通州事件 真犯人は蒋介石と中国共産党だった | 誇りが育つ日本の歴史

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通州事件 真犯人は蒋介石と中国共産党だった

 

 

 

今から80年前の昭和12年7月29日、北京郊外の通州というところで、支那人による日本人を標的にした残虐テロ事件がありました。

 

実は、このテロ事件を裏で仕組んだのは蒋介石と中国共産党だったのです。

 

「天津文史資料選集」第21集(天津人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編)に収録されている、「冀東保安隊通県反正始末記」(張慶余 執筆)から引用させていただきます。

 

これは通州事件の主犯格の張慶余(ちょう・けいよ)自ら書いた始末記になります。

蒋介石政権と日冦(ニッコウ)(日本政府)とで結んだ、塘沽(タンクー)協定の後、冀東は非武装地帯とされた。

 

次に蒋介石政権は河北省の首席・于学忠(う・がくちゅう)に密命を下し、特殊警察総隊を作り冀東非武装地帯に入れ、警備させた。

 

于学忠(う・がくちゅう)は、私、張慶余(ちょう・けいよ)と張硯田を選出し、第一総隊長と第二総隊長に任命した。

 

その営長と連長も第51軍から選び、訓練を開始した。
1935年に冀東地区に移動し駐屯した。そして、冀東防共自治政府を殷汝耕(いん・じょこう)が樹立させ、名称を冀東保安隊に改称しして、偽政権の統括となったのである。

 

私の長男、張玉珩(ちょう・ぎょくこう)は、私が偽冀東政権で有力な責任者の席に付いているという話を聞き、

 

私が国家に反したと判断し、恥ずべき父親だ、私と親子関係を切るとまで言いだし、その言葉を新聞にのせた。

 

妻の于徳三も速やかに反正の方法を講じるべきで、さもなければ親友郷党から問題視されるから逃げよう、と言いだした。

 

そこで、私は極秘裏に妻に告げたのである。「私の意思を今すぐにはっきりさせるのは適当でない。けれども、近い将来には必ず明らかになる。息子に伝えて欲しい。耐えてまち、お前の父親のこれからの行動を見ていろ」と。

 

1935年、宗晢元(そう・てつげん)が冀東政務委員会に就任して間も幕のことだった。

 

私と張硯田は極秘のうちに張樹声(ちょう・じゅせい)(国民党軍の将軍で哥老会の会員)に頼んで、「宗晢元を直接紹介してもらいたい。できれば宗に従って、抗日戦線に加わりたい」と伝えた。

 

張樹声は快諾し、すぐに手配してくれた。宗は非常に喜び、私たちと会いたがってくれたが、日冦や漢奸(漢民族の裏切者のこと)どもの目につくのを極度に警戒し、天津の旧イギリス疎開の17号路にある宗の自宅で私と張硯田と会談した。

 

その席で宗は「元々お二方は祖国を熱愛し、また最近は俊傑(張樹声のあざ名)兄が、お二方が力を合わせて抗日したいと言われていると伝えてくれました。

私は、ここに国民党政府を代表して心から歓迎の意を表します。

 

現在は、にせ冀東政権問題があるので、お二方に置かれては注意を怠らないようにしていただきたい。

すなわち、宗哲元は決して国を売りません。お二方には今日以降私に外で合わないように注意を払い、合わせて立場を固く守り、決して動揺することのないようにお願いしたい。」

 

と語った。宗は続けて「軍隊を訓練させて強化し、準備を整えて日冦の侵略を防ごうではないか」と付け加えた。

 

言い終えた宗は、準備させた一万元を、私たちそれぞれに手渡した。
私たちは宗に向かって感謝の言葉を述べ、次のように言った。

 

「私たち二人は今後、心を一つにして宗委員長に従い、国家の為に尽くします。」

私たちは宗と硬い握手を交わして別れたのでだった。のちに保安隊が通県(通州のこと)で義挙(起義)したのは、この日の会談の約束を果たした結果である。

 

盧溝橋事件発生後、宗哲元が北平(北京)にいなかったため、私は腹心の劉春台(りゅう・しゅんだい)(ニセ冀東教導訓練所副署長)を密かに北平(北京)に向かわせ、河北省首席・馮治安(ひょう・ちあん)に行動指針をどうするか伺った。

馮治安は劉に次のように告げました。

 

「今の所、我が軍は日軍同様まだ戦略が決まっていない。張隊長に伝えて欲しいのは、しばらく軽挙を控えることです。我が軍と日軍が開戦する時を待って、その時は、張隊長に不意をついて通州で義挙する一方、兵を分けて豊台を側面から攻撃し、挟撃の効果を収めようではないか」

 

さらに劉春台にこう付け加えた。
「腹心の人物を登用派遣し、第29軍参謀長の張越亭と普段からいい関係を維持するといい」

 

劉春台は、馮治安に別れを告げるとすぐに張越亭に面会を求め、良い関係を作った。張越亭もすぐに私と張硯田の保安隊を戦闘序列に加えたのであった。

 

この時、日冦の通県に駐在する特務機関長、細木繁中佐は、第29軍が通県に侵攻するのを防ぐため、特に私と張硯田を招集して、軍事会議を開いた。

会議は通州の防衛についてで、彼は、5千分の1の地図を前に私たちに地図を基にした、防衛計画を作るように命じた。

 

私は立ち上がってこう述べた。

「私たち二人は、軍人出身です。学問もなく、難しい軍用地図はよく分からない。でも、我々には自信があります。通州をしっかり守り抜くことができますし、皇軍とともに戦えば、第29軍をつき崩すことは可能です。

 

ただ、目の前にある兵力は少なくこのままではダメです。私の考えを申し上げれば、あちこちに駐留させている各所の保安隊を通州に集中させてから命令を待って、それから作戦会議をさらに開いた方が良いと思うが、いかがですか」

 

細木繁はもっともだと頷き、その案はすぐに許可された。加えて、彼は我々を忠実で頼りになると信じたらしく、各地にバラバラで生活している日僑を、保護の目的で通州に集中させることに決定した。

 

私は、すぐに張硯田と手分けして、所轄のあちこちに分駐している部隊を通県(通州)に集めるよう指示した。

 

私は、日冦が大挙して南苑を侵略し、併せて飛行機を飛ばして北平(北京)周辺を爆撃するのを見て、戦機はいよいよ近いと知った。
このまま座視しているわけにはいかなくなり、遂に、7月28日夜、通県で義挙すると決定した。

 

直ちに私は兵を出し、通州城の城門を封鎖し、市内の交通を断ち、電信局や無線台を占拠させた。合わせてニセ冀東政府を包囲し、漢奸、殷汝耕を拘束させた。

私は、同時に西倉に兵を向かわせ、特務機関長、細木を捕らえた。細木は銃声が四方から響くのを聞いて異変を察知、特務の十数人を率いて抵抗した。

 

細木は片手に銃を持ち、片手で我が軍の将兵を指差して大声でわめいた。

「お前たちは速やかに保安総隊へ帰れ。お前たちは生き残れないぞ」細木は話が終わらないうちに、我が軍の乱れ打ちにより射殺された。

残りの特務の連中は形成不利と考え、速やかに特務機関内に身を返し、門を閉じて死守しようとした。

 

我が軍は大砲と機銃で猛烈に掃射し、集中掃討したのだった。激戦は7月29日午前9時ごろに至り、日冦は一部の逃亡者を除き、頑固に抵抗したものはことごとく殲滅した。

 

日冦は爆撃機24機を派遣して、我が通県起義軍に対して爆撃を繰り返し、7時間の長きに達した。私の命を奉じて戦ってきた蘇連章の団は、対空装備がないので全く支えきれず、ここに置いて軍服を脱ぎ城を捨てて逃げた。

 

張硯田と蘇連章らの相次ぐ逃亡はこの通県反正に対する影響上、極めて不都合だった。程なく私は蒋介石から電話で招かれ、南京へ向かった。

蒋介石は私にこう語りかけた。

 

「あなたはこの度、通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。損失は私が整理して軍政部から補充するから、しばらく休んで静養し、その後再び戦線に復帰してもらいたい」

 

さらに、蒋介石は、
「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」
と問うので、私は、

 

「当時はまさに逆賊の殷汝耕をさらし首にして見せしめにし、民の怒りを鎮め、はっきりさせようと銃殺を考えました。
けれど、もっと良いのは北平(北京)の宗哲元委員長のところまで護送し、中央の法律で処罰してもらうのが妥当だ、とニセ冀東教導訓練所副所長の劉春台が阻んだのです。
と答えた。

 

蒋介石は良いとも悪いとも言わずに、私を旅館に帰って休ませ、明日、何応欽部長のところへ行き、再度協議しようと言われた。

 

1938年、改めて私は第91軍副軍長に派遣されたが、私は病気を理由に断り、遂に職につかなかった。

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以上、引用終わり。

 

通州事件の首謀者である、張慶余(ちょう・けいよ)は冀東保安隊第一隊長とて、国民党軍29軍の攻撃から日本人居留民を保護することを任務としていました。

 

しかし、張慶余は、その国民党軍第29軍の宗哲元と裏で繋がっており、日本人虐殺のための活動資金までもらっていたのです。

 

冀東政府を樹立した殷汝耕は元々、国民党軍にいた人であり、日本傀儡(かいらい)政権と言われた冀東自治政府を樹立した時、蒋介石は裏切り者として逮捕状を出していました。

 

蒋介石は張慶余に対し、
「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」

と問いただしたのは、そういった背景があったからです。

 

いつも私たちを守ってくれている保安隊の人たちを信じて生活していた、日本人たち。その保安隊が突然日本人を皆殺しにしろと、いって夜中に襲ってきたのです。

 

どれほど驚いたことでしょう。そして、見るも残酷な方法で無抵抗な女子供たちを、強姦、略奪、殺人を犯し、それをシナ人たちは楽しんでいたのです。

 

その首謀者である張慶余は、通州事件の2年前から敵の国民党軍と内通して、日本人殺戮のために準備していたのです。

 

細木特務機関長をはじめ日本人居留民たちは、まさか、張慶余が敵のスパイであったとは全く知らずにいました。

 

しかも事件後、張慶余は蒋介石から呼び出され、
「通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。…その後再び戦線に復帰してもらいたい」
と言われました。

 

つまり、通州事件を裏で画策していたのは、蒋介石だったのです。

また、「盧溝橋事件風雲編」(中国人民大学出版社刊)が盧溝橋事件から50年たった1987年に出版されました。

 

これは、抗日戦争50年記念事業として、中国の歴史書として中国共産党が編纂したものになります。

 

この中で、通州事件についても次のように触れられています。
1935年、宗哲元と張慶余、張硯田との秘密会談について書かれた後、

 

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第29軍の宗哲元は冀東保安隊を差別することなく、努力して味方として団結させた。そして、のちに保安隊が通州で反正したのは、まさにこの時の約束と直接的な関係があったのだ。

 

冀東保安隊と29軍は、ずっと極秘のうちに行き来し続けたのである。

冀東保安隊は日軍、敵警察、憲兵と日鮮浪人500人を殺害し、河北郡民の抗日闘志を示した。

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以上、引用終わり。

 

500人というのは中国共産党が得意とする水増しです。
実際の殺害された人数は250余人となります。

 

戦後、蒋介石も中国共産党も、通州事件について謝罪していません。また、日本政府も戦後、一切この事件について外交問題にしていません。

 

どんなに南京大虐殺について中国共産党から、歴史認識を改めるように謝罪要求されてもです。

 

この中で「反正」という言葉が出てきますが、これは「反省」ではありません。間違いを改め正しい状態に戻すという意味で、この場合は、日本の侵略という間違った状態を改め、日本の傀儡政権である冀東政府を倒し、日本人を抹殺すること、というような意味で使われています。

 

無抵抗な女性(妊婦)や子供達(赤ん坊)、多数の日本人居留民を、シナ人による残虐な方法で強姦、略奪、殺人を犯した通州事件は、蒋介石や中国共産党にとっては「反正」であり、輝かしい抗日戦であり、日本に謝罪するようなことではないのです。