新天地に挑む 〜 山田長政 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

 

 

新天地に挑む 〜 山田長政

 

今から320年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムというのは今のタイ国のことです。

 

その頃、日本人は、船に乗って盛んに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町というものができました。

 

シャムの日本町には5千人ぐらいが住んでいたということです。

 

20何歳かでシャムへ渡った長政は、やがて日本町の頭になりました。

 

勇気に満ち、しかも正直で、義気のある人でした。

 

シャムの国王(アユタヤー王朝)は、ソンタムと言ってたいそう名君でありました。

 

長政は、日本人の義勇軍を作り、その隊長になって、この国のために度々手柄を立てました。

 

国王は、長政を武官に任じて、のちには、最上の武官の位置に進めました。

 

日本人の中で、武術に優れ、勇気のある者6百人ばかりが、長政の部下としてついていました。

 

長政は、これら日本の武士と、たくさんのシャムの軍兵を率いて、いつも、堂々と戦いに出かけました。

 

 

長政が、緋縅(ひおどし)の鎧を身につけ、立派な車に乗り、シャムの音楽を演奏しながら、都に凱旋するときは、見物人で、町という町がいっぱいだったということです。

 

長政は、こうして、この国のために、しばしば武功を立て、高位高官に登りました。

 

その間も、日本町のために活動し、日本へ往来する船の世話をし、海外貿易を盛んにすることに勤めました。

 

身分が高くなってからは、ほとんど毎年のように、自分で仕立てた船を日本へ送っていました。

 

長政がシャムへ渡ってから、、20年ばかりの年月が過ぎました。名君の誉れ高かったソンタム王も亡くなり、年若い王子が、相次いて国王になりました。

 

こうした好きに乗じたのか、その頃、シャムの属地であったナコンという地方が、よく治りませんでした。

 

そこで、国王は、新たに長政をナコン王に任命しました。

 

そのため、王室では、盛んな式が挙げられました。まだ、10歳でった国王は、特に国王の用いるのと同じ形の冠を長政に授け、金銀や宝物を、山のように積んで与えました。

 

長政は、いつものように、日本の武士とたくさんのシャムの軍兵を連れて、任地へ赴きました。

 

すると、ナコンは、長政の遺風を恐れて、、たちまち王命を聞くようになりました。

 

惜しいことに、長政は、ナコン王になってから、わずか1年ばかりで亡くなりました。寛永7年(1630年)

 

長政は、日本のどこで生まれたのか、いつシャムへ行ったかもはっきりしません。

 

それが、一度シャムへ渡ると、日本町の頭隣、海外貿易の大立者となったばかりか、彼の地の高位高官に任じられて、日本の武名を、南方の天地に轟かせました。

 

外国へ行った日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人のために気を履いた人は、他にはないといっても良いでしょう。

 

(参考図書:国民学校 教科書「修身」)