毛沢東が触れようとしなかった”南京大虐殺” | 誇りが育つ日本の歴史

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毛沢東は生前、なぜ、”南京大虐殺”に触れようとしなかったのでしょうか?

 

実は、日本軍が南京を陥落したとき、中国奥地の延安という場所に潜んでおり、日本軍と戦った事実がないことがバレるのを恐れたからです。

 

昭和12年12月13日に南京が日本軍により陥落しました。
 

その直前の12月7日、蒋介石夫妻やドイツ人軍事顧問らは、米軍パイロットの飛行機により南京を脱出し、重慶に国民党政府の新首都を置きました。

 

その頃、毛沢東はどこで何をしていたのでしょうか?

 

毛沢東の行動を記録した「毛沢東年表」には、「南京失陥(陥落のこと)」というたった4文字しか記載がありません。
(「毛沢東年表」中共中央文献研究室編纂)

 

毛沢東共産党軍(八路軍)は、ほとんど抗日戦には参戦せず、宣伝工作に力を入れて、人民の赤化(共産化)を積極的に行なっていました。

 

毛沢東の狙いは一つ、中国統一です。

 

そのためには、中国大陸における正規軍である蒋介石国民党軍に勝利しなくてはなりません。

 

しかし、貧弱な軍隊しか持っていない八路軍にとって、厳しい現実でした。

そこで、毛沢東はコミンテルンから提案を受けました。

 

それは、蒋介石国民党軍と日本軍を戦わせ、日本軍が中国大陸から敗退したあと、消耗した国民党軍を打ちのめす、というシナリオです。

 

そのために、毛沢東は、まず、国民党の張学良を共産党に寝返るように工作します。

 

周恩来や潘漢年(はん・かんねん)を送り込み、「共に抗日統一戦線を組もうではないか。中華民国の誇りを取り戻すのだ」と説得し「抗日救国(一致団結して抗日に力を注ぎ、国を救おう)」を訴えました。

張学良は、共産主義にかけてみようと思いました。そして、10月29日、張学良は、ある計画を毛沢東の秘密連絡係の葉剣英(よう けんえい)に伝えました。

それは、蒋介石を拉致監禁するというものでした。

毛沢東は、蒋介石亡き後は、張学良を中国の元首にすると約束し、この張学良による拉致計画を煽りました。

 

その一方、毛沢東はスターリンにこの拉致計画について打電するのを控えました。
なぜなら、スターリンから反対されることが予想されたからです。

 

コミンテルンの計画は、日本軍と蒋介石の国民党軍を互いに戦わせて、日本軍が大陸から撤退したのちに、疲弊し切った国民党軍と共産党軍が戦い、この内戦に勝利した共産党軍が、中国を統一すると言うシナリオでした。

 

蒋介石を拉致して殺害してしまったら、このシナリオが成り立たなくなってしまうのです。



ソ連の諜報機関近いアレクサンドル・チトフは、「蒋介石を拘束する問題が、昭和11年(1936年)11月に葉剣英と張学良の間で話し合われた」と記録を残しています。

蒋介石は、紅軍(中国共産党)を殲滅するために長年戦っていました。(北伐)

「攘外先安内(国内を安定させてから外敵(日本など)を撃ち払う)」という中華民族統一の戦略を持っていて、とうとう最後の一歩のところまで追い詰めることができました。

しかし、西安にいた張学良が、紅軍(中国共産党軍)との最後の戦いに対し、軍事行動を起こさなかったことに蒋介石は激怒し、昭和11年12月4日、数人の部下だけ引き連れて蒋介石は西安に向かいました。

周りのものは止めましたが、蒋介石は大丈夫と言って、張学良の元に向かいました。

昭和11年(1936年)12月12日早朝、張学良の兵士である実行部隊400名が、蒋介石の宿泊していた温泉保養地、華清池の宿舎を襲撃します。蒋介石の護衛兵10数名が応戦しますが多数射殺されました。

蒋介石は窓から外に飛び降り裏手の山に逃げ隠れていましたが、寝間着一枚姿で岩の割れ目に潜んでいるところを見つかってしまいました。その逃げる際、入れ歯を落としてしまいました。

蒋介石は張学良に捕まり、拉致監禁されてしまいました。(西安事件)

張学良は8項目の要求を蒋介石に突きつけ、それを承諾すれば解放してやると脅迫しますが、蒋介石は全て拒否。

12月12日、毛沢東はモスクワに次のような電報を打電しました。「南京政府が蒋介石を罷免して人民裁判に付すことを要求」したいと。

一方、張学良には「最善の選択肢は、蒋介石の殺害です」と打電しました。

12月13日、南京政府の行政院長の孔 祥熙(こう・しょうき)(蒋介石の義理の兄)が、南京のソ連大使を呼び、「万が一、蒋介石に危険が及んだら、中国国民の怒りは中国共産党だけでなくソ連にも及び、日本と手を組んでソ連を攻撃する事態になるだろう」と警告しました。

 

12月14日、ソ連の2大新聞「プラウダ」と「イズベスチャ」がその一面に、「張学良の行動は、日本に利益を与えるものである」と論表を書き、蒋介石支持を明らかにしました。

張学良は、ソ連の支持を得られないということは、蒋介石を拉致監禁したのは失敗だったということに気づきました。

なぜなら、ソ連を無視して毛沢東の言う通りに蒋介石を殺してしまったら、南京政府(国民党軍)と日本軍が張学良と毛沢東の紅軍に対し、軍事行動を起こして戦闘になってしまうからです。

そして、毛沢東の紅軍はほとんど軍事的な戦力を持っていないので、殲滅させられるのは目に見えていました。

張学良は拉致監禁した蒋介石の元へ訪れ、次のように言って泣き崩れました。

「愚かで軽率な行動を取ってしまったと悟りました。あなたを解放させてください。ただし秘密裏にと。」

毛沢東は側近の周恩来を西安に送ります。そして「最後の手段」(殺害)を張学良に実行させるように指示しました。

12月15日毛沢東は、周恩来がそちらに向かうので、延安まで迎えに来て欲しいと打電しますが、張学良は無視。

張学良は、ソ連が支持しないことを知り、毛沢東に裏切られたと感じたのです。

12月16日、コミンテルン書記長ディミトロフは、毛沢東に次のような電報を打電しました。

「客観的に抗日統一戦線を害するのみであり、中国に対する日本の侵略に利益を与えるのみである。」

「中国共産党は、平和的解決に向けて断固たる立場を取らなければならない」という内容で、これは蒋介石を解放せよ、という命令でした。

蒋介石の殺害計画を指示していた毛沢東は、怒りを抑えきれなくなって地団駄を踏みました。

12月16日、南京政府軍(国民党軍)が西安に向けて、張学良討伐を宣言しますが、蒋介石は自重するようにメッセージを送りました。

12月20日に宗子文(蒋介石の義理の兄)が西安に入り、2日後の12月22日に、蒋介石が入れ歯をなくしたのでまともに話せないというので、蒋介石夫人である宋美齢とが西安入りしました。

そこで宋美齢は臆することなく、有利となるように交渉しました。

それは、夫が首を切られることよりも、ソ連共産主義に方針転換することを選び、その代わりに夫や自分(宗家ファミリー)の財産は没収しないことというものでした。

これは、共産主義化したら、富裕層の財産は没収されてしまうので、宋美齢と姉で孫文の妻だった宋慶齢と姉の宋靄齢、宗家3姉妹の財産は特別扱いにして、財産を没収しないことを約束させたのです。

毛沢東が中国統一した後も、この約束は守られました。

それから夫が中国大陸で「メンツ」を保つことができるように時間を与えることというものでした。

毛沢東は、西安に派遣した側近の周恩来と、蒋介石が会談することを要求しました。

なぜなら、中国の正式な政府として国内外に認められている国民党政府の代表である蒋介石と、

当時はまだ地方のゲリラ部隊に過ぎなかった毛沢東共産党の側近である周恩来が、対等に会談したとなると、

中国共産党は、それまでの”共匪”(ゲリラ部隊)から、国政の舞台での正式な政党として格上げされると言うことを意味していたからです。

蒋介石は、周恩来との会談を拒否していましたが、モスクワに人質にされている、息子の蒋経国を南京に帰国させることを、会談の条件に出しました。


12月24日の夜、周恩来が蒋介石の元を訪れ、「ご子息は帰国されるでしょう」とスターリンからのメッセージを伝えました。

交渉が全て終わったあと、蒋介石は威厳に満ち、何も言わず約束もせず、無条件解放を要求したと世界が報道しました。これにより、メンツは保たれました。

12月26日、蒋介石と宋美齢は、南京に戻ることができました。

無事に蒋介石が戻ってきた南京では、「蒋介石万歳!」「中華民国万歳!」と人民が叫び、爆竹が鳴り続きました。

 

この合意により、毛沢東の八路軍と戦闘することを止め、抗日戦に共に戦うということになりました。(国共合作)

 

蒋介石は、あともう少しで、中国共産党軍を殲滅することができたのに、西安事件により、中共を攻撃することができなくなってしまいました。

 

しかも、莫大な軍事資金援助を中共にすることで、壊滅寸前であった中共軍の軍備拡大を援助しなければならなくなってしまったのです。

 

もし、西安事件がなければ、中国共産党はこの世からなくなっていたかもしれません。

 

「日本切腹中国介錯論」を書いた、当時北京大学教授だった胡 適(こ てき)氏は次のように語っていました。

 

「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と。

 

これにより、毛沢東は蒋介石と戦闘をし、戦力を消耗する危険がなくなり、ひたすら共産党軍の軍備増強と、中国人民の赤化政策に専念できるようになりました。

 

さらに、昭和12年(1937年)、毛沢東は、蒋介石に毎月20万元から30万元の軍事費の支払い要求までしています。

 

これは昭和12年当時の上海の一般労働者の2050年分の年俸に相当します。このような莫大な金額を毛沢東は、蒋介石を拉致監禁することにより、手に入れることに成功しました。

 

「日本軍との正面衝突を避けよ、我々の主要な任務は八路軍(共産党軍)の軍備拡大であり、いたずらに軍備を消耗するようなことをしないこと、後方のゲリラ戦に徹して、決して前線に立って抗日の英雄になってはならない。」

というような事を、毛沢東は部下に厳命しました。
(「我が回想」張国壽)

 

蒋介石が、大々的に真正面から抗日戦をやっている間、毛沢東は、小さなゲリラ戦をやって、それを大きく中国人民に向けて宣伝する。

 

それにより、軍備を消耗することをせずに拡大させて、なおかつ、中国人民に対して中国共産党軍がいかに素晴らしい軍隊であるかということを浸透させるという戦略でした。

 

そして、その共産党思想に洗脳するための宣伝費として、蒋介石から抗日戦のためとして要求した軍事費が充当されました。

(「剿匪(しょうひ)戦史」蒋介石著 国防部史政局)

 

昭和12年(1937年)朱徳が引率した八路軍の幹部に対し、毛沢東は次のように極秘指示しました。

 

「70%は我が党の発展のために使い、20%は国民党との妥協のために使う。残りの10%だけを抗日戦に使う。」

 

つまり、蒋介石と共に抗日戦に団結して戦おうと協定を結んだにもかかわらず、それは建前であり、実は、日本軍と戦うつもりはほとんどなく、その先に待っている蒋介石との戦いのために、備えていたということになります。

 

毛沢東は、中国統一のために3段階にシナリオを作っていました。

 

第一段階:国民党との妥協段階
表面上はあたかも国民党政府に服従しているように見せかける。

 

第二段階:競争段階
2、3年かけて政治力と軍備力を拡張し、国民党政府に対抗し壊滅できるまで、継続する。

 

第3段階:進撃段階
国民党軍の各地区の交通手段を寸断し、孤立して連携できないようにする。そして、最後に国民党から指導的地位を奪う。

(「剿匪(しょうひ)戦史」蒋介石著 国防部史政局)
(「中共党的策略路線」張浩之講演原稿付録 司法行政部調査局)
(「対日抗戦期間中共統戦策略の研究」梅良眉氏著)

 

この現場にいた、李法卿(り・ほうきょう)八路軍幹部が、後ほど、その内容を口外しました。

 

八路軍はゲリラ戦に徹するといっても、一度、日本軍と正面から大規模に戦闘したことがありました。

 

昭和15年(1940年)8月、山西省・河北省周辺一帯で起きた戦闘で、八路軍が、40万人という大規模な兵隊が正面から攻撃して戦い、日本軍の補給路に大打撃を与え、日本兵276名が戦死するというものでした。(百団大戦)

 

対支那派遣軍司令官となる岡村寧次大将は、八路軍が以外にも強かったので、その指揮した彭徳懐(ほう・とくかい)を高く評価しました。

 

しかし、毛沢東は、彭徳懐を激しく非難。その理由は、いたずらに軍備を消耗させたことと、八路軍が強いと日本軍が認識してしまうと、今度は、八路軍を徹底的に殲滅しようと、日本軍が本気になってしまう恐れがあるためでした。

 

このような徹底した戦略により、毛沢東はシナリオ通り、昭和24年(1949年)10月1日、中国統一を果たしました。

 

毛沢東が生きていた時代、中国人民には次のように刷り込まれていました。

 

「抗日戦争を戦ったのは勇猛な八路軍や新4軍(後の人民解放軍)であり、国民党軍(蒋介石)は山に逃げ、特に蒋介石は日本敗戦の後、初めて山から降りてきて、国共内戦(毛沢東と蒋介石との内戦)を始めた。」と。

 

「毛沢東は神のごとく神聖で偉大であり、蒋介石は日中戦争において戦わなかった売国奴である」と骨の髄まで染み渡るほど徹底的に刷り込まれている中国人民。

 

このように中国人民に対して、宣伝(プロパガンダ)してきたので、”南京大虐殺”があったとして公開されてしまうと、毛沢東にとって非常に都合が悪いことになってしまうのです。

 

なぜなら、実は、日本軍が南京に侵攻し陥落した昭和12年12月13日、毛沢東八路軍は、中国奥地の延安におり、日本軍と戦闘した事実がなかったからです。

 

そして、実際に日本軍と戦闘をしていたのは、蒋介石率いる国民党軍であった、と中国人民に知られてしまったら、中国共産党の建国の歴史が根底から崩れ去ってしまう恐れがあるのです。

 

それを恐れて、毛沢東は、”南京大虐殺”という言葉を一度も口にしたことがなく、中学校の歴史教科書にも記載させたことがありませんでした。

 

ここで、疑問に思う人がいるかもしれません。

 

それは東京裁判で、”南京大虐殺”の事実があったとして、B級戦犯として処刑された人がいるではないかと。

 

東京裁判が行われていた昭和21年(1946年)から昭和23年(1948年)、連合国の一員であったのは、蒋介石国民党政府(中華民国)であり、毛沢東率いる中国共産党ではありません。

 

さらに当初の国連の常任理事国は、米国、ソ連、フランス、イギリス、中華民国でした。

 

中国共産党は国連の常任理事国にも入っていませんでした。

 

ですので、日中戦争当時に、蒋介石が行った宣伝(プロパガンダ)に基づいて東京裁判が行われ、南京大虐殺があったとして、一方的に戦犯を祭り上げて、処刑までしてしまったのです。

 

1958年版の中国の「中学歴史教師指導要領」の中の「中学歴史大事年表」の1937年には単に、「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」としか記載がありません。

 

その一方、1927年には「412大虐殺」と記載があります。
 

412大虐殺とは、蒋介石が共産党員やそのシンパたちを殺害した事件で、死者120人負傷者180人でした。

 

”南京大虐殺”という言葉が、教科書に登場するよになったのは、毛沢東が死去した、昭和51年(1976年)以降になります。

 

南京大学の高興祖教授が南京大虐殺のテーマで本を出版しようとしましたが、外部に出版することを禁じられました。

 

毛沢東は南京に20数回訪問していますが、一度も”南京大虐殺”という言葉を発言していませんでした。

 

また、毛沢東は、現在、中国全土に100以上ある:南京大虐殺”記念館を、一つも建設しませんでした。

 

その一方で、1956年に、南京太平天国歴史博物館を建設しました。

 

この太平天国とは、皇紀2511年(西暦1851年)1月、清王朝の反乱軍である太平天国軍が首都南京に侵攻した際、100万人以上の大虐殺を行ったという歴史的事実を展示する記念館です。

 

この反乱で、中国全土で2、000万人から5、000万人もの犠牲者が出たと言われています。(太平天国の乱)

 

ここまで徹底して、”南京大虐殺”を封印してきた毛沢東。
 

中国人民もこの事実を不思議に思い、中国のインターネットサイトでは、この話題で賑わっているようです。

 

平成27年(2015年)9月3日、中国共産党は、抗日戦勝利70周年記念祝賀パレードを北京で大々的に行いました。

 

これは,中国人民に対する宣伝(プロパガンダ)であり、日本を含めた海外に対しての宣伝(プロパガンダ)でした。

 

中国共産党は、あくまでも日本軍と戦って勝利したという嘘の宣伝(プロパガンダ)を続けていかなくてはならないのです。

 

なぜなら、中国人民が本当の事実を知ってしまったら、中国共産党の建国の歴史が根底から崩れ去ってしまうからです。

  (参考図書:「毛沢東ー日本軍と共謀した男ー」新潮社 遠藤誉著、
「中国の戦争宣伝の内幕」ヴィンセント・ウイリアムズ著

「マオ 誰も知らなかった毛沢東」ユン・チアン ジョン・ハリディ共著)