明治17年(1884年)12月4日、朝鮮半島で暴動が起きました。(甲申の政変(こうしんのせいへん))
閔妃をはじめとする李氏朝鮮政府首脳(閔氏一族)は、清への事大主義政策をとっており、その事大政策に抵抗して、日本と通じる金玉均ら開化派(独立党)が起こしたクーデターになります。
事大主義(じだいしゅぎ)とは、小が大に事(つか)えること、強い勢力に付き従うという考え方であり、長い間、朝鮮では、中国の属国として生きていく政策がとられていました。
金玉均(キム・オッキュン)・朴泳孝(ぼく・えいこう)(日本名は山崎 永春)・徐載弼(じょ さいひつ)らの開化派(独立党)は、清朝への事大政策を取っていては、朝鮮は近代化することはできないと感じていました。
明治12年(1879年)李東仁(り・とうじん)を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎など日本の政財界の人たちや、アーネスト・サトウ(英国大使)と接触して交流を深め、翌年の明治13年に帰国します。
福澤諭吉は、朴泳孝(ぼく・えいこう)や金玉均(キム・オッキュン)ら開化派を全面支援しました。
開化派は、日本と同じような近代立憲君主制国家を理想としました。
金玉均(キム・オッキュン)らは、国王であった高宗を取り込む計画であり、高宗もその計画に了承しました。
ただし、このクーデター計画には清国がどう出てくるかが問題でした。
事件当時、清国はフランスとベトナムを巡って戦争をしており(清仏戦争)、朝鮮に駐留している清国の軍隊は手薄でした。
よって、朝鮮への軍隊を派遣することはできないだろうと楽観視してました。
そこで計画通り、12月4日にクーデターを実行します。
しかし、事件直前に、清国はフランスに敗北し、その軍隊を朝鮮へ注入してきていました。
竹添進一郎在朝鮮公使などの協力によりクーデターは成功し、開化派が新政府樹立を宣言しました。
しかし、閔妃(びんひ)(明成皇后)は、清国に密使を送り、国王の高宗の救出を要請。
それを受けた、袁世凱率いる清軍1,500人が王宮を守る日本軍150人と銃撃戦となりました。
竹添公使は日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、クーデター派は敗退。
日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民、特に婦女子30余名は清兵に婦女暴行(レイプ)され虐殺された。その有様は通州事件に似ていたといいます。
結局、金玉均(キム・オッキュン)ら開化派は3日天下に終わってしまいました。
残った開化派(独立党)の家族たちは、三親等までの近親者が残忍な方法で処刑されました。(族誅(ぞくちゅう))
族誅(ぞくちゅう)とは、封建時代の中国において、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑することである。族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。
金玉均への復讐に燃えていた朝鮮王妃の閔妃は、洪鍾宇(ホン・ジョンウ)を金玉均暗殺の刺客に抜擢。洪鍾宇(ホン・ジョンウ)は、金玉均を上海に誘引して東和洋行ホテルにおいてピストルで暗殺。
金玉均の死体は清国軍艦で朝鮮に返され、死後に死刑宣告を受け、凌遅刑(りょうちけい)に処され、四肢を裂かれ、頭は市場に晒されました。
凌遅刑(りょうちけい)とは、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間にわたって激しい苦痛を与えたうえで死に至らす刑であり、中国や朝鮮で行われていた処刑方法です。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らは、クーデターが3日天下に終わってしまったことに、失望感を感じました。
また、その幼児等も含むその近親者への残酷な処刑を聞いて、福澤が主宰する『時事新報』に、社説を掲載しました。
「この国がいよいよ滅亡するものとして考ると、国の王家たる李氏にとっては誠に気の毒であり、
また、その直接の臣下である貴族や士族にとっても甚だ不利益とはいえ、国民一般の利益を論ずるならば、滅亡こそがむしろ国民の幸福を向上するための方便だといわざるを得ない。」
「現在の朝鮮の状況をみれば王室の無法、貴族の跋扈、税法さえ紊乱の極に陥り、民衆に私有財産の権利はなく、政府の法律は不完全であり、罪なくして死刑になるだけでなく、
貴族や士族の輩が私欲や私怨によって私的に人間を拘留し、傷つけ、または殺しても、国民は訴える方法がない。
またその栄誉の点にいたっては、身分の上下間ではほとんど異人種のようであり、いやしくも士族以上で直接に政府に縁がある者は無制限に権威をほしいままにして、下民は上流の奴隷であるに過ぎない。
すでに国民はこのように国内では軽蔑され、なおその国外に対して独立国民としての栄誉はどうかと尋ねられるなら、答えるのも忍びない。」
「中国に属領視されても汚辱を感じず、イギリスに土地を奪われても憂患を知らず、ただそのように無感覚なだけでなく、あるいは国を売っても私的に利益があれば憚らないもののようである。
すなわち、かの事大党の輩がいちずに中国に従おうとし、また韓圭穆、李祖淵、閔泳穆の一派が私的にロシア政府と内通して物事を運ぼうとしているようなことは、自分のことを考えて国のことを考えないものである。
ゆえに朝鮮人の独立した一国民としての外国に対する栄誉は、既に地を払って無に帰したのである。」
(明治18年(1885年)8月13日、社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」)
事大党とは、李氏朝鮮末期の保守的な党派です。
福澤諭吉は、李氏朝鮮政府の「滅亡こそがむしろ国民の幸福を向上するための方便だといわざるを得ない。」と断言しています。
腐敗し切った李氏朝鮮政府は、自主的に国を運営していくことができず、清国(中国)への事大主義(小が大に事(つか)えること)に安心感を感じているようでは、独立国家として生きていくことはできない。
むしろ、朝鮮人として生きるのではなく、ロシアやイギリスの属国として生きていく道が、朝鮮人にとって幸福であろうと語っています。
また「中国に属領視されても汚辱を感じず」と言い切っています。
朝鮮人は、昔も今も変わらず、中国の属国として生きていくことが心地よいのでしょう。
今から132年前の明治18年(1885年)に書かれた福沢諭吉の論文は、現在でも通用するものとなっています。