エルトゥールル号から始まったトルコとの友情
昭和60年(1985年)3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間以降に、イラン上空を飛行する航空機全てを、攻撃対象とする。」と声明を発表。
イランに取り残され、救出される見込みがない在留日本人215名を、なんとトルコ人たちが救ってくれました。
なぜでしょうか?
明治20年(1887年)、小松宮彰仁新王・妃殿下が、オスマン帝国のイスタンブールに訪問し、皇帝アブデュル・ハミット二世に謁見。
その訪問に応えるためと航海訓練を兼ねて、オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、木造フリゲート艦のエルトゥールル号を、大日本帝国(当時)へ派遣しました。
明治22年(1889年)7月14日、オスマン帝国のイスタンブールを出港して、11か月をかけて、明治23年(1890年)6月7日に日本の横浜港に到着。
オスマン・パシャ海軍少将を特使とする一行は、6月13日にオスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世の親書を、明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として、歓迎を受けました。
明治23年(1890年)9月15日に横浜港を出港しましたが、9月16日夜、台風による強風にあおられ、和歌山県の串本沖で岩礁「船甲羅」に激突して沈没。
これにより、司令官オスマン・パシャ海軍少将をはじめとする600名以上が海へ投げ出されました。この事故で、死者行方不明者587名、生存者69名。
生き残った乗組員は、串本に浮かぶ大島にたどり着きました。
そして、灯台までの断崖絶壁をよじ登り、救援を求めました。
知らせを聞いた大島村(現在の串本町)の住民たちは、総出で救援活動をしました。
その大島の住民は、貧しい村でした。特に、この年の漁獲量が少なく、村民たちが飢えをしのぐのに精一杯という状況でした。
しかし、遭難者たちを見て、サツマイモや卵、さらに非常食の鶏などを与えたり、冷え切った体を温めたりして、看護しました。
その後、大島付近を航行中だった船に寄港してもらい、生存者2名を乗せ、神戸港に向かいました。
神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が、大島に急行し、生存者全員を神戸に搬送して病院に収容されました。
大島村長の沖周(おき しゅう)は、和歌山県を通じて大日本帝国政府に通報し、その知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示。
各新聞は衝撃的なニュースとして伝えられました。
明治23年(1890年)10月5日、日本海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が、神戸港にて生存乗員69名を乗せて出港。
翌年の明治24年(1891年)1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールに送り届けました。
後日、トルコ政府は、治療に当たった医師たちに治療費の請求を求めましたが、日本人医師たちは、「お金なら、被災したトルコ人に差し上げてください」と言って、お金を受け取りませんでした。
昭和55年(1980年)9月22日、イランとイラクの間で戦争が勃発。
昭和60年(1985年)3月12日、イラク軍が、停戦合意を破り、イランの首都テヘランへ空爆を開始。
3月17日夜、イラクのフセイン大統領が次の声明を発表しました。
「48時間の猶予期限以降(3月19日20時半以降)、イラン上空を飛ぶ全ての飛行機を、イラク空軍の攻撃対象とする」と。
突然の無差別攻撃の予告に、世界中が大パニックになりました。
イラン在住の外国人たちは、それぞれ自国の軍隊が派遣されて、イランからの脱出を行いました。
しかし、イランに住む日本人駐在員とその家族たちは、憲法上の理由で、自衛隊が救助に向かうことができず、生命の危機に陥ってしまいました。
また、日本航空にチャーター便の派遣を依頼しましたが、同社のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由に、イランの在留日本人救出を拒絶。
(この時、海上自衛隊出身の日本航空、高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと言われています。)
3月19日20時半のタイムリミットは、すぐそこまできていました。
イランの日本大使館は、他国の軍隊に救援を依頼しますが、どの国も自国民の救出を最優先しているので、断られてしまいました。
そのような逼迫した中、野村豊イラン駐在大使が、トルコ共和国のビルレル駐在大使へ、藁をもすがる思いで連絡しました。
「日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか?」と。
トルコ共和国のトゥルグト・オザル首相が、ビルレル駐在大使から報告を受け、2機のトルコ航空機をテヘランに飛ばすことを決断。
政府の要請を受けたトルコ航空では、すぐ、この危険なフライトをしてくれるパイロットがいないか、募りました。
すると、その場にいたパイロット全員が志願しました。
オルハン・スヨルジュ機長らが操縦する2機のトルコ航空機が、テヘランのメヘラーバード国際空港に向かい、在留邦人215人を乗せ、再び、トルコに向け離陸。
そして、3月19日18時45分、トルコ領内に入りました。
タイムリミットまで、あと1時間45分という間一髪のところでした。
しかし、トルコ航空機に搭乗することができなかったトルコ人約500名たちは、イランにとり残されました。
テヘランに飛行機を飛ばすということは、イラク軍に撃墜されてしまう危険がありました。
それでも、トルコ共和国のトゥルグト・オザル首相は、日本人救出のために決断し、また、トルコ人パイロットたち全員が、命をかけた日本人救出に志願したのです。
トルコ航空機に乗ることができずに、イランに取り残されてしまったトルコ人たちは、その後、どうなったのでしょうか?
トルコ人たちは、その後、3日間もかけて自動車で脱出しました。
このような日本人救出を優先したことに、トルコ人の誰一人、不満を言わなかったそうです。
なぜでしょうか?
ネジアティ・ウトカン駐日トルコ大使は、次のように語りました。
「エルテュールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れません。
私も、小学生の頃、歴史の教科書で習いました。トルコでは、子供達でさえ、エルテュールル号のことを知っています。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」と。
平成11年(1999年)8月、トルコで大地震が発生。
死者は1万7千人以上。
この時、かつて、トルコ航空機で救出された日本人たちが、日本政府に働きかけて、人命救助、物資援助、医療など救援活動を行いました。
平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災が発生。
この時、トルコ人たちはすぐ行動を起こしてくれ、被災地に救援物資を届けたり、炊き出しなどを行ったりしてくれました。
この時、トルコ人たちは日本人に言いました。
「喜びも困難も共に分かち合おう」と。
参考図書
「人生に悩んだら日本史に聞こう」 白駒妃登美&ひすいこたろう著 祥伝社