教育勅語の成り立ち2 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

 

 

教育勅語の成り立ちについて(続き) 

 

第1次山縣内閣の下で文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。

 

この草案を閣議決定をするために、内閣法制局長官だった井上毅(こわし)に意見を求めました。

 

井上毅(こわし)は、「この勅語は、陛下のお言葉によるものでなければならない。このようなキリスト教色の強い、学者の書いたような文言では、誰も感激しない」と言って、中村正直の書いた草案を猛反対しました。

 

そこで、山縣は、では井上毅(こわし)が草案を書いてくれと頼み、教育勅語を作成しました。

 

教育勅語を作成した、井上毅(こわし)とはどのような人物だったのでしょうか?

 

井上毅(こわし)は鎖国論者でして、儒教ばかり勉強していましたが、このままではいけないと考えを改め、フランス後を猛勉強しました。

 

欧米列強の文明を日本に取り入れる際、日本にとってどのような副作用があるかを常に考えた。西欧文明をそのまま受け入れるのではなく、日本人にあった形で咀嚼して取り入れる事を重視しました。

 

井上毅(こわし)は、ただ横文字を縦文字に直すだけの学者を軽蔑しました。

日本の伝統風俗にあった形で直す必要があると主張しました。

 

伊藤博文とともに明治憲法の作成に取り掛かりました。そのために、国学の勉強を一から始めました。国学とは古事記、日本書紀です。

 

東京帝国大学の教授であり国学者であった、小中村 清矩(こなかむら きよのり)の婿養子の池辺 義象(いけべ よしかた)を助手として使いました。

 

古事記の中の国譲りの話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者として、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に対して、出雲国を譲ってほしいと言われた。

 

その時、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に次のように言いました。

 

「天照大御神の命もちての使せり。汝(な)が”領(うしは)け”る葦原の中つ国に、我(あ)が御子の”知らさむ”国と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに。」

 

”領(うしは)け”(ウシハク)とは、中国の皇帝のような、力でその土地を支配する事であり、主人が私的に支配するという統治の形態のことをいいます。

 

シナ、ヨーロッパでは、一人の豪傑が現れて多くの土地を占領して、一つの政府を立てて、征服して支配する国家を形成します。

 

一方、”知らさむ”(しらす)とは、天皇という最高権威のもとに、民衆を「大御宝(おおみたから)」とすることにより、民衆自身が権力者からの自由を得るという統治形態を言います。

 

自分の心を鏡のようにして、自分の心を無にして、国民の現状を写す、神々の心を写す、つまり、君(皇室)と民(国民)とが一体である、君徳に基づくものであります。

 

”シラス”の国家成立の原理は君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始まりは君徳にあり、という事であります。

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)の統治手法は、”ウシハク”でしたので、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、”シラス”の統治手法によって国を納める事にしました。

 

続く

 

(参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版、「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著 産経新聞社)