928年)、イエジ・ストシャウコフスキ少年が先頭に立って、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織。

 

昭和14年(1939年)9月1日、ナチスドイツがポーランドを侵攻。

 

極東青年会など、ポーランドの青年たちがレジスタンス運動(抵抗運動)を開始。

 

戦災孤児たちが続々と参加して、その数1万人に上る組織になり、この組織はリーダーであるイエジの名をとり、イエジキ部隊と呼ばれました。

 

ある日、イエジキ部隊のアジトにナチス兵が乱入。イエジは日本大使館に助けを求めました。

 

日本大使館の井上益太郎書記官は、ナチス兵に毅然と言いました。

 

「ここは、日本帝国大使館が保護している孤児院である。勝手な行為は認められない。子供達に謝罪しなさい。」

 

ナチス兵は言いました。

「日本大使館の申し出であっても、聞くことはできない。直ちに立ち去るように」

 

すると、井上書記官はイエジたちに言いました。

「ドイツ人たちに日本と君たちの信頼の証として、日本の歌を聴かせてやってくれ」

 

イエジたちは日本語で、「君が代」、「さくら」などを大合唱しました。

 

これを聞き、ナチス兵たちは、立ち去っていきました。

 

井上益太郎書記官の毅然とした態度、そして、イエジたちが日本の歌を覚えていたことが幸いして、ナチスからの危機を逃れることができました。

 

平成7年(1995年)1月17日、阪神淡路大震災が起きたました。

 

その年の夏、被災した子供たち30名がポーランドに招かれました。

 

各地で交流やホームステイが行われ、チャリティなどの協力が相次ぎました。

 

翌年の夏にも、ポーランドに被災した子供たちが招待されました。

 

そして、75年前に孤児として日本に救済してもらった人たちが、お別れパーティで次のように語りました。

 

「かつて自分たちがどのように助けられたか、日本の人たちにどんなに親切にされたかを話して、子供達に勇気を与えたい」と。

 

平成14年(2002年)、天皇皇后両陛下がポーランドを公式訪問されました。

 

ある85歳のポーランド老婦人、アントニーナ・リロさんが、両陛下に謁見しました。彼女は、ポーランド孤児で、日本に救済された人でした。

 

当時3際だった彼女には、大正天皇の后、貞明皇后が、ポーランド孤児たちを慰問に訪れてくれた際、貞明皇后から抱いて励ましてくれた思い出がありました。

 

彼女は、美智子皇后の手をずっと握りしめていたそうです。

82年前に貞明皇后から受けた優しさを、思い出していたのかもしれません。

 

平成18年(2006年)、アントニーナ・リロさんはポーランド孤児の最後の一人として、その生涯を閉じました。

 

死の間際、次のように語りました。

 

「日本は天国のようなところだった」と。

 

参考図書

「人生に悩んだら日本史に聞こう」 白駒妃登美&ひすいこたろう著 祥伝社