昭和20年8月の終戦を迎えたとき、北朝鮮に滞在していた日本人家族。ソ連兵が突然、蜂屋さんの家にきて、スパイの疑いで逮捕すると言われました。
妻には、「何かの間違えだから必ず帰ってくるから、心配しなくていい」と言い残して、そのまま連行されてしまいました。
生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、その奥さんは日本に引き揚げましたが、夫から、必ず帰ってくるという言葉を信じて、再婚もせずに、子供を育て上げて、なんと51年間待ち続けました。
平成9年、51年ぶりに日本に帰国した蜂谷 彌三郎さんは、ソ連での生活を次のように振り返りました。
「雲をつかむような微かな希望でしたが、生きてさえすれば必ず帰れるかもしれない、もし死んだとしても、日本人の恥になってはいけない、と心がけていました。
服役中は、終始一貫無実を主張しました。しかし、無実を主張すればするほど、ますます、疑惑が生まれ、執拗に取り調べを受けました。
KGBの厳しい取り調べに、時折日本人としての心の拠り所を失い、挫折しそうになりました。
そんな時は毛布を被り、小声で何回も教育勅語を唱えました。すると日本人としての気概がふつふつと蘇ってきました。
教育勅語と五箇条のご誓文は毎朝、毎晩唱えることにしていましたが、一日に何十回繰り返したこともあります。
収容所を出て以降は、日本語を話す人は誰一人いない中、日本語を忘れてしまたら、日本人で無くなると漢字の書き取りもしました。
今日は木編の字、次の日は言編の字、という具合に100字ずつ、書きました。
教育勅語と五箇条の御誓文は月に一度、必ず清書しました。
日本の歌もたくさん歌いました。童謡や唱歌、謡曲など覚えていた日本の歌を毎日、林の中で2時間も3時間も歌っていました。
そうすると辛いことがあっても心が落ち着きました。」
蜂谷 彌三郎さんは、決してエリートではありませんでした。ごく一般の庶民でしたが、教育勅語を空で言うことができ、筆記することができました。
戦前の日本人にとって、教育勅語は、それほどまでに心の強い柱となっていたのです。
そのような教育勅語は、どのようにして作られていったのでしょうか?
岩倉使節団が欧米列強に訪問しましたが、日本と比べ比較にならないほど、文明が発達している現状を目の当たりにします。
どうしたら、日本が、この進んだ欧米の文明国家と肩を並べることができるのか、と岩倉使節団の参加者たちは、毎日激論しました。
明治の新政府は、江戸時代の学校教科書を全て廃棄して、新しく教科書を作りました。それは全て、米国やイギリス、フランスなどの欧米列強の学校で使っている教科書の翻訳本でした。
なぜ、そのように極端に外国の翻訳本を使おうとしたのかと言うと、過去の江戸幕府の権威の破壊を行うという目的もありますし、
また、あまりにもかけ離れてしまった欧米列強との産業格差を早く埋めるために、その文明国の真似をして殖産工業をして行こうという考えがあったからです。
そして、初代文部大臣となった森 有礼(もり ありのり)らが、日本が遅れているのは、日本語を使っているからだとして、
日本の公用語を英語にしようと言う意見も出て(国語外国語化論)、学校教育でも英語を熱心に教えるようになりました。
明治天皇が、地方の生活の実態を知るために、まだ鉄道が敷かれていない時代に、日本諸国を御巡幸に回られました。
その際、ある小学校の授業参観をされました。そこでは英語の授業を行っていましたが、天皇陛下が、その子供に次のような質問しました。
「今話した英語は、日本語ではどう言う意味なの?」
その質問された子供は答えられませんせした。
英語を学ぶ前に日本語が理解できていないことを、陛下は心配されました。
また、次のように質問されました。
「君は将来、どのような人になりたいの?」
すると、質問された子供は、「田舎の百姓にはなりたくないので、東京に出て出世したい」とか
「親が大工をやっているが、そのような仕事に就きたくないので、知識を身につけて出世したい」といったような答えが返ってきました。
自分の親の仕事を軽蔑して、また、自分の生まれ育った故郷を離れ、立身出世することを目的にすることが、本当の教育であろうかという疑問が発せられました。
明治天皇の御巡幸に御付きで同行していた、元田 永孚(もとだ ながざね)は次のように語りました。
「明治維新以来、教育の趣旨定まらず、国民の方向ほとんど支離滅裂にいたらんとす」
このままで行ったら、日本は終わっていたかもしれません。
明治天皇は、教育の本末が失われていると憂いました。
確かに欧米列強の真似をして追いかけることは必要だけれども、本末が転倒しているのではないかと憂いていました。
平成13年、明治神宮鎮座80周年祭に際して、皇后陛下の御歌
「外国(とつくに)の風を招きつつ、国柱(くにはしら)太しくあれと守り給ひき」
これは、明治維新の後,明治天皇が広く世界の叡智に学ぶことを奨励なさると共に,日本古来の思想や習慣を重んじられ,国の基を大切にお守りになったことへの崇敬をお詠みになった御歌です。
続く
(参考図書:「望郷 (二つの国 二つの愛に生きて)」 蜂谷 彌三郎 著 致知出版、「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版)