昭和18年カイロにて、連合国のルーズベルトとチャーチル、蒋介石が集まり、日本に対する戦後処理や世界秩序について話し合われました。
そこで、カイロ宣言が発表されました。
昭和20年5月にドイツが降伏。その後の7月に、ドイツ郊外のポツダムという地域で、連合国首脳が集まりました。
4月に死亡したルーズベルトに引き継いで大統領となったトルーマンとチャーチル、スターリンらが、ドイツの戦後処理について話し合いました。
蒋介石はドイツと戦っていなかったので、ポツダムには行きませんでした。
この会談では、日本については主要議題とはなりませんでしたが、トルーマンは、少しでも早く日本に対して降伏勧告をしたいと考えていました。
その後、チャーチルは選挙で敗退したので英国に急遽帰国。チャーチル帰国後の昭和20年7月26日、トルーマンは、日本に対する戦争終結を宣言したポツダム宣言を発表。
そのポツダム宣言は、チャーチルの後任のアトリー英国首相と蒋介石の署名を、トルーマンが代理署名しました。
スターリンは、7月26日の時点では日本に参戦していなかったので、著名しませんでした。
ポツダム宣言は13か条からなりますが、そのうちの第6条には次のように書かれています。
「我々は無責任な軍国主義が世界中から一掃されるまでは、平和、安全及び正義の新たな秩序が生まれることはありえないと主張するものである。
それゆえに、日本国民を騙し、これによって世界征服をしようという過ちを犯したものどもから、その権力や勢力を永久に取り除かなければならない。」
”日本国民を騙し”というのは、日本降伏後、占領政策の基本方針となった、「2分法」の発想になります。
「2分法」とは、日本軍国主義の犠牲者となった日本国民とアジアの人々は被害者である。そして、日本軍国主義は、平和を脅かす危険な侵略思想を持った、加害者である。
米国を始めとする連合国は、その加害者である日本軍国主義を駆除した解放軍である。
というものです。
この「2分法」のモデルとなったのは、中国で、日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において、日本兵捕虜に対して行われていた思想改造でした。
日本共産党の野坂参三はそこで校長を務めていました。
「2分法」により、戦後の占領期間、日本国民は、思想改造を施され、70年以上経過した今でも、その思想改造(マインドコントロール)を抜け出すことができずにもがき苦しんでいます。
また、”世界征服をしようという過ちを犯したものどもから、その権力や勢力を永久に取り除かなければならない。”
とあります。
大東亜戦争を戦っていた日本は、その大義名分を次のように宣言しています。(昭和18年11月6日 大東亜共同宣言)
「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。
けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、
東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。
つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。
そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、
その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。
1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。
3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。
4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。
5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」
以上の”大東亜共同宣言”にあるように、かつての日本は東南アジア諸国(現在のASEAN諸国)を、植民地にして搾取していた欧米列強に対し、そのアジアの解放を実現するために、勇敢に戦っていたのです。
決して、世界征服を企んで戦っていたのではありません。
また、ポツダム宣言の第8条には次のように書かれています。
「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本の主権は本州、北海道、九州、四国並びに我らが決定する諸小島に局限されなければならない。」
”カイロ宣言の条項は履行され”とありますが、カイロ宣言はその宣言自体が、有効な公式文書とは言えません。
くわしくは、
http://ameblo.jp/hirohirobbb2000/entry-12249573715.html
を参照。
昭和30年(1955年)2月1日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは英国の国会答弁で、
「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」
と述べています。
カイロ宣言の当事者の一人であるチャーチルが、その宣言の内容を否定しているのです。
昭和47年(1972年)9月29日、日本と中国共産党との間で、日中共同声明が発表されました。
この声明は、日本の田中元首相、大平元外相と、中国共産党の毛沢東、周恩来との間で交わされ、日中国交正常化に向けた交渉が行われた際に、発表されたものです。
この声明は9か条からなり、その第3条には次のように書かれています。
「中華人民共和国は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。」
”ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。”
とあります。
ポツダム宣言第8項には、”カイロ宣言の条項は履行され”
とあります。
カイロ宣言には、「台湾および澎湖島のような日本国が清国から盗み取った全ての地域を中華民国に返還することにある。」
と書いてあります。
つまり、中国共産党は、このカイロ宣言を盾にして、台湾は中国のものである、と主張しているのです。
それを、日本にも認めされたのがこの”日中共同宣言”ということになります。
この日中共同宣言により、それまで、日本と台湾が結んでいた平和条約が失効してしまいました。
また、日中共同宣言の第5条には次のように書かれています。
「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」
この条文を読む限り、中国共産党はとても懐の深い尊大な政府であると思いがちです。
しかし、それは本当でしょうか?
日本が大東亜戦争を戦っていた連合国は、米国、英国、中華民国(蒋介石)、フランス、ソ連の5カ国となります。
そのうちのソ連は、8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略。翌日10日に日本がポツダム宣言を受諾する旨をスイスを経由して連合国に打電したにもかかわらず、9月2日まで降伏した日本相手に侵略を続けました。
中国については、蒋介石率いる国民党軍を相手に日本軍は戦っていたのであり、その蒋介石が建国した中華民国政府が、連合国の一員として認められていました。
昭和20年9月2日の戦艦ミズーリの艦上で行われた降伏文書調印式において、著名したのは、中華民国政府の代表徐永昌(じょ・えいしょう)でした。
降伏文書とは、大日本帝国と連合国との間で交わされた、休戦協定です。
したがって、戦争賠償請求権は、中華民国政府にあり、中国共産党政府にはありません。
また、国連の常任理事国にも、中華民国政府が入っており、中国共産党政府は、常任理事国ではありませんでした。
(中国共産党政府が常任理事国に入ったのは、ニクソン米国大統領の働きにより、昭和46年(1971年)10月になってからです。)(ニクソン・ショック)
昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約の締結においても、中国共産党政府は会議への参加の招待をされませんでしたので、署名をしてません。
昭和27年(1952年)8月5日に日華平和条約が発効。
この条約の議定書において、次のように規定されています。
「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第14条(a)1に基づき、日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」
役務の利益とは戦争補償のことを言います。
「中国には『怨みに報ゆるに徳を以てす』という伝統がある。」
と論語から引用した言葉を使って、蒋介石は、戦争賠償請求権を放棄したと言われています。
怨みに報ゆるに徳を以てすとは、ひどい目にあって怨みを抱くような相手であっても、仕返しをするのではなく、 許しの心で、あたたかく接するべきである、という意味です。