南京大虐殺のプロパガンダで使われた嘘の証言、マギーフィルム  | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

昭和12年12月13日南京が日本軍により陥落。

 

そして、真っ先に中国人に銃口を向けたのは日本軍ではなく、実は、中国軍だったのです。

 

以下は、その当時の南京を守備していた、元中国軍兵士の証言を多数掲載した本(「南京大虐殺全記録」何建明著)の内容となります。

著者である何建明は、中国作家協会副主席を勤めている、中国では部長級の高官になります。

 

「南京を守備していた中国軍は国民党軍であり15万人いましたが、2万人が戦死し、残りの13万人が戦わずに逃げ回りました。

 

指揮官たちが真っ先に逃げてしまったので、残された軍隊の指揮命令系統が完全に麻痺してしまいました。

 

撤退命令を受けていない兵士と、受けたという兵士の間で、激戦が繰り広げられました。

 

(同じ国民党軍の内部で戦闘状態となったのです。)

 

戦場は唯一の通行口である南京城の城門で行われました。
ここでは5、000人以上の兵士と平民が命を落としましました。

 

人々は命かかがら別の場所から逃げ出して、ようやく揚子江のあたりまで辿り着いたが、対岸まで運ぶ船は、2、3隻しかなかった。
そこでまた、熾烈な血まみれの奪い合いが始まったのだ。

 

他人を船から川に突き落とす者、川に落ちて上がれず船の縁を掴む者、定員オーバーのため船が転覆して大声で助けを求める者、

 

机や椅子などにつかまりながら川の中であがく者など、死を恐る人たちは、手段を選ばずに必死に避難している。

 

もっとも残忍なのは、船に乗れなかった兵士たちが、離れていく船上の人たちを狂った野獣のように機関銃で掃射し、おびただしい人を死なせたことである。

 

川一面に死体が浮かび、血の海と化した。死者の数は数万人に上ると推測される。

 

この血なまぐさい中国人同士の殺し合いをどう解釈すればいいのか、筆者にはわからない。困惑と怒りを感じるだけだ。」
(「ついに中国で始まった大崩壊の真実」邱 海涛 著)(一部追加)

 

マギーフィルムというものがあります。

 

これは、ジョン・ギレスピー・マギー牧師が、南京が陥落した後、当時の様子を16ミリフィルムに収めた映像を元に、解説した文字を途中に挿入したフィルムとなります。

 

このフィルムは4部コピーされ、ジョージ・アシュモア・フィッチらが、昭和13年(1938年)4月にそのコピーを持って渡米し、ロサンゼルスを皮切りに全米各地で映写会を開いていきました。

 

ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されました。

その目的は、日本軍の蛮行を訴えることでした。

 

ハロルド・J・ティンパーリとジョージ・アシュモア・フィッチは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争とは何か-中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を共著で出版しました。

 

また、ハロルド・J・ティンパーリは、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣伝処の顧問を務めていました。

 

ジョージ・アシュモア・フィッチは、第二次上海事変の後、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典(昭和7年4月29日)で、その会場に爆弾を投げ、

 

爆弾テロを行ったテロリスト、尹奉吉を、自身の運転する自動車で会場まで送迎したことがありました。(上海天長節爆弾事件)

 

この事件は、大韓民国臨時政府の首班の金九の指示で尹奉吉を使い行われた爆弾テロでした。

 

ワシントンでは国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、新聞記者などの報道関係者にもフィルムを見せています。

このフィルムは、昭和13年(1938年)5月16日の「LIFE」誌においても紹介された。

 

このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、反日世論の醸成と中国に対する同情論の醸成に、大きな威力を発揮しました。

 

終戦後の東京裁判で、マギー牧師は証人として発言しました。

2日間に渡る証言に対し、日本陸軍の松井石根被告の弁護人であるブルックス弁護士が、反対質問しました。

 

「現行犯をご覧になったことがありますか?」

 

とブルックス弁護士が問いつめると、二日にわたって証言したことは全部ウソで、結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になりました。

 

さらに、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれています。(滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997))

 

また、東京裁判では、マギーフィルムは証拠として提出されることはありませんでした。

 

証拠として採用されないようなフィルムによって、米国世論は、反日に傾き、中国に同情するようになっていったのです。

 

その宣伝効果は抜群でした。

 

この反日の米国世論が、対日経済制裁となり、その後の日米開戦へと大きく誘導されていったのです。

 

このプロパガンダで日本が被った損害はどれほどあったことでしょう。

松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、マギー牧師の証言は嘘であったにもかかわらず、東京裁判でB級戦犯として処刑されてしまいした。

 

このマギーフィルムに映し出されている映像は、多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っています。

 

幼い子供や女性は、日本軍の暴行を受けたと字幕の説明がされていますが、実際にその証拠となる映像がありません。

 

虐殺場面とされる映像については、字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないので、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが明らかではありません。

 

先ほどの当時の南京を守備していた、元中国軍兵士の証言では、

「もっとも残忍なのは、船に乗れなかった兵士たちが、離れていく船上の人たちを狂った野獣のように機関銃で掃射し、おびただしい人を死なせたことである。

川一面に死体が浮かび、血の海と化した。死者の数は数万人に上ると推測される。」
(「ついに中国で始まった大崩壊の真実」邱 海涛 著)

 

とありますので、マギーフィルムに映し出されている川岸の遺体は、この時のものかもしれません。

 

この東京裁判で証拠として使われなかったようなマギーフィルムは、平成27年(2015年)に南京大虐殺が、ユネスコ世界記憶遺産に登録された際の証拠資料として採用されました。