張作霖爆破事件の真の主犯者は? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

昭和3年(1928年)6月4日、東清鉄道(のちの満州鉄道)皇姑屯付近で、列車に乗っていた張作霖が爆殺される事件が起きました。
(張作霖爆殺事件)(皇姑屯事件)

 

この事件は、関東軍(日本軍)の河本大佐らの犯行であると言うのが定説ですが、本当でしょうか?

 

馬賊出身の張作霖は、日露戦争で日本に協力したため、日本の庇護を受け、関東軍による支援の下、満洲での実効支配を確立していました。

 

張作霖は、満州だけでは飽き足らず、中国大陸を南下していきます。

 

1927年4月、張作霖は、北京のソビエト連邦大使館を襲撃したため
、中華民国(北京政府)とソ連の国交は断絶。

 

昭和3年(1928年)4月、蒋介石国民党軍は、欧米の支援を得て、再度の北伐(共産党軍や中華民国北京政府との戦い)をおこなう。

 

昭和3年(1928年)6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である満州の奉天(現在の瀋陽)へ列車で移動する。

この移動中に、爆破事件が起きました。

 

1つ目の犯行説は、関東軍(日本軍)犯行説です。

 

事件当時の田中義一首相は、陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出します。

 

その一方、関東軍は、軍閥を通した間接統治には限界があるので、傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。

 

その際、「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出しました。

 

昭和3年4月19日、国民党軍による北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定。
 

昭和3年5月3日、済南事件が起こりました。

済南事件とは、中国山東省の済南における、国民革命軍により日本人が襲撃された事件です。

 

日本人居留民を保護するために日本は軍隊を派遣し、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍との間に武力衝突が起きました。

 

日本の参謀本部によれば、日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。

 

当時の朝日新聞は「邦人虐殺数280」と報じた
(小池聖一「済南事件」『世界戦争犯罪辞典』文藝春秋 )

 

日本人惨殺状況に関する外務省公電には、
「腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、

 

顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、

 

全身腐乱し居れるもの各1、
陰茎を切り落としたるもの2」
とあります。
(昭和3年5月9日、田中外相宛西田領事報告。中村粲『大東亜戦争への道』)

 

日本は軍隊を満州に派遣し、蒋介石と張作霖の両軍に対し、もし、満州に侵入したら、両軍共に武装解除を行うと通達しました。

 

村岡長太郎関東軍司令官は、国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍(張作霖)の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していました。

 

しかし、田中首相は、出兵を認めないことを決定。
そこで、村岡司令官は、張作霖の暗殺を決意。

 

河本大作大佐は、初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに全責任をもって決行したという。

 

2つ目の犯行説は、息子の張学良主犯説です。

 

事件当時、駐中国公使だったジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー(John Van Antwerp MacMurray)は次のように述べています。

張学良は、父の張作霖との関係がうまくいっていなかった。

 

その一方で、日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、どうしようもない状態ではなかった。

 

日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている。
(ジョン・マクマリー『平和はいかに失われたか』)

 

このジョン・マクマリー駐中国公使は、昭和10年(1935年)11月、米国国務省極東部長スタンレーホーンベックに対し、次のような報告書を提出しました。

 

「日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないであろう。

 

それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に変わって極東支配のための敵対者として現れることを即すに過ぎないであろう。

 

こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。」と。

 

マクマレーは、日本の脅威よりもソ連の脅威を警戒していました。

 

日本に対して経済制裁を行なって日本に圧力をかけ、その後、日本と戦争をして勝利したとしても、米国の国益にとってマイナスとなるだけであると、日米開戦の6年前である昭和10年の時点で主張していました。

 

スタンレーホーンベックは、このジョン・マクマリーからの報告書を破棄してしまいました。

 

彼のアシスタントとして働いていた人で、アルジャー・ヒスという人物がいます。このアルジャー・ヒスはコミンテルンのスパイでした。
アルジャー・ヒスにとって、このジョン・マクマリー駐中国大使の報告書は都合が悪い内容でした。

 

なぜなら、アルジャー・ヒスのコミンテルンから与えられた役割は、日米開戦を実現することでした。

 

そのために、まず米国の政府高官達に信頼されるように活動していたのです。
そして、のちにルーズベルト民主党代表の側近にまで上りつめます。

 

アルジャー・ヒスにとって、何としても日米で戦争を起こさせなくてはなりませんでしたので、スタンレーホーンベックに対し、ジョン・マクマリー駐中国大使の報告書を握り潰すように、スパイとして誘導したのでしょう。

 

ジョン・マクマリー駐中国大使が、昭和10年に懸念していた通り、昭和20年に米国が日本に勝利したのち、中国に共産党国家が樹立。また、朝鮮半島の北半分も共産主義国家となりました。

 

もし、このジョン・マクマリー駐中国大使の報告書が、ルーズベルト大統領に届いていたら、どうなっていたでしょうか?

 

しかし、すでに米国民主党内には、アルジャー・ヒスを筆頭に、コミンテルンスパイ達が活発に活動していたのです。

 

話を張作霖爆破事件に戻します。

 

3つ目の犯行説は、ソ連の特務機関犯行説です。

 

張作霖殺害は、ソ連の特務機関が関与しており、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものである。
(『GRU帝国』2000年 ドミトリー・プロホロフ著)

 

GRUとは、ソ連軍参謀本部情報総局の略称で、当時は、労農赤軍情報局。現在も存続している機関。

 

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、多くの日本人がソ連によって、偽証させられたと述べた。

 

ナウム・エイチンゴンはソ連諜報員。
当時、満州で国民党に捕まったソビエト軍事顧問団の解放、国民党による在上海ソ連領事館奪取の阻止に働いた。秘密警察である統合国家政治局(OGPU)全権代表など歴任。

 

日本の支援で満州を支配していました張作霖は、
大正13年(1924年)9月、ソ連政府は張作霖と「中国東北鉄道条約」を締結し友好関係を結んでいました。(『GRU帝国』2000年 ドミトリー・プロホロフ著)

 

中国東北鉄道条約(奉ソ協定)とは、奉天軍閥政府(中華民国の軍閥で、総帥は張作霖と張学良)とソ連との間で締結された条約であり、東清鉄道(1935年に満州国国鉄に吸収合併)に対する、ソ連の利権を再確認したものです。

 

大正14年(1925年)8月に、張作霖は東清鉄道の司法権と教育施設の接収し、実効支配したが、

 

張作霖軍の鉄道代金未納が1400万ルーブルに及んだ為に、ソ連政府が鉄道使用禁止を通達。

 

昭和元年(1926年)1月11日、張作霖は、ソ連人の鉄道管理官である東清鉄道工会主席シェシコフを逮捕してしまいました。

 

これら張作霖の反ソ的な姿勢に加え、ソ連が支援した対中国国民党に対する軍事行動に失敗したことから、

 

昭和元年(1926年)9月、フリストフォル・サルヌインが、張作霖の暗殺計画を立案し、

 

特務機関のレオニード・ブルラコフ(赤軍情報局第5課所属。当時は東清鉄道の電気技師に偽装)らの実行部隊により、奉天にある張作霖の宮殿に、地雷を敷設して爆殺する予定でした。

 

しかし、ブルラコフらが逮捕されたため、この計画は失敗に終わりました。

 

昭和3年(1928年)に、反ソ、反共の満州共和国創設を、張作霖と日本政府が協議したことから、ソ連特務機関は、再度、暗殺計画を立案し、実行責任者としてナウム・エイチンゴンを任命し爆殺に成功しました。

 

張作霖の隣に呉俊陞が座り、その隣に儀我誠也が座って会談していた時に、爆破事件に遭遇。
(『東京日日新聞』昭和3年(1928年)6月5日付夕刊、一面)

 

呉俊陞は、中華民国(北京政府)の人で、国民党(蒋介石)の北伐軍に敗北して、逃走する張作霖に同行していて、張作霖とともに死亡。

 

儀我 誠也(ぎが せいや)陸軍少将は、陸軍士官学校を石原莞爾と同期(21期)で卒業した後、ハルビン特務機関などを歴任し、張作霖政権に軍事顧問として派遣されていました。

 

儀我誠也陸軍少将は無事でした。

 

この時、イヴァン・ヴィナロフは、張作霖の乗っていた車両の隣の客車に乗っていました。

 

イヴァン・ヴィナロフは、ブルガリア人でソ連に亡命したスパイ。フリストフォル・サルヌインのグループで、軍事情報問題顧問として中国で働き中国共産党を援助しました。

 

グループの連絡は、在北京及び在ハルビンのソ連代表部で暗号係として働いていた妻のガリーナ・レヴェジェワが担当しました。

 

フリストフォル・サルヌインは、当時、米国籍クリストファー・ラウベルグという偽名を使って中国に滞在、コードネーム「オシプ」というソ連スパイでした。

 

3つの犯行説がありますが、どれも確証がありません。
日本の教科書やセンター試験などでは、一つ目の関東軍(日本軍)犯行説が定説となっています。