谷寿夫中将の南京軍事法廷での弁明 | 誇りが育つ日本の歴史

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谷寿夫中将の南京軍事法廷での弁明

 

 

 

 

 

終戦後、東京裁判と共に行われた、中国の南京軍事法廷にて、昭和12年12月の南京攻略に第6師団長として参加した、谷寿夫中将の裁判記録です。

 

谷寿夫の弁明

 

1.谷の部隊は入城後、中華門一帯に駐屯し、昭和12年12月21日にすべて蕪湖に移動した。当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。

 

そのうえ被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。ゆえに虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。

 

犯罪行為調査表にも「中島(中島今朝吾 )」の字句が多く載せられているのは、被告と関係がないことを示している。

 

2. 谷の所属部隊は軍規厳正でいまだ一人も殺害していないことを保証できる」。(中略)

「被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などの召喚訊問を要請したい。そうすれば明瞭となろう。

 

3. 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪を論ずる根拠となすには不十分である」

谷寿夫中将率いる第6師団は第10軍に所属しており、第10軍は南京攻略の前に杭州上陸を行いました。そして、南京陥落後、蕪湖へ前進しました。

歩兵隊として、その行軍の様子を手記として書き残した人がいます。

 

谷口勝歩兵上等兵です。

 

http://ameblo.jp/hirohirobbb2000/entry-12234277402.html

 

彼のいた部隊は、南京攻略を中華門から攻めます。

 

谷寿夫中将率いる第6師団の歩兵隊ではなかったかと思われます。

この手記の中で、12月11日朝から大城門手前2000メートル地点で敵と対峙します。敵は雨花台砲台と城内から容赦無く撃ってきます。味方も負けじと応戦します。

 

中華門手前500メートル地点にきます。
間もなく南京城は夜になりますが、敵の攻撃は容赦無く続きます。
敵からの猛攻に耐えながら、味方の兵隊がどれだけ生き残れるだろう
かと思われるくらいの機銃掃射の嵐でした。

 

夜が明けると、城内への突入が始まります。
歩兵と戦車が一斉に城内になだれ込み、午後12時に南京城に日章旗が翻ました。

城内に入ると地雷がたくさん埋めてあったので、それを掘りながら中へ進みますと、置き去りにされた軍馬や軍刀などが散乱してました。

 

また、激しい撃ち合いで死んで行った兵隊は敵味方問わず、多数、倒れていました。

歩兵隊や戦車が次々に城内に行進して入城してきました。

 

翌日の12月13日、彼の部隊は蕪湖への前進命令が出ます。

再び、一昨日の激戦地の中華門から南京城を後にしました。
南京から蕪湖への道中、敗残兵でいっぱいでした。

 

この街道沿いは驚くべき近代的な銃座も持った防衛陣地が構築されていました。

 

畑に掘られた延々と続くトーチカや塹壕、無数に張り巡らされた鉄条網。

敵は蕪湖から南京へ進軍してくると思って、構築したようでしたが、一発も銃声を放つことなく、銃を捨てた敗残の陣となっていました。

 

一発の銃も使うことなく、素手で敵兵を捕まえることができました。

 

その光景を見た時、谷口上等兵は、ハッと思いました。
これから蕪湖への進軍していく我々の食料もままならないのに、この敗残兵たちのどのようにして養い、扱って行ったら良いのだろうか、と。

 

以上、「征野千里」から要約して引用。

 

再び、南京判決文に戻ります。

 

略奪、強姦は被告部隊の南京駐留期間(12月14日から21日まで)に起きている。被告部隊の担当地域である中華門一帯での放火、略奪、殺人、強姦、のあった住民について調査可能な事件は459件に達している。
として、次の判決が出ました。

 

判決主文、「谷壽夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す」

 

1947年4月26日、蒋介石の執行命令により処刑されました。
南京軍事法廷では、マッカーサーではなく、中華民国政府の統帥権を持っていた蒋介石の執行命令により刑が執行されました。

 

谷中将は、我々の部隊は南京入城後、中華門一帯に駐屯したが、12月21日にすべて蕪湖に移動した。

 

当時、中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。

と、最後まで訴えましたが、全く聞き入れられずに、極刑が言い渡されてしまいました。

 

谷口勝上等兵の手記にも、中華門は激戦地で、一昼夜、雨あられのように撃ち合いがあり、敵味方相当の死傷者がでたと言うようなことが書かれていましたので、この地域に民間人がいたと言う証言は極めて疑わしいです。

 

また、南京陥落後、すぐに蕪湖に前進命令が出され、南京城を後にしたが、南京から蕪湖への道中はたくさんの敗残兵がひしめいていたと書かれています。

そして、あたり一面は、近代的な銃座を配備し、トーチカや塹壕、鉄条網などをくまなく張り巡らしていたと、書かれています。

 

敵は、この付近で日本軍と対峙することを、想定していたわけです。
そのような場所に、一般の住民を残しておくことは考えられません。

 

住民から調査可能は事件が459件に達していると判決文にありますが、そもそも住民は避難していることが十分考えられるのに、どうやって、略奪、強姦、殺人、放火をするのでしょうか?