教育勅語は、井上毅と元田永孚との信頼関係によって生まれました | 誇りが育つ日本の歴史

誇りが育つ日本の歴史

日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

教育勅語は、井上毅と元田永孚との信頼関係によって生まれました

 

 

 

教育勅語を作成した井上毅(こわし)。彼がその作成にあたり、最も重要視したのが、日本の国体、国学でした。

 

その国学では、天皇が国を治める基本思想である『しらす』の精神が始めに出てきます。

 

しらすとは、知るという意味であります。

 

古事記の神代の巻で、天照大神(あまてらすおおみかみ)は邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上に降臨される時に、彼に鏡を授けて、

 

「これを見ることは我が心を見るがごとくにせよ」とおっしゃいました。

 

鏡を通して、神の心を知ることです。その鏡を磨き上げて、濁りのない心で、常に神の心と民の心を知ることが、天皇にとって最も大切なこととされています。

 

井上毅は次のように言いました。

 

「支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪族がいて、多くの土地を占領して、一つの政府を立てて支配して、その征服の結果を持って国家の釈義(意味)と為すべきも、

 

日本の天日嗣(あまつひつぎ)(天皇)の大御業(おおみわざ)(なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より、成り立ちたるものなり」

 

鏡を通して、民(国民)の心を知る(しらす)ことが大切であるということです。

 

君(天皇)と民(国民)とは一体であります。

 

古事記の国譲りの話では、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受け、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、出雲国を納めている大国主命(おおくにぬしのみこと)に次のように言いました。

 

「この葦原の中つ国は、本来、天照大神(あまてらすおおみかみ)が『しらす』ところの国であるので、この国を譲るように」と。

 

それまで、大国主命(おおくにぬしのみこと)は『うしはく』により、国を統治していました。

 

『うしはく』とは、豪族や独裁者が私物化した土地を支配して、武力を持って統治するという意味です。

 

そこには、民(国民)の意見など無視して、搾取したり、奴隷として

扱うことを平気で行なうような統治となります。

 

井上毅(こわし)は、大日本帝国憲法(明治憲法)を草案しましたが、その第一条に「日本帝国は、万世一系の天皇の治す(しらす)所なり」としました。

 

しかし、伊藤博文らから、「『しらす』とは法律用語として如何なものか、外国からも誤解を招く」、として、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と最終的に改められました。

 

それほどまでに、井上毅(こわし)は、日本の国体の基本中の基本である、『しらす』という精神を重要視していたのです。

 

明治憲法が発布されてから、今度は、いよいよ教育勅語の草案に入ります。

 

明治23年、芳川文部大臣の依頼により、東大教授の中村正直が教育勅語の草案を起草しましたが、法制局長官であった井上毅(こわし)は、この草案を徹底的に批判しました。

 

なぜなら、その内容があまりにもキリスト教色の強いものであったからです。

 

明治23年6月、井上毅(こわし)は、首相の山県有朋から教育勅語の草案の起草を依頼されました。

 

その後、11月1日、陸羯南(りくかつなん)が主催する新聞「日本」で次のような論説を掲載しました。

 

「聖明(天皇の徳)自ら行いてしかして、臣民に及ばさんことを期し、あえて皇威を持って、徳育の標準をたつるに、非ざるを知る。

 

思うに、皇室は人徳の源なり。臣民仰ぎてその光輝を見ること、北辰(北極星)に向かうが如し、王者の道、あに独り、政界のみに行うものならんや」

 

天皇は権力によるのではなく、徳を自ら率先して行い、それを国民に広く及ぼそうとされました。

 

あえて、権力によって徳育の標準をお立てになろうとはされませんでした。

 

皇室は人徳の源でありまして、その光輝を仰ぐ国民は、まさに「北辰」、つまり動かない北極星をそのまま仰ぐことであります。

 

それゆえ、「王道の道」が行われるのは何も政治の世界にのみ限られるものではありません。

 

井上毅(こわし)は、この教育勅語が、権力を背景とした、上からの押し付けにならないように、配慮しました。

 

そのため、他の勅語とは異なり、大臣の副書をつけず、文部省や内閣を経由せずに、政治上の勅語とはしないこととしました。

 

井上毅(こわし)は、元田永孚(もとだ ながざね)に教育勅語の草案を見せて意見を求めました。

 

元田は、当時の儒学者の権威でしたが、明治天皇に帝王学を教えた教育係として、天皇に近い立場にいました。

 

明治天皇にとっては、元田永孚は師匠であり父のような存在でした。

 

「國民新聞」を主宰した徳富蘇峰(とくとみそほう)は、元田永孚のことを次のように語っています。

 

「明治天皇のご人格を作り上げた最親最密の顧問である」と。

 

井上毅(こわし)は、同じ熊本出身であり、また、明治天皇に最も近い元田永孚(もとだ ながざね)に、事前に意見を求めることにしたのです。

 

元田永孚と井上毅は同じ儒学を基礎としていましたが、必ずしも、教育勅語の草案については、同じ意見ではありませんでした。

 

また、元田永孚は、儒学者の権威であり、明治天皇の顧問です。

 

その元田の修正案に対して、井上毅が意見を言うのもなかなか難しいところです。

 

しかし、井上毅は持論を曲げず、元田永孚の修正案に対して、さらに修正案を出し、元田永孚の意見を求めました。

 

井上毅は元田永孚に次のように言いました。

「一点の固執心こそ悪魔と思う」と。

 

元田永孚は井上毅に次のような手紙を送りました。

「貴論(井上の言う)のごとく、どうしても人間固有の癖をあくまでも取り去り、天下萬世に渡り、国家のためを考え申したく」と。

 

そのように何度も、元田永孚と井上毅の間で、修正案が行き来しましたが、最終的には、井上毅(こわし)の案を基礎として、微調整されたものに決まりました。

 

持論を曲げない井上毅(こわし)と、その井上毅に対して理解を示し、自らの修正案を没にした元田永孚との信頼関係によって、教育勅語が作られました。

 

明治24年1月、教育勅語が世に出た(明治23年10月30日発布)2ヶ月後、元田永孚(もとだ ながざね)は病に倒れました。

 

その病床に、井上毅(こわし)が駆けつけ、明治天皇から男爵の爵位が授けられることを告げました。

 

「この篤きご恩は草葉の陰から報い奉る」と元田永孚は繰り返しました。

(「明治の天皇づくりと朝鮮儒学」小倉紀蔵著)

 

(参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版)