”きょうは、すごく特別な日です” | 聞こえちゃったら、ゴ・メ・ン

”きょうは、すごく特別な日です”

なぜ、今日が大事なのか。

 

わからない人は、

 

一年前の記事を読んでください。

 

 

テレビなんかは

 

各業界の思惑で定めたような記念日にあやかって

 

なんか特集やったりしますけど、

 

そんなのとは比べちゃいけない、

 

今の日本にとって最も大切な記念の日です。

 

 

 

ちょうど一年前の記事です。

 

 

いやぁ~伸びだなぁ。

 

 

これが去年です。

 

 

ずいぶん伸びてますけど、

 

幹の太さもかなりなんですよ。

 

 

ボクの目線くらいのところでも

 

ふくらはぎくらいありますよ。

 

 

あと、低い部分の枝は払ってます。

 

 

母親の訪問リハビリに来る先生で

 

植物に詳しい人が居るんだけど、

 

こんなに成長したアボカドは見たことがないって、

 

そういってました。

 

 

 

毎年20くらいは

 

 

こういう感じで苗を持って行ってもらってるんだけど、

 

だいたい腰くらいの高さで枯れさせちゃうんです。

 

 

水なんですけどね。

 

たぶん、冬場に水をやらないんですよ。

 

ボクはもう何年もやってるから

 

水たまりみたいになってても平気ってことを知ってるけど、

 

普通、南国の木なんだから

 

寒い時期に水に浸かってたら

 

可哀そうって思うのが人情だよね。

 

 

 

 

 

きのうはこれ一色みたいな感じでしたね。

 

 

 

 

ボクは、この責任能力がどうのってやつ。

 

これに対しては全く同意できない。

 

 

発想に同意できない。

 

 

責任能力のないヤツに

 

一般人と同じ自由はないよ。

 

 

 

それまでは責任能力がある人として暮らしてて

 

何か事件が起きたときに

 

その人の自由は奪われる。

 

 

その事件の犠牲者や遺族はたまったもんじゃない。

 

 

けど、それを事前にチェックするってなると

 

ここは、やはり問題になるでしょう。

 

 

そういうこと考えたときにね。

 

 

そういう子にならないように育てなきゃ。と、

 

ここですよ。この前も書いたけど、

 

 

 

 

大谷君みたいないい子に対しては

 

「よくぞ育ててくれました」って、

 

テレビなんかでも流れるんだけど、

 

悪いことしたヤツのことで

 

「親の顔が見てみたい」って、

 

これは言わないものね。

 

 

製造者責任って騒がれて久しいけど、

 

人間だって同じでしょ。

 

 

ちょっと古いけど、

 

 

 

この最後の方に出てくる話ね。

 

 

これ、ジツは統一教会の信者の話なんですよ。

 

 

この親父さんは

 

自分の息子が統一教会の信者になっちゃったことはしょうがない。

 

 

でも、その息子が勧誘をやってる。と、

 

それを許すわけにはいかないということで

 

見つけたら、殺す。と、

 

そういう覚悟をボクに言ったわけです。

 

 

 

 

 

 

ここから異能志士村心学の話になります。

 

 

わざわざ断るのは

 

一般の方には同意できないかもしれないけど、

 

ということですね。

 

 

でも言わせてもらいます、と。

 

 

 

宗教っていうのは大前提となる物語があります。

 

 

「作り話」ですね。

 

 

これが争いのもとになってます。

 

 

ボクが二十歳くらいのときに

 

書いた文でこんなのがあります。

 

 

物事ってのは決めちまうとおかしくなる

 

 

宗教それぞれで作り話が違いますからね。

 

そうじゃない!ああだ!こおだ!となるわけです。

 

 

そこで、ボクは物語なんか要らない。と、

 

原罪なんかない。

 

理想実現の使命もない。

 

 

こういうスタンスなんだけど、

 

「じゃ、人間は何のために生きるのか?」

 

 

心配になってきちゃうんだよね。

 

生まれてきたから、生きるんですよ

 

 

なんか、そういう身もふたもない言い方すると

 

気の毒な気もしないでもないけど

 

だって、そうだから。

 

 

じゃ、どう生きるか。

 

人間はどう生きるべきか。じゃなくて、

 

自分はどう生きるべきか。

 

 

ここを考える必要がある。

 

 

そのためには自分のルーツを正しく知る必要がある。

 

 

なんて話まではしたと思います。

 

 

 

で、今日は、

 

「命は何のためにあるのか?」

 

 

 

命は使うためにあります

 

 

何に命をかけるか、ですね。

 

 

こうなるとねぇ、どう死ぬか。

 

みたいなね。

 

 

 

 

そこへ直進しがちなんだけど、

 

なかなかいい死に場所に恵まれないこともありますよ。

 

 

 

真逆でね。

 

どう生きるか。なんですよ、

 

生き抜く。

 

生きながらえる。じゃないんです。

 

生き抜く、貫くってことですよ。

 

 

結果的に、何かのことで死んでも死ななくても

 

あの人はこう貫いたんだ。と、

 

思ってたことじゃなくて、生き方ですから

 

周りの目に映ってますから、

 

行動を評価されるわけです。

 

 

 

命は使うためにあります。

 

その使い方を悔やまないためには

 

己自身を正しく知ることです。

 

 

どこから見ても、どんだけ皮をひっぺがしても

 

俺はこれなんだ。

 

これが本当の俺なんだ。と、

 

ハッキリ、理解するまで

 

自分を見つめるべきだと思います。

 

 

おそらく、これは、

 

今の時代でも

 

流されずに見つめてたら

 

20代の前半には答えは見つかりますよ。

 

 

 

逆にこんな時代ですから

 

中学や高校くらいで見つけろ!とか、

 

急かさない方がいいかもしれませんね。