通州事件の真の首謀者とは?
通州事件が昭和12年7月29日に起きた当初、日本陸軍は、その首謀者を通州を統治していた、冀東(きとう)防共自治政府の殷汝耕(いん・じょこう)長官であると思いこみ逮捕しました。その後、玄洋社の頭山満の計らいで助命されます。
この事件の実行犯である保安隊5800名を買収したのは国民党政府軍であり、また、同じく実行犯である北京大学などの学生達を扇動したのは中国共産党でした。
また、保安隊の蜂起を主導した張慶余(ちょう・けいよ)は、この事件の後、国民党政府軍で出世しました。
張慶余(ちょう・けいよ)は、通州事件の3週間前の盧溝橋事件で、日本陸軍と交戦した中国国民党軍第29軍の軍長の宗晢元(そう・てつげん)と共に、秘密結社哥老会のメンバーでした。
張慶余(ちょう・けいよ)は、張硯田と宗晢元(そう・てつげん)と共に、以前から日本打倒の密約を交わしていたのです。
そもそも、この保安隊は日本の支那駐屯軍から厳しい軍事訓練を受けた精鋭達でした。また、天津に駐屯している日本陸軍から武器貸与を受けていました。
さらに、将校には日本の士官学校並の教育も行われました。
そのようにして、日本陸軍も友軍として認識していた冀東保安隊でしたが、その総隊長である張慶余(ちょう・けいよ)は初めから、国民党軍の宗晢元(そう・てつげん)と共に、日本打倒の機会を伺っていたのです。
この事件の後、コミンテルンのスパイである尾崎秀実は、同じくゾルゲ機関のスパイとして活動していたの川合貞吉に、次のように述べています。
「あれは君、支那民族の怒りの姿だよ、眠れる獅子が目を覚ました姿だ。冀東地域へ入り込んでいる日本人にろくな奴はいない。
淫売、ゴロツキ、事件屋、そんな連中が兵隊の威力を借りて威張り散らし、悪辣極まることをして、土着民を縛り虐待しているんだ。そういう政策を推し進めている日本の民度の低さに問題があるんだ。」と。
尾崎秀実は、当時の日本帝国を破壊滅亡するためのシナリオい従い、近衛政権の中枢に入り込み、日本陸軍や近衛内閣を裏で誘導していきました。
その尾崎秀実のシナリオに、見事にはめられた日本陸軍は、蒋介石国民党軍と泥沼の戦争を最後まで続け、ソ連への参戦ではなく、米国と戦争になるリスクを犯して、南仏印侵攻へと暴走していきました。
その尾崎秀実は、通州事件で残虐極まりないテロの被害にあった日本人に対して、殺されて当然であり、そもそもろくなやつらではない、日本の民度に問題がある、などと語っているのです。
尾崎には日本人としての魂はないのでしょう。
とても日本人では行えないような、残虐極まりないテロ行為を行った支那人に対して、弁護しているのです。
この通州事件により、日本国民は「支那人を懲らしめろ!」と世論が沸騰し、日本陸軍は、蒋介石国民党軍との泥沼の戦争へと突き進んでいきました。
もしかしたら、この通州事件は、尾崎秀実が仕組んだ罠だったのではないでしょうか?