進取の気性 〜 牛島 謹爾(うしじま きんじ)(ジョージ・シマ) | 誇りが育つ日本の歴史

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進取の気性 〜 牛島 謹爾(うしじま きんじ)(ジョージ・シマ)

 

牛島 謹爾は久留米在住の古くからある農家に生まれ、明治21年(1888年)、25歳のとき、志をたてて米国に渡った。

 

その頃の渡米者は、大抵修学を目的とし、将来は日本に帰って官途にでもつこうという者が多かった。

 

その中で、謹爾は一人で田舎の農園に行き、馬鈴薯(ばれいしょ)(じゃがいも)作りの名人と言われる人に従って、農事を習った。

 

さて、この経験をもとに自分の農園を経営したいと思って、寝異国カルフォルニア州中部(ストックトン地方)にある村で、6ヘクタールばかりの土地を借り、そこに馬鈴薯や豆などを作り始めた。

 

元来、この地方は、二つの大河がまさに合流遷都する間に挟まれた広大な沼地で、人をも隠す水草がぼうぼうと生い茂り、中には野草が住んでいたほどで、

 

30年来、白人が幾度か開拓を試みたが、到底望みがないと放棄した土地であった。

 

謹爾は、ここに鍬を入れたのである。それよりのちは、毎年、風害、水害、などに合わないことはないと言って良いくらい。

 

あるいは、不作で幾日もかぼちゃばかりを食っていたこともあり、また豊作を喜んでいると一夜ですっかり作物を洗い流されたこともある。

 

けれども、失敗に会うごとにその勇気はますます加わり、去年よりも今年、今年よりも来年と次第に手を広げて、渡米の10年目には150ヘクタールの耕地を得る。

 

その年初めて事業の基礎を確立することができた。

 

謹爾は、それになお満足せず、ますます耕地を広げ、主として馬鈴薯の栽培をなし、あるいは天災により、あるいは財界の影響によってしばしばつまずいたけれども、

 

不撓不屈よく万難を排して、ついに土地を開拓すること4万ヘクタールに及び、洪水の憂いを除き、地方の開発を促した。

 

そうして、馬鈴薯の生産額は年100万俵にのぼり、カルフォルニア州の馬鈴薯の年生産額の8割以上をその農園で占め、州の市場を左右するまでになった。

 

このようにして謹爾の産業上の功績はあまねくかの地の人に認められ、「馬鈴薯王(ばれいしょおう)」と呼ばれるようになった。

 

謹爾が巨万の富を作ったのち、錦をきて故郷に隠退することを進める人もあったが、

 

「それはびく一杯に子魚を釣って満足するような者だ。自分は願わくば幽谷の熊を捕まえたい」

 

と言って従わなかった。

 

晩年には、さらにメキシコや南米に発展の地を求めていたが、その計画の実現を見ない中、大正15年(1926年)、63歳で病に倒れて、米国の地の土となった。

 

スタンフォード大学のジョルダン教授名誉総長は、彼の死を悼んで、

 

「君は多年カルフォルニア州における最も信用あり、かつ尊敬せられた実業家の一人であった。

 

君は、15年間、在米日本人会会長として活躍したが、付近の日本人間におけると同様に、米国人間にもなかなか勢力があった。

 

君は、事業に関する契約については証書を用いなかったけれども、決してその信用を毀損することがなかったそうだ」

 

と言った。謹爾は多年、(排日運動の緩和など)日米両国の親善のために力を尽くした。

 

(参考図書:尋常小学 教科書「修身」)